「動物化するポストモダン」とシン・エヴァ
映画公開から2年以上が経過し、気持ちもだいぶ落ち着いてきたので、どうしても気になっていたことだけ書き残しておきたい。
シン・エヴァの自分の評価についてはLAS関連含めてpixivで書き散らかしたのでここでは詳しくは書かないが、初見時にあまりの怒りでデビルマンに変身しそうになった後、他の人の考察やらを血眼になりながら調べて、色々含みを持たせた話だったんだろうと己を無理矢理納得させたものの、それはそれとして設定ガバガバすぎやろ……という意見を未だに持ったままのポジションにいる。シン・エヴァについては「しぶしぶ愛している」という書き込みをどこかで見かけたけれど、自分の心情をよく現していて、言い得て妙だと思った。
「Q」以降、自分が決定的に受け入れられないと感じた描写が6つある。
①14年経過ギミック
キャラクターのバックボーンが消え、人間関係や設定がなんでもありになった。「なんでもありにできるようになった」と感じた。
②エヴァの呪縛
原理不明。これもなんでもありになったと思った設定のひとつ。「ANIMA」のスーパーエヴァと同一の存在となった碇シンジのように、擬科学でもいいから説明があればまだわかるが、作品内での描写がないので理解不能。
③冬月先生1人で管理・運用される浮遊要塞ネルフ本部
「破」までは存在していたリアリティの欠如。世界規模の厄災のはずが、主要な登場人物以外の人間がほとんど出てこないこともこれに拍車をかける。何がQだよ!
④加持さんのVOLT特攻によるサードインパクト阻止
エヴァいらんかった。
⑤コミュニケーションしない登場人物たち
シン・エヴァ終盤の聖人碇シンジが最も酷いが、双方向のコミュニケーションがほとんど存在しないことへの違和感。
⑥ネオンジェネシス!
お前自分がぶっ壊した世界ほったらかしてどこ行くつもりやねん。
特に④と⑥は、エヴァの世界観と作品のメッセージ性を根底から覆すヤバい描写だと今でも思っている。ヘリで特攻するくらいで世界壊滅させるインパクトが止められるなら、エヴァもネルフも必要なかったはず。仮にオーパーツ的なアイテムが存在し、それを持って加持さんが特攻したからサードインパクトが起こらなかったということだとしても、それなら最初から使徒に対して使うべきだし、子供を戦わせている場合じゃないだろう。「ネオンジェネシス!」に至っては、世界やり直しにしろ世界再構築にしろ、碇シンジが自分が壊した世界とそこに住む人たちを全部放り出して駆け出していったようにしか見えない。あるいは精神世界の話なのか、結局碇シンジの「夢オチ」と考えるのが一番しっくりきてしまう。
不思議なのは、この手合いの話をした時に話が通じる場合と通じない場合があることで、それがずっと疑問だった。ただ、それはふと思い出して『動物化するポストモダン』を読んだことで個人的に得心がいった。
『動物化するポストモダン』は、主に1990年代から2000年代のオタク文化に焦点を当てた新書形態の論考で、有名なので概略は割愛する(ググってください)が、本書の中にガンダムとエヴァを比較して扱っている箇所がある。エヴァが社会現象になっていた20世紀末当時、確かにガンダムとエヴァはよくその内容が対比されていた。
本書によれば、ガンダム以前とエヴァ以降の作品の構成には大きな差があるという。
ガンダムには、作品内で独自の歴史設定があり、ガンダムファンはその年表の整合性やメカニックのリアリティを熱烈に語りたがる傾向が強い。それを本書の中では、「大きい物語」をファン全体で消費する「物語消費」と呼んでいる。
他方、エヴァンゲリオン(出版されたのは2001年のため、ここではTV版・旧劇)のファンは、エヴァンゲリオン世界への関心というよりかは、むしろ主人公への感情移入やキャラクターのデザインや設定への関心が強い傾向にあるという。それは「大きい〝非〟物語」であって、ファンは作品の物語ではなくキャラクターや設定の情報の消費を主目的とすることから、「データベース消費」と呼んでいる(かなり端折ってはいる)。
読んでいて、なるほどな、と思ったのは、自分は「物語消費」の傾向が非常に強いということ。確かに自分はガンダム好きだし、pixivでしている二次創作めいた自分のお話しでもオリジナルの本編との整合性をやたらと気にするし、後日談ばかり書くし、エヴァを観ている時もこの傾向が強い。エヴァの中でもわちゃわちゃと細かい設定が多い「ANIMA」が好きなことは特にわかりやすい。
エヴァファンがエヴァの世界観への興味が希薄かどうかは一括りにしすぎだと思うし、「データベース」的なIPの消費の仕方が悪いとも個人的には思わない。どちらがいい悪いという話ではないと思う。実際、何年も前から流行っている「異世界転生もの」などは、作り込まれた世界観ではなく、異世界転生という「データベース」の上で読者がいかにカタルシスや萌えを感じられるシチュエーションを作るかというところに重きが置かれている点で、「データベース消費」の最たる例だろうと思うし、サブカルチャーどころか世の中全般のコンテンツがこの「データベース消費」の傾向にあると思う(そもそも自分だって、二次創作めいたことをしている時点でデータベースとしてのエヴァをどっぷり消費している)。ネットの膨大な情報の海の中から受け手のニーズに合わせたパーツだけを抽出・合成して画像を作成する「生成AI」の出現は、多分「データベース消費」をこれからさらに加速させていく。
