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紋別流氷祭り(写真追加)
《2023/07/31 当時の写真が出てきたので追加しました。》
海を見るのが好きだった。水平線と交わる空を見て「いつか、この空の続くアメリカに行ってやろう」と思っていた。
■流氷が好きだ
灰色の砂浜が好きだった。それさえ埋め尽くす、真冬の流氷も好きだった。
流氷が水平線に現れると寒さが一層厳しくなる。着岸が待ち遠しかった。流氷が岸までやってくると、次は、砂浜に押しあがってくる。この時、流氷の塊がぶつかり、擦れ合って「ギー、ギー」とか「ギュー、ギュー」と、泣くような音を上げる。深夜の静けさの中、布団の中でその音を聞くのも好きだった。
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流氷の下に岩が見える。
もしかすると南が丘海水浴場の岩場かも知れないと想像するだけで楽しい。
![](https://assets.st-note.com/img/1690790618017-muYTpUutis.jpg?width=800)
■第3回紋別流氷祭り
北の街に、ましてや、こんなにしばれる(寒い)時期に観光客は来ないと思っていたが、市は、それを逆手に取り、「紋別流氷祭り」を開催した。1963年(昭和38)のことだ。札幌に「雪まつり」があるなら、紋別は「流氷祭りだ!」と、大いなる対抗心を燃やしていたかどうかは分からないが、そうだとすると紋別魂みたいでいい。しかも、世界的にも流氷が来る街は珍しいし。
記憶の中の第1回目の規模は小さく、最初の模索のようなものが感じられた。氷の滑り台があった。短かったが滑るとお尻がしゃっこかった(冷たかった)。
写真は1965年(昭和40年)の「第3回紋別流氷まつり」のもの。
行くと、HBC(北海道放送)がリクエスト曲を流すラジオ番組が行われており、長い行列ができていた。僕が並んだのはかなり後ろだったので間に合いそうもなかったが、運よく最後の一人に選ばれた。マイクを向けられてリクエストしたのはダークダックス歌う「アンジェリータ」。
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■余談3連発
●学生帽
母は「外出する時は学生帽かぶんなさい」という人だったので、結構、言うことを聞いていたが、これが、その証拠でもある(笑)。もしかすると、当時の学校の指導でもあったのかも知れない。
●HBCテーマソング
今のは知りませんが、当時のHBCのテーマソングはこんなのでした。メロディーも覚えています。
♪HBC HBC あなたと私のHBC
みんなの夢と 希望を乗せて
伸び行く 伸び行く HBC♪
●網走の流氷祭り
紋別が流氷祭りをすると網走も3年後の1966年から流氷祭りを始めた。それを知り僕は紋別に「負けて欲しくない、頑張って欲しい!」と思った。網走は刑務所で全国的に有名だった上に、TVやラジオの支局もあったので(記憶が正しければ)、そうしたメディアを使ってニュースにすることが出来るからだ。でも、紋別はそれが出来ない。
もしかすると、当時の紋別市民も僕の同じ思いだったかもしれない。
(まこと)
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