谷山浩子『ガラスの巨人』歌詞解釈――自意識としての〈ガラスの巨人〉
今回は、谷山浩子さんの『ガラスの巨人』という曲を解釈したいと思う。
『ガラスの巨人』歌詞
https://www.uta-net.com/song/30783/
耽美的ともいえるこの曲は、そのタイトルの通り「ガラスの巨人」を想像させる楽曲だと言えよう。美しく、透き通った、大きな、そんな印象を抱かせてくれるこの曲について、私は稚拙ながらも解釈を書くことにした。この解釈が誰かのモノサシとなってくれたら幸いだ。厳密な解釈を求めている方は、ブラウザバックすることを強くおすすめする。
さて、もし手早く解釈の内容を知りたい場合は、目次から「まとめ」のところに飛んでほしい。概要はあらかた分かるはずだ。
また、これを読む前に、曲を聴いてみることをおすすめする。
● 「きみ」=「自意識」――「きみ」の内面的な物語
(以下引用明記ない限り出典:https://www.uta-net.com/song/30783/)
きみは見上げていたね 見えない星空を
風吹くビルの陰 夜更けの街
物語は「きみ」が「見えない星空」を見上げているところから始まる。
まず、本記事では、この「きみ」とは「自意識」のことであると解釈する。
「きみ」は「見えない星空」を見上げている。このとき、「きみ」は本当に星空が見えていないのだろう。しかし、それでも「きみ」は空を見上げている。
「風吹くビルの陰 夜更けの街」という歌詞からは、「きみ」が「ビルの陰」という場所にいるのが判明する。また、「風吹く」「ビル」「陰」「夜更け」「街」という、文章のほとんど(助詞以外の全て)が不穏な単語で構成されていることもわかる。
まず「風吹くビルの陰」についてだ。
現実の風の話をすると、風は高層ビルにぶつかることで、乱流、ビル風と呼ばれるものになることがある。
本記事の読者にも、ビルの隣を歩いているとき、突然、強い風が吹き抜けた経験はないだろうか。もしあるならば、それがビル風である。
ビル風は、ビル伝いに加速することにより、元の風よりも勢いのついた状態で地面に吹きつけられることになる。
このとき、「きみ」を自意識と捉えると、この「ビル」とは自らの受けた「風」を地面へと掃き捨てる、高く大きな世間(他人)のことだと解釈できる。この、「きみ」と「他人」(ビル)との対立が、本記事では重要な対立になってくる。
また、「きみ」はビルの陰にいることからも、「きみ」はビルに無視されていることが言えるだろう。この段階において、「きみ」はビルに見放されているのだ。
次に、「夜更けの街」についてである。
まず街とは、人を平板・抽象化する概念だということが言えるだろう。
脇道にそれるようだが、本記事はコロナ禍の中で書かれた。そして、今のニュース番組ではよく「人流」という言葉が出てくる。「人流」とは、人を「流れ」として捉える概念だ。だが、これを読んでいるあなたが、「自分は、自分の意思、感覚によって生きることが絶対的にできない」と思ったことがあるだろうか。もし思索的に思うことはあっても、それを真実と信じるには至らなかったはずだ。
しかし、人流という言葉はそれを可能にする。つまり、人の群れを大きな一つの集まりとみなすことによって、「人流が多い」「人流が少ない」といった表現を可能にする。ここに、あなたの主体性は剥奪されている。
同様に、「街」という言葉にも、それが可能なのである。街とは、人を「住人」として扱う。住人とは、街に依拠した存在である。そして、彼が何を行ったとしても、その行為は街のコンテクスト(背景)として扱われることになる。ここにもやはり、あなたの主体性は剥奪されているのだ。これが、人を平板・抽象化する概念というところの意味である。
また、後に出てくる歌詞において、この街では「クルマもヒトもいない」ことが明かされている。つまりこの物語に、主体性をもったヒトは出てこないのである。しかし、人に当たるものがなければ、街という概念もあり得ない。街は、人の主体性こそ奪い取るが、かといって共有するコンテクストのない、岩や草などの無機的な物体を街とくくることは言えない。このことから、物語に出てくる物体を「住人」と捉えることは不自然ではない(「きみ」及びビルについての解釈の補説)。
