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あなたの知らない千と千尋 第8回「トンネルの向こうの不思議の街」

テーマパークの残骸だと思っていた街は、驚くことにすべて食べ物屋だった。ガラーンとした食堂街の一角から、何やらいい匂いが漂ってくる。その匂いに連れられ父と母は誰もいない食堂ののれんをくぐり、勝手に食べ始める。両親の思いもよらない行動に、千尋ははっきりと嫌悪感を示す。大人の父母より、子どもの千尋の方がよっぽど常識的だ。母は「人が来たらお金を払えばいいんだから」と言い、父は「カードも財布も持っているから俺に任せておけ」という。このあたりのセリフは宮崎監督のメッセージに聞こえる。

「千と千尋」のアニメが公開されたのは二一世紀が始まった二〇〇一年。アメリカではブッシュが大統領になり、日本では小泉首相が誕生。イチローがメジャーデビューし、ディズニーシーが開園するなど楽しい話題もある中で、九月十一日アメリカ同時多発テロが勃発するなど、不穏な空気が世界を覆っていた。アニメの物語はバブル崩壊(一九九一年から九三年くらい)後、あまり時間が経っていない頃の設定で、ほぼ現実と同年代の時代背景である。

バブル景気は、私たちを狂わせた。日本人はすっかり拝金主義になり、煩悩にどっぷりつかって生きることを知ってしまった。新しい家を買い、左ハンドルの外車に乗って、食べ物と買い物にうつつを抜かし、自分の満足ばかりを求めて生きるようになってしまった。誰もいない食堂で、勝手に貪り食い散らかしている父母こそ、私たち日本人の姿なのである。

「私たちはこんな生き方でいいのか」この物語からは、そんな宮崎監督の声が聞こえてくる。この生き方の先にあるものは、幸せなのか苦しみなのか。安らぎなのか恐怖なのか。満たされない心を抱えたまま、私たち日本人は二一世紀を生きることになった。結局、今も何も解決しないまま時を過ごしている。

父と母を置き去りにして、千尋は不思議な街にさまよい出る。バブルに浮かれていた私たちは、次の世代に置き去りにされてしまうのかと思うのは考え過ぎか。やがて階段の上に常夜灯と松の木が見える。まるで何かに引き寄せられるように千尋は階段を上がっていく。千尋の何倍も大きい朱塗りの常夜灯。障子の部分には大きく「丸に油」と書いてある。常夜灯とは、暗い夜道を一晩中明るく照らす街灯のようなものである。街道では道しるべとなり、港町では灯台の代わりにもなる。

日本には、常に変わらない世界「常世」(とこよ)と、移り変わる世界「現世」(うつしよ)という二つの世界観がある。常世は、死後の世界であり黄泉の国とも言われる。いわゆる「あの世」という世界である。それに対し、生きている私たちの世界が「現世」であり「この世」という世界である。この二つの世界の境目にあるのが常夜灯である。常夜灯の常夜は「とこよ」とも読める。常夜と常世は同義語なのである。千尋が眼にしている常夜灯は常世なのか。

常夜灯の向こう側には、立派な松の木がある。松の木は、一年中青い葉がついていることから不老不死の象徴であり、神が地上に降り立つ依り代でもある。つまり、この場所こそが生と死の境目、現世と常世の境界線なのである。

何も知らない千尋は、無意識にこの境界線を越えてしまう。常夜灯の右手には、太鼓橋とその向こうに不思議な建物の湯屋が見える。何気なくその建物に近づいていく千尋。太鼓橋の下を電車が走り、身を乗り出して見ている千尋は、バッタリ橋の上でハクに出会う。「ここに来てはいけない。早く帰れ!」とハクが叫ぶ。生と死の境界線、太鼓橋を渡ったら二度と現世には帰れない。そんな緊迫感がハクの言葉から感じる。しかし、千尋は全く理解できない。この世のこともあの世のことも、まだ何も知らない小学生だ。

それは私たちも同じ。この世のこともあの世のことも、全く知らないで生きている。その私たちの人生は、一つの明かりもないまっ暗な夜道である。毎日毎日、手探りで歩いている。だから道を間違えるし、石ころにつまずいて転び、痛い思いをする。その暗い道を明るく照らすのが常夜灯であり、それはまさしく仏の教えでもある。悟りの智慧が、人生の道を明るく照らしてくれる。辛くても苦しくても、何とか最後まで生きていく。巡ってくる問題を解決できなくて悩んだりしながらも最後まで生きていく。そのための智慧を仏教は説いている。「なんだかんだあったけど、いい人生だったな」と思って死んでいくための智慧が仏教だ。

人生に無智な父と母、そして千尋の運命はどうなるのか。いよいよ物語は夜の異界へと入っていく。



to be continued
大乗山 経王寺「ハスノカホリ no.55」より


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