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あなたの知らない千と千尋 第7回「トンネルの先」

引越しの途中、道に迷った千尋一家は不思議な建物の前に出た。車を降りた三人の前にぽっかり空いたトンネルがある。吸い寄せられるように中へ入っていく父と母。懸命に二人を止める千尋も、やがて二人を追いかけてトンネルの中へ入っていく。

このトンネルこそ異界への通路である。通路でありながら、誰もが通れるものではない。神隠しに遭った者だけが通る道。異界へと続くこの道の先に魑魅魍魎の世界を予想していた人もいるかもしれない。少なくともドラマチックな展開がこのトンネルの先にあるだろうと思っていた。

しかし、トンネルの先にあったのは驚くほど何もない世界。美しい夏草の茂った丘と吹き渡る風。白い入道雲が流れていく。美しい、あまりにも美しい世界だ。それなのに何故か寂しい。その理由は、人の気配がないからだろうか。朽ち果てた小さい家。道のあちこちに放置されたような顔面石。なぜか死後の世界を感じざるをえない。

建物から外に出た千尋は、目の前の景色を見て「こんなところに町がある」とつぶやく。父親は「まちがいない、テーマパークの残骸だ」と自信ありげに言う。九十年代バブルの頃、日本各地にテーマパークが造られた。今でも営業しているのは半分以下で、営業中でも過去に経営破綻して別の会社が買い取ったところも少なくない。廃業したテーマパークは、買い手がつかず廃墟となり心霊スポットと言われ不法侵入者による被害があったりもする。
今見ると、なんでこんなものを作ったのかと思うが、あの当時それがいいと思ったのだろう。私たちの行いや想いは、時間とともに変化し、やがて消えていく。仏教でいうところの諸行無常である。万物は生滅を繰り返し、常住不変のものは何一つないという仏教の真理。人と物への執着から解脱すれば安楽な心が得られる。

ふと、松尾芭蕉の俳句が頭をよぎる。「夏草や兵どもが夢の跡」。この夏草は生命力の証でもある。炎天下の夏の日差しにも枯れることなく、抜いても、焼かれても、また蘇る大自然の生命力。それに加えて私たち人間は弱い存在である。どんなに栄えようとも、やがてそこにいた証すら跡形もなく消えてしまい何も残らない。

芭蕉の俳句に一抹の寂しさを感じるのは無常感である。そして、千尋が見ている景色に寂しさを感じるのは、バブルの崩壊でもあり、死後の世界にも通じる無常感である。まさに夢の跡そのものだからである。

夏草が生い茂る丘には風が吹いている。夏草はその風に身を任せて大きく揺らいでいる。青い空に大きな白い雲がゆっくり流れていく。青は霊界の色といわれる。そう言われると、空も霊界も手の届かない雄大な存在だ。ちなみに仏教で青色は、お釈迦さまの髪の毛の色であり、心が動揺することなく一定の状態を保った静かな悟りの境地である「禅定」を意味している。禅定も、私たちにはなかなか手の届かない雄大な世界である。ちなみにこの後に登場する「ハク」は白と青の服装で、よく見ると瞳の色は青色だ。ハクも霊界とつながっているからか。

芭蕉の別の句に「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という句がある。他の音がなく、蝉の声しか聞こえない。生者はいつも騒がしく、死者は静かである。生者のいない世界は、ただ蝉の音だけが聞こえる静かな世界である。そして、この丘にもただ風が吹いているだけ。

その静けさを破ったのは、生者である千尋だ。「エーーまだいくの、お父さんもう帰ろうよ」。千尋を置いてさっさと歩きだす父と母に向かって大きな声で叫ぶが、二人は何かに誘われるようにどんどん歩いて行ってしまう。「ねぇーッ」ともう一度叫ぶ千尋に大きな風が背中から襲い掛かる。後ろを振り向いた千尋の顔は明らかに恐怖を感じている。何か良くないことが起こるかもしれない。千尋はそう感じている。

母に追いついた千尋は母の腕にしがみつきながら、何度も後ろを振り返っている。一方、先の景色しか見ていない父と母。バブルの時、過去を振り返りながら未来を見ていた日本人はどのくらいいたのだろか。多くの人が見つめていたのは、バブルという夢の国のテーマパークだった。テーマパークにいる大人たちは、どこか不気味な薄笑いを浮かべている。

そして、この父母も薄笑いを浮かべている。特に母など、今までに見せたことのないような朗らかな表情で「気持ちいいとこねぇ。車の中のサンドイッチ持ってくればよかった」などとつぶやいている。

この場面に死後の世界を感じる。私たちは、死後の世界に何一つ持っていけない。家族も友人も、お金も名声もサンドイッチも、すべて残してあの世に旅立っていかなければならない。母がにこやかなのは、まだ死を自覚していないからか。やがて草原を進むうちに大きな岩場になり、三人は小さな川を渡る。これこそ三途の川ではないのか。そうだとするならば、閻魔の裁きはもう近い。地獄に堕ちるのか、それとも人間界、いづれにしても苦しみの世界である六道のどこかに生まれ変わる。その中には畜生界というのもあることを父と母は知っているだろうか。

to be continued
大乗山 経王寺「ハスノカホリ no.54」より


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