さて、本項では、この物語において人は出てこず、あらゆるものをメタファーとして扱える可能性が示唆された。この『ガラスの巨人』という物語の美しさの要因には、どんな物体をもオブジェにするという、街というものの作用があることは間違いないだろう。
● 大きく肥大化していく「きみ」――無責任な世間
両手を高く上げた 背伸びをしながら
でも星は遠すぎて きみは小さい
クルマもヒトもいない
静かなアスファルトの ステージ
たたずむきみの姿を ライトが照らし出す
やがてきみのからだは 大きくひろがる
ここに、「きみ」は背伸びをしながら、両手を高く上げている。そして、この物語の語り手(以下、語り手)は、そのことを「星は遠すぎて きみは小さい」と要している。
また、前項の描写に引き続いて、「きみ」には星が見えていないが、語り手には星が見えていることがわかる。
そしてここに、奇妙な点がある。
まず、「きみ」の見えている星が語り手には見えているという点。次に、語り手は君を「小さい」と形容している点だ。
もし語り手が「きみ」と同等の存在なのであれば、「きみ」だけを小さいと表現することは不自然だ。もし、これを読んでいるあなたが、誰かと共に星空を眺めているとして、あなたは誰かに「君は星に比べて小さいね」と表現し得るだろうか。もし言うならば「私たちは星に比べて小さいね」というのが自然なはずだ。
つまりここに、語り手と「きみ」には、隔絶した関係性(人間と動物、神と人間のような、存在感の違い)があることがうかがえるのである。
また、「きみ」に語り手は何の干渉もしないことから、あくまでも語り手は「きみ」を眺める観測者(observer)であることもわかるといえる。
そして、「きみ」は静かなアスファルトのステージにおいて、ライトによって照らし出されることで、その「からだ」を大きく広げていく。
ここで明かされているのは、このとき「きみ」のいる場所が「静かなアスファルトのステージ」であること、何かが演じられている舞台であることだ。そしてここに、序盤に語られた「風吹くビルの陰」という描写が深く関わってくる。
本記事では、「ビル」は世間(他人)のことだった。また、「きみ」はライトを当てられるまでに、一度も「ビル」の陰から出なかった(その描写がなかった)。
そんな今まで他人の陰にいたはずの「きみ」に、世間は突然ライトを当てたのである。
舞台において、ライトは演者に注目を浴びせる効果を持つ。演者にとって、注目されることは至上極まりない喜びだ。
そうして、今まで一度も世間に注目されていなかった「きみ」が、にわかに注目を向けられるとどうなるのか?
「きみ」は、その「からだ」を大きく広げていくことになる。
● ついに変形した「きみ」――脆く輝くガラスの巨人
高層ビルだきみは ガラスの巨人
ほら 歩き出したゆらゆら
空を横切るきみの影
チカチカ赤いランプが とてもきれいだよ
見おろせば街は 星の海のよう
ぜんぶぼくのものだって
きみははしゃいでいた
語り手は、大きくひろがった「きみ」の姿を「高層ビルだきみは ガラスの巨人」と述懐する。このときの語り手は、何やら楽しげである。
そして、「ガラスの巨人」というタイトルが、ここで回収される。
ガラスの巨人とは、「きみ」──自意識――が肥大化していく様子を辿ってきた我々にとって、突然の皮肉な名である。「きみ」は巨人となり、高層ビル――どんな他人よりも強い他人のように――に相成った。
しかし、その姿はガラスでできている。その理由は明らかだ。あえて言うならば、「きみ」は不健全な成長を辿ったのである。世間は彼に注目を浴びせかけたが、彼らによって見放されていた「きみ」の傷をそれは癒さない。
だが、語り手はそれを察知している。その傷をごまかして、強くなり過ぎた自意識。そうした繊細な意識を、「ガラスの巨人」と呼ぶのである。
「空を横切るきみの影」「チカチカ赤いランプが とてもきれいだよ」というところからは、いかに「きみ」がそのからだを広げ切ったかが窺える。彼のからだは空ほどにもなり、チカチカ赤いランプ(=航空障害灯)がその目線に見えるまでになったのである。
そして、「見おろせば街は 星の海のよう」、そんな街を見て「ぜんぶぼくのものだって」「きみ」ははしゃぐほどに喜んだ。
