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母の海苔巻き

3.11の大震災前、がんに罹ったり離婚したり・・・の数年間はどん底でした。その頃書いた記事です。

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「大人買い」

「大人食い」
たまに聞く。なんでも、子供の頃の満たされないモノ、コトの反動で、大人になり自分の自由意志により子供の頃の
「飢え」
「渇き」
を満たす為の行為だそうだ。その気持ちわからぬでもない。
ショッピングセンターに行って、ソックスを3足買った。散財したとつくづく思った。仕事の時は毎日ストッキングだが、私にしたらあれも贅沢品ではある。
寒いのでストッキングの上に履いて通勤する為で、1足でも良かった。
オシャレなどどうでも良い私だ。

大人買い、食いは縁がない。求める気もない。満たされてきたとかそういう考えもない。
毎年、ここらではお高めの、某回転寿司店から
「お誕生月ご招待、バースデー盛り無料サービス」
なる葉書が届いた。私は本来寿司は好きではない。
酢飯が苦手なのと、値段を気にしながらでは疲れてしまうのだ。
子供達が好きなのでこれまでは時々付き合っていたが、今はその必要もない。

が、せっかくなので行ってみたがやっぱり寂しくなって帰った。

私にとっての寿司の原点は、海苔巻きである。
そしてそれは、運動会のお昼時が全てである。
田舎町の小学校の運動会は、いつもとてもにぎやかなものであった。
年の近いイトコ達が同じ小学校に通っていた。
お昼時はだから身内で固まって皆で食べるのが決まりであった。
本家の叔母は大変な料理上手で、大きなお重にそれこそ色とりどりのご馳走を詰めてきた。毎年毎年のことだ。

そのほかにも子供達のおやつ、それはわたしたち甥っ子姪っ子の分、そして、それに連なる親の分、祖父母の分まで用意万端で、叔母のお陰でいつも広げたシートの上は華やかで賑やかなものだった。
私の母はいつも体調が悪く、昼のお弁当を用意できないほどの時期と運動会が重なるのだった。

そのあたりも考慮して、他の伯母さん達も沢山持ち寄る。私にも食べろ食べろと勧めてくれたし、具合の悪い母が無理して見に来たりすると同じように気遣ってくれるのだった。
だから私は、よその家のご馳走で運動会を過ごしたのだ。
ある年、珍しく母が重箱を出したことがあった。
私には意外なことで、どんなモノを作ってきたのか少しわくわくした。
いつもご馳走になってばかりでなんだか肩身が狭いと気にし出す年ごろにもなっていた。
皆それぞれ真ん中に重箱を出し、子供達が午前の部を終えて我先に駆け寄る中で蓋がとられる。
ほかの重箱の色とりどりのご馳走に混じって、母の重箱の中身は海苔巻きだった。
私は息を呑んだ。
その海苔巻きは、真ん中に具のない、白いご飯と海苔だけのものだった。
子供心に一瞬空気が変わったのを感じた。
しかし、皆、子供達も母の体のことは知っていたので、労わるような言葉も投げかけられていたのだが、私にはそれがどうしてもどうしても、惨めになるだけでしかなかった。
貧乏くさく、実際家は貧乏で、いつもいつもお金のことで父と母が悲しい口論をしていた。
そんなことも知れてしまうようで耐え難い。

食べモノに文句を言ってはいけません。
もちろん私は何も言わなかった。

でも、その海苔巻きはその賑わいと、スピーカーから流れてくるマーチと、沢山の旗と、あれはそう、運動会は春のことで、そうでなくても心浮き立つような時期だから余計に寂しく感じられた。

なにも、わざわざ作ってこなくてもいいのに。
干瓢は煮含めてからでないといけないから、体調が悪いならせめて、キュウリくらい真ん中に入れたらよかったのに。
むしろみんなの好意に甘えたらいいのに。
これだったら、おにぎりの方がまだ良かったのに・・・・

私は心の中で、母のしたことを皆がどう思うかと恥ずかしさでいっぱいになっていた。
しかし半面こうも思っていた。
いつもいつも、いただいてばかりでは申し訳ないからと一生懸命に作ったんだろうな・・・
母なりの、今の精一杯がこれだったんだろうな…
でも・・・でも・・・

子供達は正直で、箸が伸びるのは母の作ってきた具のない海苔巻きではなく、他の重箱の色とりどりの海苔巻き、太巻き、おいなりさん、煮〆、ウィンナー、揚げ物ばかり。
母だって食欲がないから食べやしないし、取り分けてもらったモノを少し口に運ぶ程度だった。
私は叔母の作った美味しそうな海苔巻きではなく、誰も手を付けない母の海苔巻きを頬張った。
小食だったからいくらも食べないで、胸もいっぱいで、すぐお腹も膨れてしまった。
あの重箱がどうなったかなど見届けるのも嫌で、あとは席を立って、他の既に食事を終えた子供達の輪に逃げるように走って行ったのだった。

そんな私も大きくなり、親になり、お弁当も数えきれないほど作ってきた。
運動会のお弁当も張り切って作った。
しかし、海苔巻きは作らなかった。
作れなかった。
何度やっても、どうしても具が偏ってしまうのだ。
こうすればいいと教わってもなにをしてもどうしてもうまくできない。
それは今も同じである。
もとより、私はお弁当に海苔巻きをわざわざ入れる気になれないのだった。うまく作る気も全くないのだ。

あの時の母の海苔巻き、具は無いのに形だけは見事で、それがまた余計に悲しく、誰もわたしがそんな風に思っていることなど知るはずもなく、ただ、今日回転寿司屋で流れてくる色々な海苔巻きから目を逸らしている自分に気づいて、ましてや、大人食いなど・・・
そして母が可哀想で申し訳なくて・・・・
母の体が悪くなったのは、私を産んだことによるのだもの。

未だに笑って話せない事の一つではある。そして、母はもうとっくにいない。


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