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Vol.2 ハプラス湘南鍼灸Roomが生まれるまで~修業編~

 神奈川県藤沢市にあるハプラス湘南鍼灸Room。最寄駅はJR東海道線の辻堂駅です。休みの日には海までランニングすることもあるとのことで、今では湘南暮らしを楽しむ院長の野溝さんですが、湘南に対する想いが実はとても強いのだそう。
今回は、野溝さんの鍼灸師としてのルーツと「地元」への憧れに迫ります。

1.足りないものは「HOME感」だった

野溝さんは千葉の南房総で生まれ、千葉市で育ちます。
自分にとっての原風景は太平洋を広く望む海のある風景でしたが、育った町は見渡す限り落花生畑や牧場というのんびりとした田舎町でした。
中学高校とたくさんの友達、親友もでき、ごく普通の思春期を過ごしたわけですが、「ちっとも街が面白くなかった」のだとか。
「めちゃめちゃ退屈でしたね。」
開放的な海辺で生まれたからか、自分の理想とする地元感を感じられないまま成人を迎えます。

2.憧れの神奈川県へ~多摩川を越える日~

そんな野溝さんが、飽き飽きとした「たいくつさ」に別れを告げたのは20代。
当時、結婚を考えていた女性(今の奥様)は神奈川県の公立小学校の教員。
野溝さんご自身も鍼灸師として国家資格を取得して就職を考えていたころ、
ちょうど神奈川県の大和市にある鍼灸院の先生を学校から紹介されます。


ですが千葉県生活が長かった野溝さん、
「飽き飽きとしていた」と仰る割に千葉県をいざ出るとなると、
「江戸川&荒川を越えたことがなかった」ため、
まず大都会東京への恐怖心が野溝さんの前に立ちふさがります。
ましてや「神奈川なんて、湾の向こう側のシャレたところで、『~じゃん』とか言っているヤンキーみたいな人達にさらわれたらどうしよう」。
当時は、神奈川県全体を「巨大一大都市」だと捉えていたそうで、
まずは就職を前に、東京は町田市に引っ越します。
アパートの目の前の鶴見川を越えれば神奈川。
憧れの神奈川暮らしは、すぐそこでした。

3.師匠からの言葉は「穴掘りしか仕事はないけど、それでもいいか?」だった


勇気をもって江戸川を越え、町田市に引っ越した野溝さん。
学校の先生に紹介された大和市の鍼灸院を尋ねます。就職を希望でした。

鍼灸院は一日80人以上患者さんが訪れ、師匠の先生は60代。
腕が良いと評判でした。
面接にやって来た野溝さんに、先生は開口一番、告げました。
「自分は、60にもなったし、もう、弟子をとってない。そんなやる気はない。給料なんか出せない」と。
町田に引っ越してしまったにも関わらず、「お前を雇う余裕は無い」と言われてしまいますが、
話しをしているうちに先生に気にいられ、「雑用だけど、それでもいいか」、就職することができました。

修業時代を「本当に楽しかった。」と振り返る野溝さん。
「働ける。雇われないと言われたのに。仕事がある。それだけでハッピーでした。」
先生は鍼灸院の仕事とは別に不動産を所有しており、
野溝さんは物件の修理修復をしたり、師匠の撮ったビデオ映像の編集など雑用担当となったのです。
鍼灸院で先生や兄弟子達の治療を手伝いながら、
患者さんの鍼を抜いたりお話ししている最中、
先生から「行くぞ」と声を掛けられてついていくと、
不動産のペンキを塗ったり岩を動かしたり、壊れたシャッターを取り外し修理して別の建物に取り付けたり。
それが1年目の野溝さんの日常でした。
「網戸を直したりもしていましたが、合間で治療の経験もさせてもらえて、『ラッキー!』と思っていました。」

4.一番年下にもかかわらず副院長に抜擢

腕も達者で口も達者な師匠のもと、
鍼灸師としての経験も重ねて行く野溝さん。
素質もあり、結婚も待っていたため仕事にも意欲的に取り組んでいるうちに、患者さんにも気に入られ、
鍼灸院の副院長を任されるようになります。
先輩を押しのけての副院長でしたが、
それでも不動産のペンキ塗りの仕事も無くなることはなく、毎日が大忙し。
「『手際よくやれ!』と師匠に言われたりもして、すごい修業だ!」と思っていたそうです。
順風満帆、仕事もプライベートも充実の野溝さんでした。

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次回は、そんな野溝さんの「独立編」をお届けします。
おっかなびっくり神奈川へやって来た野溝さんが
湘南に開業するまで、どのようないきさつがあったのか?
「独立編」はこちらからもお楽しみください(^^)


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