I'll be back(また来る)とお婆さんは言った

整形外科に行ってきた。病院には極力行きたくないのだが、仕方あるまい(詳細省く)。

受付でマスクは? と聞かれた。私は「持っていません」と答えた。受付の女性が「ここは医療機関なので次回はマスクの着用をお願いします」と言った。私は「はい」と答えた(多分しない)。

3人掛けのソファーの真ん中が空いていたので座る。すると、右隣の70代と思われる女性がマスクを両手で押さえた。マスクを両手で押さえながら私の方をちらちらと見ている。

病院内でノーマスクは私ひとりだ。彼女にはきっと病原菌をばら撒いている極悪人に見えているに違いない(静かに黙って本を読んでいるだけなのだが)。

多少、申し訳ない気持ちもあったが、意味のないことはしたくない。気にせず本を読んでいた。

しばらくすると、女性は席を立ち、受付に「また来る」と話し、病院から出て行った。

私はその様子を見て、私が属する(?)Ⅹでのコロナワクチン、マスク反対派は極々少数なのだと改めて思い知る。ワクチンを妄信し、猛暑日でもマスクをする人たちを頭が悪いとかバカだとかこき下ろそうが、その人たちこそ現実では圧倒的多数なのだ。

とはいえ、世間はまだこれかとガッカリはする。約4年かけてメディアと政府と医師会が一体となってやったコロナプロパガンダの洗脳は、多くの国民に浸透しきった。特にお年寄りには。

先日、ただの風邪を感染症分類の5類にするという話があった。そこから浮かび上がるのは、感染症を名目にして国民を管理下に置き、意のままにコントロールしたいという思惑だ。

義務にしなくても、日本人は同調圧力でワクチンを打つしマスクをしてくれて、更に薬をありたがってくれる。国や医療利権側からすれば、ここに目をつけないはずがない。「思いやり」を利用できる国民性なのだ。だからこそ感染症に目を付けた。新型コロナで味を占めた。

ちなみに病院で読んでいた本は磯野真穂「コロナ禍と出会い直す 不要不急の人類学ノート」なのだが(素晴らしい本)、その中にこんな一節がある。

自粛の名の下に行われた感染対策のあり方を眺めると、日本は明文化されない慣習の力によって社会の統合をいまだ図ることのできるユニークな国家であることがわかる。20世紀の人類学者が好んで使った用語を用いるのであれば、日本はいまだ原始的(primitive)な側面を残す社会ということだ。

感染症対策は日本人の性質にハマった。これを利用しない手はないと思うのも無理はない。それで普通の風邪まで5類にする。冗談としか思えないがどうも本気らしい。通常なら野党やメディアが「風邪が5類はおかしいでしょ!」と言ってくれてもよさそうだけれど、なぜか言わない。

もうほぼ永遠に日本だけが病院や介護施設での面会制限やマスクの着用を強制される。真夏の猛暑日でも汗だくでマスクしろ言われるかもしれない(いやもうしているけど)。そしてふたたび感染症が流行ればワクチンを薦めてくるのだろう。ワクチンは健康な人に処方できる打ち出の小づちということも今回分かったからだ。

しかしその結果はどうなるのか。おそらく人口は減り続け国力は衰退する。医療費は膨大な額になり医者は肥え太るが、国の借金は増え、国民はかえって健康を害し、若者は恋をしなくなる(だってマスクしていて顔が分からないし、無症状だけど感染者かもしれないんでしょ? PCR検査で陰性証明を見せてくれなきゃ怖いじゃない)。

この流れはもう止まらないような気がする。それを阻止すべく動いている「反ワク」がいるが、その活動は打算的で動機が不純なものが多いし、視野狭窄に陥り「とんでも」を支持している人も多く、まさしくエコーチェンバー化している人たちのように私には見える。

多数を占める一般の人たちからは、彼らの主張する内容を見て「頭のおかしい人」とレッテルを貼られてしまう確率の方が高いだろう。

逆転する目があるとすれば、新型コロナが人工的に作られたもので、それはワクチンをセットで売るために〇〇が企んだこと、なんて陰謀めいた話が実は本当で、そのニュースが世界中を駆け巡り、それに加担した要人が片っ端からとっ捕まるというようなことが起きれば、ひっくり返る可能性はある(あんのか?)。


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