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57回目の8月が来る

この人、なんかおじいちゃんに似てない?

あぁほんとだねぇ

所さんの笑ってコラえて!のダーツの旅を見ながら祖母に話しかけた。
それが始まりだった。

私の家には祖母しかいなかった。両親と弟妹と6人家族。祖父は黒縁の中で合成された紋付を着て、微笑んでいるだけだった。私には祖父の記憶もないし、家で話題にあがることもない。それもそうだろう。父が12歳のときに亡くなっていたのだから。

我が家に”おじいちゃん”がいないと認識したのはいつだったかもう覚えていない。母の実家に行くといつもおじいちゃんとおばあちゃんがそろって迎えてくれたから、なんでうちには”おじいちゃん”がいないのかと祖母に聞いたのかもしれない。

「お父さんが12歳のときに死んじゃった」
「海でおぼれて死んじまった」

私が知っているのはそれだけだった。

それにしてもえらい似てるねぇ

今日のダーツの旅は福島のいわきみたいだよ

そうか、おじいさんはいわきの生まれだったからそれでかねぇ

え?おばあちゃんいまなんてった?おじいちゃん天津の人じゃないの?

急に祖母の口から飛び出た「おじいちゃんの出身はいわき」に私は驚きを隠せなかった。房総は天津の生まれだと信じて疑わなかったおじいちゃんが、実は福島の人だった。生まれてから15年の中で一番の衝撃だったと言っても過言ではない。私のおじいちゃん、福島生まれ。
15年間祖父が話題にのぼらなかったのもさることながら、遠いご先祖さまならともかく、自分と近しい”おじいちゃん”を何も知らないというのが衝撃だったのかもしれない。
それから私は少しずつ祖母に”おじいちゃん”のことを聞くようになった。


戦時中に東京で出会ったこと。
やたらテルさん、テルさんと話しかけてきたこと。
三菱重工のボイラーマンだったこと。
お酒は飲めなかったこと。
曾祖父母(←私からみて)のあいだには子どもが出来なかったので、曾祖父が漁に行った先のいわきで知り合ったのかなんのか、養子にもらわれてきたこと。
長男坊だったのに不思議だなぁと思ったこと。
結構良い家の出だったこと。
漁師だったこと。
エビを採りに生簀にボンベしょって潜ったら、ボンベの調子が悪くておぼれて死んでしまったこと。
亡くなる一週間ほど前から、曾祖母が「ヒデオの様子が変だぁ、変だぁ」と言っていたこと。

何かの折におじいちゃんが死んじゃったとき悲しかった?と祖母に聞いたことがある。
返ってきた答えは「涙も出なかった。子ども3人抱えて明日からどうやっておまんま食ってこうか、それだけを考えてた」

当時も衝撃だったが、子どもを生み家族を持った今は、なんというか実感が違う。震えてしまう。
私の父が12歳、上の姉二人は17歳と14歳。舅はとうに亡く、病弱な姑もいた。ある日突然一家の大黒柱になってしまったのだ。頼まれれば左官でも何でもやったと言っていた。工場や民宿の手伝い、潜りの才は秀でていたようで祖母は町で一番の海女だった。サザエやアワビを採って売る。とにかく稼がなきゃいけなかったから、日が明ける前も沈んだ後も海に出かけてワカメとかの密漁もしたらしい。そうやって朝も夜も関係なく働いてたら足を悪くして、稼いだ金を全部針灸に使っちまったから、欲はかくもんじゃないなぁと思ったと言っていたのも思い出す。

祖父を思い出すたびに、私は祖母も思い出す。祖母が生き抜いた日々に思いを馳せる。

祖母は私が21のとき亡くなった。もう14年が経つ。
葬儀が終わってから家族で牛角に晩ご飯を食べに行った。私も弟も家を出ていたから、家族で外食なんてのも久しぶりだった。焼肉ならいつも行くお店があったのだが、同級生と試験の打ち上げで行った牛角で食べた梅しそ冷麺の味が忘れられなくて、牛角行きをお願いした。
その日の牛角は思いのほか混んでいて、家族5人のところまあ座れるかと4人掛けのテーブルに座った。注文したらどんどん届く肉の皿でえらく狭くなってしまったのを覚えている。

父は祖母の話を始めた。
祖母は朝は元気だったのだが、母が夕方仕事から帰って来たときには座敷で横になったまま亡くなっていたらしい。

「面倒もみさせてもらえねぇでいっちまった」

思い出話に花が咲く中で、祖父が亡くなった日のことも話してくれた。

朝、お前も一緒に海にいくかと言われたこと。
友だちと遊ぶからいかねぇと答えたこと。
祖母もその日は潜りにいっていたこと。
浜で遊んでいたら、おめんちの親父がてぇへんなことなってるぞと人が呼びに来たこと。
生簀から上がってくる泡が変だったこと。
おかしいと思った祖母が生簀に潜って底に横たわる祖父を見つけたこと。
祖母が担ぎ上げて祖父を陸にあげたこと。
心臓マッサージをしても息は吹きかえらず、肋骨も折れ、口から血が流れ出ていたこと。
硬直していた祖父を土葬の桶に入れるのは大変だったこと。
後にわかったのはボンベが壊れていたこと。

初めて聞く話ばかりだった。
おばあちゃんが、おじいちゃんを担いで、陸にあげたのか。

焼きあがった肉を口に放り込みながら、涙が止まらなかった。

毎年、夏は彼岸にいる人を思い出す。
私が今ここで生きているのは、先に生きていた人が、命を繋いできてくれてきたからなんだと改めて思う。
ここに書いたのは、私の家の話だ。人には特に影響を及ぼさないだろうし、読んで忘れてしまう話かもしれない。それでも、私の家で必死に生きた人たちがいたから、私はここにいる。

もうすぐ8月1日。
祖父が亡くなって、57回目の8月が来る。





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