閑話休題。
シン・エヴァを物語ではなく、碇シンジ(の視点を通した、おそらく視聴者自身や監督自身)の感情の動きに重きを置いて観た場合、他の設定の大部分は「エヴァらしい」要素があれば、大した問題ではないのかもしれない。例えば、「14年経過」や「エヴァの呪縛」は、アニメという虚構の中に閉じこもっているオタクを揶揄したメタ・フィクションとしての舞台装置なだけであり、上記①〜⑥を気にする自分のような人間はそのメタファーに気づかない愚か者ということになる。雑な設定や描写は「敢えて」であり、そこを細かく気にする人間ほど「虚構の中に閉じこもった子供」だと暗に示した皮肉というわけだ。「セカイ系」の作品の設定にいちいち細かいツッコミを入れるなというのも、まぁわからないでもない(作品内の描写に説得力がありさえすれば気にしないのだが)。
ただ、そういった作品の見方は出発点がそもそも自分とは大きく異なるので、物語の中で完結させてほしかった自分の作品の評価とは、平行線のまま重なることはないだろう。
シン,エヴァの賛否については、もし視聴者の年齢による統計がとれると面白いだろうなと思う。『動物化するポストモダン』の言説に従うのなら、否定的な意見は「物語消費」に慣れた40代以上のファンに多いのかもしれない。逆に若いファンの方が絶賛している人が多いというのも、「データベース消費」の観点からは頷ける。90年代後半に中高生だったオタクを第3世代と呼ぶらしいので、30代以下の人に多いということだろうか。
TV版・旧劇は、意欲的で挑戦的な複数のスタッフの化学反応が重なり、それが20世紀末の時代性とも相まって、この旧来からの「物語消費」世代と新しい「データベース消費」世代の両方をうまく魅了した奇跡的なコンテンツだったのではないかと思う。
TV版・旧劇を物語の中で読み解こうとした人ほど、シン・エヴァに「裏切られた」「逃げた」という感想を持つ可能性は高い。逆に、TV版・旧劇をデータベースとして受け取った人ほど、おそらくシン・エヴァは違和感なく受け入れられる。旧も新も、掘り下げない人にとっては細部が意味不明な点は大差ないからだ。シン・エヴァ公開当時、内容の称賛よりも「エヴァからの解放!」「おめでとう!」ばかりがネット上に溢れ返ったことも、この点をよく証明しているように思う。
もちろん全ての作品が「物語消費」と「データベース消費」のいずれかに区分できるとは思わないし、0か100かということもない。大事なのはバランスだろうと思う。ただ、シン・エヴァについては、上記①〜⑥に限らず、自分の許容範囲を超えている設定や描写が多く、納得できなかった。素晴らしい映像表現や音楽があったとしても、メタ表現が過剰で、キャラクターや設定が置き去りにされ過ぎていると感じた。今なお、自分の中では作品として成立していないだろうという思いの方がどうしても強い。
もし自分のような見方が「エヴァをわかっていない」「エヴァに他の作品のようなエンタメ性なんか求めるな」ということであれば、自分は最初からこの作品の視聴者ではなかったのだと思う。寂しいけど。
旧劇の時以上にファンの分断を生んだシン・エヴァは、現代が「物語消費」と「データベース消費」のどちらが優位かという観点からはとても興味深い。
本書の中で、著者はデータベース消費の突出した例として、最初物語というキャラクター背景を一切持たずにデザインされた「デ・ジ・キャラット」(懐かし!)を挙げているが、一方で「センチメンタルグラフティ2」や「下級生2」などの所謂美少女ゲーム(ギャルゲー)などでは、舞台設定やキャラクター設定を誤ったがために大炎上し、会社自体が傾いた、などという大惨事を招いた例もある。
シン・エヴァ公開当時、「卒業」というキーワードがネット上で跋扈していたけれども、アスカやレイやカヲル君は映画やゲームのコラボキャラとして未だに消費され続けている。アスカなどはすでに惣流も式波もごっちゃになって使われていたりするが、ほとんどの人にとっては「エヴァンゲリオンを代表するキャラクターの1人」でありさえすればいいのである。そこにもう物語は必要ない。シン・エヴァで、公式が自ら捨てたのだから。
作品内のバッグボーンを捨て、データベース上のエヴァのアイコンとして使われ続けるIPの人気がどこに行き着くのか。もう少し見守ってみたいとは思うものの、以前ほどの熱量がなくなりつつある。
ついに自分も卒業が近いのかもしれないと思う今日この頃です。
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