さて、ここまで見てきて、つっかかる点がある。
やはり、語り手のことである。
高層ビルだきみは
ほら 歩き出したゆらゆら
チカチカ赤いランプが とてもきれいだよ
(見おろせば街は 星の海のよう)
というように、「きみ」が巨人になった辺りで、突然、語り手は様子を変貌させる。語り手は「きみ」に対して語りかけるような仕草がにわかに多くなったのだ。この様子を見るに、語り手はとてもその眺めに喜んでいることがわかる。
では、この語り手とは一体何だったのか?それについては、次の次から、まとめの項において論じる。
● 広がり続く「きみ」――悲しみと共に肥大する意識
楽し気に歩くきみが 突然立ち止まるその時
胸にあいた風穴に 誰かがしのびこむ
忘れてることがある 何か悲しいこと
確かにさっきまでは 覚えていた
悲しみが攻めてくるよ もっと大きくならなければ
悲しみが攻めてくるよ もっとひろがれ ぼくのからだ
悲しみが攻めてくるよ もっと大きくならなければ
悲しみが攻めてくるよ もっとひろがれ ぼくのからだ
悲しみが攻めてくるよ……
悲しみが攻めてくるよ……
悲しみが攻めてくるよ……
「きみ」はついに立ち止まってしまった。そして、「何か悲しいこと」があったことを思い出す。しかし、その内容は思い出せない。その苦しみは更に大きくなり、とうとう「きみ」は「悲しみ」に攻められてしまう。
このとき、忍び込んだ「誰か」は、今まで論じてきた「ビル」、そして「ライト」の指しているものと同様の世間であることは間違いないだろう。
しかし、語り手、または「きみ」(恐らくはその両方であろう)にそれは誰なのか分からない。
それを知るためには――知ることによって「誰か」を定義するためには――「きみ」は世間というものを漠然と意識しすぎていた。あるときは「ビル」、またあるときは「ライト」、またあるときは「星の海」として……「きみ」は、そうやって、世間の力を無化し続けた。「きみ」は、そうして世間と折り合いをつけてきたのだ。
だが、それにも限界がやってきた。世間は彼の胸の中に忍び込んだ。しかし、「きみ」はそれに「世間」という言葉を当てることができない。なぜなら「きみ」にとって、世間とは力のない、ただのオブジェのはずだったのだから。
そうして、「きみ」は悲しいことがあったことを思い出そうとした。それは世間にねじ伏せられてきた思い出である。ずっとビルの陰にいたこと、それを無責任に救い出されたこと。彼にとってはそれらすべてが「かなしいこと」なのだ。しかし、「きみ」はそれを思い出せない。「彼」は巨人になるために、そのことを忘れてしまったのだ。「確かにさっきまでは 覚えていた」と気付いていても、彼はそのことを思い出せない。
そうして「誰か」の入り込んだ胸の隙に、「悲しみ」は入り込む。
悲しみとは、「かなしいこと」と同じ意味である。「きみ」は押さえつけていた感情、感覚を解放させてしまった。だが、それを向かわせるべき先がわからなかった。それはただ、彼の胸を傷つけ、自分のからだを「もっと広がれ」と念じさせてしまう、凶器にしかならなかった。
まとめ……「きみ」はどうなるのか 語り手とはなんだったのか
本記事の解釈を纏めるとこうなる。
「きみ」は元々夢を見るようなヒト(=自意識)だった。だが、世間はそれを無視し続けた。しかし、「きみ」は突然世間に注目を浴びせられる。傷ついていた彼にとって、それは喜ぶものだった。彼は自意識をどんどんと肥大化させ、遂にはあらゆる他人を超えるほどの巨人になった。しかし、世間を超えるために忘れていた「かなしいこと」があったのを思い出し、世間に感じていた力が「きみ」に襲いかかった。その力に「世間」という言葉を与えるためには、「きみ」はあまりにも自分の感覚を抑圧していた。そうして、世間の力に屈しないために、「きみ」はその「からだ」をどんどんと広げていく――。
「きみ」はこれからどうなってしまうのだろうか。そのためには、次に記す語り手についての解釈が、少なからず参考になるかもしれない。
解釈その① 語り手=ネグレクトした親 「きみ」=その子供(の自意識)
これにはいくつか根拠があるが、その中でもそう思わせる部分は、やはり「きみ」が巨人になった際に、語り手はそれに反応していたということである。
