レヴィ=ストロース『野生の思考』と医学。

  レヴィ=ストロースは、二十世紀最高の文化人類学者との呼び声が高い偉大なフランスの学者です。『野生の思考』や『悲しき熱帯』等の著作で有名です。

 さて、レヴィ=ストロースは『野生の思考』のなかで、未開人の医に対する考え方を次のように考察して書いています。

 真の問題は、キツツキの嘴に触れれば歯痛がなおるかどうかではなくて、なんらかの観点からキツツキの嘴と人間の歯を「一緒にすること」ができるかどうか(病気の治療はこの一致のさまざまな過程的応用例のうちの一つにすぎない)、またこのように物と人をまとめることによって世界に一つの秩序を導入するきっかけができるかどうかを知ることである。けだし分類整理は、どのようなものであれ、分類整理の欠如に比べればそれ自体価値をもつものである。

 現代の医学のように、科学を絶対的な前提としている私たちとしては、このような「未開人」の考え方はかなり奇異に映ります。しかしレヴィ=ストロースは卓越した知性をもって、そういった未開人の思想は、科学が発達した現代人の思想に比べて「思想の形態」が異なるだけで劣ったものではないと喝破したのです。そしてその「思想の形態」とは、「○○をしたから△△が起こった」といった因果律ではありません。「○○があると△△がある」といった「関係性の科学」といったものでしょうか。

 ところで仏陀はすでに2500年前に「これがあるからそれがある。これがあってそれがある」と言っています。因果律と同時存在、両方あることを2500年前にすでに考察しています。偉大だと思います。同じようなことをレヴィストロースは、現代人は因果律重視、未開人は同時存在重視というだけであって、どちらの知性も優劣があるわけではないということを、神話研究を通じて考察したのでした。レヴィ=ストロースは、異なった部族間で、登場人物は同じなのに結論が異なる神話が多数あることに気付きました。そこでレヴィ=ストロースは「結論が大切なのではなくて、神話を構成する登場人物や舞台設定自体に意味がある」と考えたのでした。このことは現代医学において、考慮されてもいいと私は思っています。

 そのことをさらに考える上で、中医学におもしろい言葉があります。「医」の包括的なイメージです。古代中国の『通義録』です。

草根木皮これ小薬、鍼灸これ中薬、飲食衣服これ大薬、身を修め心を治めるはこれ薬源なり。

 草根木皮は今でいう「薬」です。「医」において、薬は最も効果が少ないものだという認識です。鍼灸は中薬で、飲食衣服は大薬だと中医学では考えています。身を修め心を治めるとは、生活習慣に気を配り、慈悲の心をもって生活するといったことでしょうか。

 今回のコロナ騒ぎでも、この『通義録』の考えからすれば、まずはワクチンではないと思います。そもそもワクチンは予防のためですので、本質的には薬ではないことを考えますと、ワクチンと比べるのは、鍼灸や衣服飲食、心身を修めることになりましょう。そういった誰しも納得できる対処ではなく、ワクチン接種が世界的に強制的に(同調圧力も含めて)行われていることは、やはり異常なことだと考えざるを得ないと思います。

 そして中医学で最も大切なのは「身を修め心を治める」ことです。チベット医学では、チベット医になるためのテキストで「菩薩の誓い」を学ぶようです。(チベット医学入門より引用)

 生きとし生けるもの一切の幸せのためにわが菩薩心を現わさせたまえ。そして、力強くいきいきと高めさせたまえ。限りなく、果てしなく。

 チベット医学を学ぶ学生は、まず「薬源」について徹底的に学ぶのだと思います。私は北京大学医学部で学ばせていただき卒業しました。素晴らしい大学でした。西洋医学の学校でした。日本の医学部とやっている内容はほとんど変わらないと思います。ただ、医学部では、「心」の大切さを学ぶ授業は一つもありませんでした。近年飛躍的に医学部で学ぶ知識が増えていることがあり、しょうがないのかもしれません。しかし「医」の本質を考えますと、多少授業開始が遅れても、私としては授業の最初に「慈悲瞑想」をするなどが、今の医学部教育で最も大切な気がしています。医療現場でも同じかもしれません。朝のカンファレンスで最初に「慈悲瞑想」をみんなで祈る。宗派の違いがあるなど難しいかもしれませんが、それなら同じような内容のことを医療従事者皆で唱和する。私はこのたった5分の時間が、もしかしたらものすごい素晴らしいことにつながる可能性がある気がします。慈悲瞑想とは上座部仏教の祈りです。クリスチャンならば「聖フランシスコの祈り」でもいいと思います。

慈悲瞑想

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回)

私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
私の親しい生命に悟りの光が現れますように
私の親しい生命が幸せでありますように(3回)

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

私の嫌いな生命が幸せでありますように
私の嫌いな生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな生命の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな生命に悟りの光が現れますように

私を嫌っている生命が幸せでありますように
私を嫌っている生命の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている生命の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている生命に悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)


聖フランシスコの祈り

主よ、わたしを平和の器とならせてください。
  憎しみがあるところに愛を、
  争いがあるところに赦しを、
  分裂があるところに一致を、
  疑いのあるところに信仰を、
  誤りがあるところに真理を、
  絶望があるところに希望を、
  闇あるところに光を、
  悲しみあるところに喜びを。

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
  理解されるよりも理解する者に、
  愛されるよりも愛する者に。
  それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
  許すことによって赦され、
  自分のからだをささげて死ぬことによって
  とこしえの命を得ることができるからです。

 話が回って最初に戻ります。レヴィ=ストロースは「人間の意識の中心には聖なるものがなければならない」と書いています。中医学やチベット医学の考えと同じです。まずは聖なる意識、上記させていただいたような「慈悲瞑想」や「聖フランシスコの祈り」のようなものが、意識の中心になければならないのだと思います。それが人として最も自然であり幸せに生きる道なのだと思います。

 今世界中で恐れられているコロナウイルスについて、中医学や「野生の思考」的視点から考えますと、「心身を修めているか」「飲食衣服はしっかりしているか」を振り返ってみることが自然だと私は思います。実際に心ある医師の方々はそのような観点からいろいろ提言なさってくださっています。たとえば下は「北海道医師有志の会」のものです。

http://honbetsu-cl.com/img/cobito.pdf

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 まずは食事からだということですね。私はこのような「北海道医師有志の会」の医師の方々は素晴らしい取り組みをなされていると尊敬しています。私の研究としましては、上記に「マグネシウム」も加えるとよいのではないかなと勝手に思っています。ほうれん草やあおさ、もしくはにがりを数滴加えた水を飲む、塩を「天塩」などのマグネシウムが入ったものを使って料理するなどもいいかなと私は思っています。

 私なりにまとめると、今回のコロナワクチン騒動について、レヴィ=ストロース流にいえば、「コロナウイルスに対して必要なのは、慈悲心や健康的な生活、健全な食事。それでもコロナに感染してどうしても治らないならば薬」という順序になろうかと思います。これが「未開人の思考」だと私は思います。そして未開人の思考は、決して現代人の思考に劣ったものではなく、むしろ私たち現代人がもう一度思い出す必要がある思考のように思います。

※以上の記事は私個人の見解であり、私に関わる人や組織とはいかなる関係もありません。

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