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十大弟子ものがたり|摩訶迦葉 ーマカカショウー

〈涅槃〉

お釈迦さまは沙羅双樹の林の中に横たわり「さあ修行僧たちよ。もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい」と微笑まれ、静かに涅槃の世界へと旅立っていかれたのです。皆がお釈迦さまの死を悲しみました。

と、その時「やっとうるせぇ年寄りがいなくなって清々したぜ。さぁ楽しくやろうぜ」と声を上げたのは、弟子の中で一番素行の悪いスバッタです。怒りをあらわにした弟子たちはスバッダに殴り掛かり、その場は騒然としてしまいました。

そのとき、威厳に満ちた声が響き渡ったのです。「静まれ、わが友たちよ」見れば杖を突いた一人の年老いた比丘が、涅槃に入られたお釈迦さまの足元に立っています。一瞬にしてその場に静寂が訪れました。さすがのスバッタも気後れしてどこかへ行ってしまいました。この年老いた比丘こそ、十大弟子のひとり摩訶迦葉(マカカショウ)でした。

〈結婚〉

「おい、ピッパリ。なぜ勝手に見合いの話を断ったのだ」ピッパリは父の言葉を聞きながら俯いていました。父は王舎城近くにある村の裕福なバラモン(祭祀を行う古代インドの最高階級)です。ピッパリは幼い時から勉強熱心で、皆からバラモンの家系を継ぐものとして期待されていました。

しかし、もう二十歳になるというのに、一向に結婚する気がありません。「お前が結婚して跡を継いでくれないと、この家は断絶してしまうのだぞ」と、父はピッパリに詰め寄りました。ピッパリは、一生懸命勉強と修行に励み一人前のバラモンとなりましたが、求道心の強い彼は「やはり出家しなければ手に入らないものがある」と、結婚を断ってきました。そして、この世にいない美しい女性の黄金像を造らせ、この娘と同じ人でなければ結婚しないと条件を出しました。

父は弟子たちと一生懸命探し、やっとそっくりの女性を見つけました。彼女はカピラーニーというバラモンの娘でした。まさかそんな女性がいるとは思わなかったピッパリは、彼女に会いに行き、正直に、自分は出家して清浄な生活を送りたいという気持ちを伝えました。

すると驚くことに「わたくしも尼僧として生きていくことを考えているのです」と告白されたのです。同じ気持ちを持っている二人は、それぞれの親を安心させるために結婚をすることに決めました。

〈出家〉

二人は、結婚しても夫婦の営みはせず、肌にも触れず清らかな生活を送りました。そして、いつかお互いに出家しようと約束していました。ピッパリとカピラーニーは約束を守りながら生活していました。やがて二人の両親は亡くなりました。

ある日、ピッパリが畑仕事をしていると、土の中から虫が出てきて、それを見つけた小鳥があっという間にその虫をついばんでいきました。またある日、カピラーニーがゴマから油を搾ろうとすると、ゴマの中にたくさんの小さな虫を見つけ、このまま絞ったらその虫全部の命を奪うことになることに気が付きました。

諸行無常を実感した二人は、出家の時が来たことを感じ、財産を全部処分し出家したのです。そして、ある分かれ道に来た時、お互いの修行達成のために右と左に分かれて進むことにしました。

〈さとり〉

カピラーニーと別れたピッパリは、ニグローダの樹の下で瞑想をしているひとりの聖者に出会いました。まるで吸い寄せられるようにピッパラは聖者に近づいていきます。そして、御足の前に跪き「清らかなる聖者よ、あなたに出会うために私は旅をしていました。どうかあなたの弟子にしてください」と懇願したのです。

聖者は静かに微笑まれ弟子入りを認めました。この聖者こそ誰であろう、お釈迦さまその人だったのです。ピッパリは、その場でお釈迦さまから教えを聞き、なんと八日後に悟りをひらいたのです。お釈迦さまはピッパリに弟子の証として『迦葉』という名前を授与しました。インドでは迦葉という名前が多く、特に偉大なる迦葉という意味から『摩訶迦葉』(マカカショウ)と呼ばれるようになったのです。その後、摩訶迦葉はお釈迦さまと行動を共にして修行に励みました。

〈糞掃衣〉

ある時、お釈迦さまが道の傍らにある樹影で休息することになりました。摩訶迦葉は急いで自分の僧衣を脱ぎ、四つに折り畳み樹のもとに敷きました。お釈迦さまはにっこり笑ってそこに座りました。すると、とっても座り心地がよく、思わず「迦葉よ、君の僧衣はとっても柔かで座り心地がいいね」とお褒めになりました。

何気ない一言に摩訶迦葉は大いに反省しました。なぜなら本来、出家した者の衣服は『糞掃衣』といい、粗末な布をつなぎ合わせて作ったものでなくてはいけないからです。出家して間もない摩訶迦葉の僧衣はまだ真新しかったのです。師匠より上等な僧衣を身に着けていたことを恥じ「お願いでございます。私の僧衣をお受け取り下さい」と願い出ました。お釈迦さまはにっこり笑い「では私の粗末な衣を受け取るがいい」と自分が身につけていた糞掃衣を差し出したのです。