そのときまでただの観測者であった語り手は、その時点を境に突然きみに語り掛けるようなしぐさを見せる。つまり、語り手は「きみ」と関りのある存在であることがここに示唆されているのだ。
また、「きみ」が仮にスポットライトを浴びるような職業――〈芸能人〉になったとしよう。そうして「巨人」になった「きみ」という子供は、ネグレクト――無関心のままでいた子供に関心を向ける要因には十分になり得るはずだ。
そして、最後に出てきた「きみ」の胸にはいりこんだ「誰か」は、語り手という可能性もある。突然「きみ」に関わるという自分の変わり身に驚かない語り手なら、「きみ」に何かが入り込んだことは気づいても、それが自分だということにすら気づかないこともあるはずだ。
他にも、「見えない星空」という発言や、「でも星は遠すぎて きみは小さい」という述懐からも、語り手は「きみ」に自分本位で無頓着な接し方をしていたのかもしれない。
最後に、この物語の最後の辺りにも、ネグレクトの親であり得る根拠がある。
楽し気に歩くきみが 突然立ち止まるその時
胸にあいた風穴に 誰かがしのびこむ
忘れてることがある 何か悲しいこと
確かにさっきまでは 覚えていた
悲しみが攻めてくるよ もっと大きくならなければ
悲しみが攻めてくるよ もっとひろがれ ぼくのからだ
ここで、今まで語り手本位だった物語は、突然「きみ」本位にスポットが当たる。もしここで今までの語り手がいなくなっているとすれば、自意識を拡大し病み続ける「きみ」を見放した、という可能性もあるのではないか。
そうしたことから、語り手は「きみ」にネグレクトをしていた親であるという解釈が可能であると考える。
「きみ」にとって、世間とは親のことだったのだ。
解釈その② 語り手=自意識の所持者および観測者 「きみ」=自意識
この物語の内面的な世界観をそのままにするためには、筆者の個人的な感覚では、この解釈が一番良いような気がする。
この解釈の構造は、「きみ」という自意識(言語化以降の意識)の暴れるのを見つめていた、語り手という観測者(別の意識または言語化以前の意識)ということである。
これを読んでくれているあなたにも、こんな経験はないだろうか?
● 「絶対にいける!」と信じて失敗した事を思い返すと、そのとき既に引き返せなくなっていただけで、ダメだろうという気はしていた(ことに気づいた)
● 趣味や仕事などで、異常に興奮した際に感じる、冷静な自分
● イライラ、ムカムカしている自分に自覚的な自分
そうした「自分」のことを、ここでは「言語化以前の意識」と呼ぶ。
その意識は、自分の中で言語化される前に、感覚に掻き消されてしまうが、後に冷静になった自分が思い返すと、そうした自分にそれに気づくことがある。
つまり、この物語は、そうした構造が反転している、ということである。
通常、感覚として意識される部分――「きみ」を、言語化以前の意識――語り手が解説する、といった具合だ。
この解釈は、この物語の持つ内省的な美的空間を壊さないという意味で、意味のあるものだと考える。特に齟齬なく全体を読み取れるのも、この解釈の良い点である(「悲しみが攻めてくる」部分で言われている「ぼく」という言葉も、語り手=「きみ」=ぼくとすれば、全体にまとまりが出る)。
筆者の感想
この曲の歌詞を読み解くにつれ、自分が今まで判然と理解できていなかった部分も、明晰に捉え直すことができたように思う。
その作業を繰り返しているうちに、思い出したのは、つげ義春の『ねじ式』という漫画の一節である。
でも 考えてみれば それほど死を恐れることもなかったんだな
死なんて真夜中に背中のほうからだんだんと……… 巨人になっていく恐怖と比べたら どうってことないんだから
『ねじ式』はシュールともダダイズムともフロイド・ユング的とも取れる作品だが、そうした不安感の最中の中で、この一節は現れる。
耽美的なこの作品とは、ある意味で対極にあるような作品ではあるものの、深いところまで突き詰めた芸術というものは、畢竟同じものを指し表すことがあるのかもしれない。
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