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紋別北高等学校インターアクトクラブ

高2の1968年だったろうか、なにやら「インターアクトクラブと言うものを創設するのだが、君もメンバーにならないか」と勧められた。あれは英語の先生だったろうか?

そこで、ホイホイとメンバーになると、親友の加藤から「お前が会長やれ」と押し付けられた。彼は良い意味でも悪い意味でも僕の人生に影響を与えた人物である。

インターアクトクラブに参加しての最初の印象は、自分の経済レベルからすると結構な予算があったこと。市のロータリークラブの支えと思う。それをどのように使ったかは覚えていないが、一切無駄なことに使わなかったのは保証できる。

■バッジ

高校卒業前にプレゼントして頂いたアルバムがある。その表紙に「なくさないように」留めておいたのがインターアクトクラブのバッジ。表紙をめくると、メンバーからのメッセージがあり、1969年3月9日と自分の字がある。

インターアクトクラブのバッジ。


■姉妹都市ニューポート市

紋別市の姉妹都市はアメリカ西海岸オレゴン州のニューポート市だ。姉妹都市提携は、このインターアクトクラブが出来たときと思っていたが、調べてみると、数年早い昭和41年(1966年)のようだ。

その姉妹都市から、確か1968年の秋頃に3名くらいが親善訪問にきた。彼らが高校見学にも来ることになると、英語の先生から「お前が学校案内しろ」と言われた。「えっ、先生がやらないの?」と驚いたがやるしかない。

当時紋別で外人を見ることはまずなかったので(教会に牧師さんが一人いたと思うが)、訪問団の人たちから学校側に、生徒たちと質疑応答できる場を設けて欲しいと言うような要望が出た。そこで、図書館を使うことになり、20名以上集まったと思う。この時も事前に英語の先生から「お前がやれ」と言われ、なぜか一人で通訳兼議事進行する羽目に。まあ、下手な通訳だったが何とか終えたときは、「基礎英語と続基礎英語をやってて良かった」とラジオ英会話に感謝した。


生徒たちからの質問が始まる前、外人さんの一人が、「良い質問をした人にはこれをプレゼントします」と50セント硬貨を見せた。それは二人の生徒の手に渡った。

お金を上げるというのは「どうか」と思ったが、その実、僕も欲しかった。みんなの通訳をして頑張ったのは僕だったから、「もしかすると」と淡い期待をしたが、そのままで終わった。だからと言って「下さい」なんて恥ずかしいことを言える訳がない。日本人だもの。

別れ際、外人さんから「交換留学生でニューポートにいらっしゃい!」と誘われ「はい!」と答えた。オホーツク海を眺めては「絶対行きたい!」と夢を膨らませていたが、数カ月後、講堂での集まりがあると、一人の女子がニューポートに行くことになったと壇上で紹介された。

50セント硬貨も交換留学生もスルーされ悔しい気持ちがあったが、「ま、人生、そんなものだ」との気持ちもあった。そんなに固執しない性質なのだ(笑)

■アルバムの写真

プレゼントしてもらったアルバムの中の創設当時の写真を記録に残そうと思う。このままだと、いずれ捨てられる運命だろうから。どこかで誰かが懐かしく思ってくれると嬉しい。

自分が写っているので削除して欲しいという人がいたら連絡をください。削除するかぼかしを入れて対応します。

前列には、大変お世話になったロータリークラブの人たち。
前に座す私。
何やらスピーチしている。

何やら質問か意見を述べている親友。
それを眺めるロータリークラブ会員。
スピーチして下さるロータリークラブ。


■現在はインターアクトクラブ局

調べてみると、今なお、創設当時からの活動が続いているようでうれしい。ここで紹介したバッジも継承されているのだろうか?

追記 2023/06/29】この記事をブログ「私の日常」でシェアしたところ、このようなコメントが寄せられましたので紹介いたします。当時のインターアクトクラブの皆さん、素晴らしい活動ありがとうございます。

タロット&西洋…
1983年、大韓航空機撃墜事件(乗員269名死亡)が起こった時に、数々の遺留品が紋別の海岸に打ち上げられました。
その時、北高のインターアクトクラブが、捜索のボランティアに加わっているのを見て、胸が熱くなった記憶があります。感謝。

「私の日常」へのコメント


(まこと)


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