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老後の生活を妄想する

私にとって、「老後」と「リタイア後」がほぼ同じ文脈になってしまっている。
例えば満50歳で早々退職し、その後は無職で悠々自適に過ごすとする。
人生100年時代を思うと、単純計算すれば、リタイア後の生活が50年続くということだ。
50年の月日、どれくらいの重みがあるのだろうか。
今の私は、まだ50歳に到達していないから、実感としては分からない。
人生は、後半に行くほど過ぎるスピードが速く感じられるとも言うから、0歳~50歳のスピードと、50歳~100歳のスピードの感覚を、単純に同じとはとらえれられないかもしれないが。とにかく、途方もなく長い年月のようには感じられる。
0歳~今までの人生は、とにかくいろんなことがあり、色んなことを吸収したはずであり、毎日が忙しかった。バランスとして「忙しい」に振れてきた結果、今こうなってしまっている。
自分自身の個性に合わせてチューニングするのであれば、もう少し「ゆっくり、じっくり、時には立ち止まって」歩くことができたほうが良かったはずだ。
そうしたら、人生100年時代、マイペースに歩きながら、70歳くらいまで働く人生が良いような気もしたかもしれない。

さて、仮に50歳で完全退職したその後、私は何をしようか?
何も思いつかない。
最近は「旅」も飽きてきている。
どこかに移動して、その土地のものを食べる。
美味しいけれど、もはや新鮮な感覚よりも、同じことの焼き直しに感じるフェーズになってきているのだ。

アートや、〇〇道の修行など、投資対効果としての見返りを求めずにその道に邁進するようなことに、大いなる時間を費やすのは、あまり具体的にイメージできているわけではないが、単純には「良いな」と思う。
ちょこっとかじるような中途半端なかかわり方ではなくて、俗世を捨ててその道に邁進しているような感じで生きていくこと、第二の人生の指針としては個人的には悪くない。

70代に突入した親戚などを見ていると、思ったこと(悪口)を本人のすぐ近くで大きな声で言ってしまうという行動を、取るようになるらしい。嘘のような本当の話なんだなと分かった。高齢者になってから、心地よい人間関係を作ったり、キープしたりするのは、本当に難しそうだ。
一番幸せな状態って、「誰の介助も必要とせずに」「自身の心の安寧が保たれていて」「食うに困らず、日々生きていることに感謝できる」そんな感じだよなと思う。私自身は、70代はまだ多少の社会生活を営みたい気がするが、80代以降は、独り何かの道に邁進している、人生のフェーズの中でも最高だと思えるような、日々の暮らしができたら良いなと思う。
まだ準備期間は長くありそうだし、80代を迎えるころまでに、健康状態を良好に保つことも決して簡単なことではないから、今から心して頑張らないといけんです。
80代になるころは、収入も支出も最小限の暮らしでいいし、日々に刺激は要らない。単調な暮らしを坦々と紡いでいくのがきっと幸せだと想像する。
実際の80代の気持ちは、なってみないと分かりませんが。

話をもとに戻すと、では50歳から80歳までの間は何をしたいのか?
したいことが、具体的にはないんですよね。
80代を迎えるための準備に30年間も要らないしね。
今この日々の中で、24時間を費やしてこのことを考えつくす必要はないが、頭の片隅にテーマとしては据え置きながら、自分が50歳を迎えるまでに、「リタイア後の50年間に必要な資金の試算と準備」それから「リタイア後すぐにやりたいことの精緻化」を進めていきたいなと思う。

こんなことを思う自分は、「いま」何をしたいのかもあんまり明確ではない。無意識の前提として、自分自身がもう今後「化ける」ことはないと仮定しているようにも思う。ただし、大器晩成型の人材も居る訳だから、私自身がまだまだ今後良い意味で変化していく可能性もあり得る、ということは認識しておきたい。自分がちょっと先に、何者になるのか?はまだ未知数の部分もある。今は、何者にもならずにリタイアすることを一番に望んでいるのだが、潜在意識の中から「本当に」私がそれを望んでいるのかどうかは自分自身で気づくことができていない。

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