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⑧通夜



父を無事にセレモニーホールに送り出し、こちらはこちらで、若干きつめの13号の喪服に着替え、セレモニーホールに移動しなければならない。
悲しみとバタバタが交互に、時には同時に押し寄せる。泣きながらお金の計算をするのが喪るということなのだ。

セレモニーホールにつくと父は控室の畳に寝かされていた。いわゆる死化粧というのもされていたが自然な感じで、母の希望通りに髪の毛もかわいい感じになっていた。
家にいたときだんだん開いてきていた口も良い感じに結ばれていた。
不思議なもので耳たぶはずっと柔らかい。
母と弟にとで選んだ棺におさめると、もうすぐ来るべきときが来ることを突きつけられた気持ちになる。
コロナのせいか今どきの棺は蓋をして窓を開けるとプラスチックで覆われてしまっていて、顔は見えるが息苦しそうにみえる。

花環や籠盛の配置を考えたり、弔電をチェックしたり、いわゆる思い出コーナーにいろいろ飾ったりしていると叔母から電話が入った。

このときわかったことだが、父を無事にセレモニーホールまで送り出せたころ、叔父は間違って「のぞみ」に乗ってしまっていた。
残念ながらうちの最寄りに「のぞみ」は停まらない。
信じられないが現実だ。
駅に迎えに行ってもらっていた夫に慌てて連絡をする。
なぜか電話にでない叔父を諦め、叔母と連絡を取り合う。
そうこうしているうちに通夜弁当の手配とか、香典返しの補充とか、誰かが采配しないといけないことがたくさんあって、薄々感じていたことだが、わたしはお通夜の親族席でずっと頭を下げ続けるのではなく、セレモニーホールを右に左に走り続ける役目に徹することになった。

地元の通夜は、親族だけでお経をあげたあとは、弔問客が次から次へと流れ作業で弔問してくださる形式で結果的に300人くらいが弔問にきてくださった。
久しぶりに会う同級生、幼なじみの父母、泣いたり笑ったり、悲しいけどちょっとしたお祭りみたいだった。

ちなみに新横浜まで行ってしまった叔父も無事に到着し、父の顔を見てもらうことができた。
そんなこんなでいろいろあってものすごく疲れたのだと思う。寝ずの番の弟と夫を残し、家に帰ったら化粧も落とさずバタンキューだった。

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