無駄こそ人生の華であれ。

人生とはつまるところ、
「どれだけの”無駄”を楽しめるか」
なのではないかと、今日、ふと思った。

あれは今日、本棚を整理している時のことだった。
何故か受験しようとしていた漢検準一級の参考書や、趣味で勉強していた心理学の本とか、あとは「眠れなくなるほど面白い〇〇」シリーズが出てきたりした。
当時の私にはきっとそれらが興味があったのだろうが、全て今となっては本棚の奥の奥の方に隠されていた。
完全に興味がなくなったのかといえば嘘で、発掘して中身を見たらやっぱり面白くて、未だ興味は薄れてないんだなと思った。
多分、見なくなってしまったのは「見ること・学ぶことが効率的でない」と思ってしまったからではないかと分析している。

仕事は事務系で、英語を使うことはあれど漢字検定のスキルは不要だし、人との接点もあんまりないので心理学を学んだところで・・・さらには雑学の本を読んだところでそれが何になるというのだ。
学ぶなら・興味を持つならパソコン系の資格だったり英語のスキルを磨いて会話できるようにするとか、そっちに注力した方がいいじゃん。もっと「効率よく生きろよ」と。

そんな卑屈な考えゆえに効率の良い生き方を模索しようともがいている。そして今の世の中は効率主義を礼賛している。速読術の教室が開かれていたり「徹底的に無駄を排除したカリキュラムで1ヶ月でスキルが全部学べます!」といった講座をあちこちで見かけたり。社会全体が無駄を嫌い、効率主義であることが絶対だとする風潮がとても強いと感じる。
私もそんなイマドキに踊らされている一人だ。

でも、果たして本当に無駄は排除するべきものなのだろうか?
確かに短時間で色々な知識を身につけられるのは、社会人としては大変ありがたいことだ。だが私の場合・・・あくまで個人比なのだが、効率を重んじれば重んじるほど、くっそつまんねー人間になった気がするのだ。
なんだろう・・・ホモサピエンスを辞めました、アンドロイドに転職しました、みたいな。
現代人はコンピューターの有能さに打ちひしがれて自身を機械化しようとしているプロジェクトの一環なのでは・・・?と、効率礼賛風潮をみてそう思わざるを得ない。

我々は人間であり、生物である。ホモサピエンスである。

そんな我々と機械の有能さを同列に語ることは大変に難しく、なんなら不可能だ。機械を生み出したのは我々人間だが、人間と機械の特性は真逆だ。
もし効率礼賛風潮を”機械になりたい私たち”という思いが根底にあったことによって生まれたものであれば、今すぐ諦めたほうが良い。

我々は感情によって動かされるものだ。
喜怒哀楽、その行間の感情、人間は驚くほどに感情が豊かな生き物だ。
その感情を制御することは難しく、時に感情に飲まれてしまうことだってある。

でも、それが人間なのだ。
そして、その感情に寄り添って生きることが一番幸せな生き方なのだろうと思う。効率礼賛で目を当てることを憚られた感情がいくつもあると思う。私の場合は、自分の興味関心のあることに目を瞑ったり、「それは非効率なやり方だからやめましょう」といって諦めさせられてすごくモヤモヤしたことがあった。
それで自分の人生が好転するのであればいいのだが、結局モヤモヤが大きくなって途中で何もかも嫌になってしまう。

であれば、確かに無駄なことだけど自分がやりたいことをやるべきだと思う。その無駄をどれだけ心から楽しめる人生にするか、が、本当に我々にとって大事なことなのではないだろうか。
そして、「無駄なことばかりやろうとして・・・」とは思わず、そんな自分を認めてあげることが大事なのだ。

・・・って書いてみたけど、途中で自分がなにを言いたいのかよくわからなくなってしまいました( ^ω^ )取り敢えず書いてしまったからには投稿するけど・・・

雑学系の番組が一時期すごく流行ったけど、なにか関係があるのかな。
でも、無駄って大事。そもそも日本の文化って無駄を尊ぶところが結構ある気がするし。文化として残ってるからには世間から認められ、受け入れられていたってことで・・・


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