師匠が身に着けていたものを譲り受ける。弟子にとってこんなにうれしいことはありません。それは、まさに師匠から奥義を伝授されるという意味で、暗黙に自分の後継者であるという意味も含まれています。(この出来事から「衣鉢を継ぐ」ということわざが作られました)それ以降、摩訶迦葉はお釈迦さまから頂いた衣を脱ぐことなく、生涯身に着けて清貧に徹した修行に励みました。

〈拈華微笑(ねんげみしょう)〉

摩訶迦葉は、清貧な修行を行うために、他の弟子たちと交わることを極力避け、歳をとっても一人山に入り瞑想の修行に励みました。摩訶迦葉の体を心配したお釈迦さまは「もうそこまでの修行をする必要はないだろう」と声をかけても「いいえ、私はこの修業が心から楽しいのです。誰かが同じような修行に入るときの参考になればと思っております」そう言って、常に自分に厳しく修行に励んでいました。しかし、他の弟子たちと行動を一緒にしないので、若い弟子の中には摩訶迦葉のことを知らない者もいました。

ある日、お釈迦さまが弟子たちに説法をしているときに、摩訶迦葉が布教の長旅から帰ってきました。あまりにみすぼらしい姿に弟子たちは「お釈迦さまの前で、そんな汚い恰好をしているとは、なんて失礼な比丘なのだ」と非難しました。その時、お釈迦さまは自分の座っている場所を半分空けて摩訶迦葉を座らせました。「よく聞くがいい。摩訶迦葉が体得した悟りは私と同等である。皆は私と同じように摩訶迦葉にも礼拝しなさい」とお話になり、それ以降、摩訶迦葉を軽んじる者はいなくなりました。

またある日、霊鷲山でお釈迦さまが説法しているとき、手に持っている花をひねって皆に見せました。誰もそれがどんな意味を持つのかわかりませんでしたが、ただ一人、摩訶迦葉だけがその真意を理解して微笑したのです。悟りの真意は言葉では伝わないことをお釈迦さまは皆に伝え、摩訶迦葉だけが悟りの奥義を理解できるものであると示したのです。

〈結集〉

布教の旅に出ていた摩訶迦葉は、途中で出会ったバラモンから、お釈迦さまの体調が悪いことを聞き急ぎ戻ってきました。

すでにお釈迦さまは涅槃に入られ、遺言通り荼毘の準備が整えられていました。阿難尊者は泣きながら「摩訶迦葉さま、いくら火をつけても薪に火が付きません」とおろおろしています。お釈迦さまに対面した摩訶迦葉は、初めて出会ったときのように、その御足に礼拝しました。するとその途端、荼毘の薪に火が付きました。お釈迦さまは摩訶迦葉が戻ってくるのを待っていたのです。

お釈迦さまが涅槃に入られ、弟子たちは途方に暮れていました。その時に発せられたスバッタの暴言に摩訶迦葉は、師亡き教団をこれからどのようにまとめるか思案しました。そして悟りをひらいた五百人の弟子たちに声をかけ、お釈迦さまの教えと戒律を整える集会を開くことにしました。これが『結集』です。

「さあ我が友よ、お釈迦さまから聞いたことを出し合い、吟味して同じ内容を未熟な弟子たちに伝えられるようまとめよう。そして、お釈迦さまの教えを後世に伝えるため、皆で唱え覚えるのだ」

摩訶迦葉のおかげで結集は成功しました。この役は、彼にしか務まりませんでした。なぜなら、彼こそがお釈迦さまの衣鉢を継ぐもの、つまり後継者だったからです。今日、私たちが仏教に触れることができるのも摩訶迦葉のおかげです。

結集が終わると、摩訶迦葉は再び一人山の中に戻っていきました。そして百歳を過ぎ、涅槃に入られました。その時、アジャセ王は「第二の仏が亡くなった」と業績をたたえ悲しんだそうです。

〈摩訶迦葉から学ぶ生き方〉


『頭陀第一』と称された摩訶迦葉。

頭陀(ずだ)とはとは「払い落す」という意味で、衣食住にとらわれず清浄に仏道修行をして「むさぼり」「怒り」「無知」の煩悩を払い落とすことです。

摩訶迦葉は、悟りをひらいた後もこの頭陀の修行を続けました。
なぜでしょうか。

衣は綻べば繕い、破ければあて布をして後生大事にする。食事は生きていくうえで必要最小限で食べ過ぎない。住むところにもこだわらない。と『小欲知足』を具現化した生活を、心地いいと感じていたのです。

私たちはどうでしょうか。服は使い捨て、捨てられる食材に罪悪感もなく、そのくせ、悪いうわさが流れるとトイレットペーパーを買い占め、食べもしないカップラーメンを買い漁る欲望の塊です。

摩訶迦葉の生き方は、私たちに経済中心の価値観から、新しい価値観への転換期にきていることを示唆しています。いまこそ頭陀という生き方が大切なのです。そして、この修業を行うときに忘れてはいけないのが、他人に対しての優しさです。自分自身にはストイックに清浄な生活を求め、他人には優しさで触れ合う摩訶迦葉の生き方こそ、今の私たちが手本とする生き方です。

どうしたら考えの違う者同士が共存できるのか、どうしたら怒りなく他人を許せるのか。すべての苦しみは自分の無知から生まれてくるのです。

新しい世界はあなたの生き方によって作られるのです。



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