詩63 春/恥じらひ
三月に入って、確定申告をしたり転職の準備をしたりしていたら、なかなか詩を書ける日もなくて、その合間を縫いながらわづかに詩を書くことを試みる日が続きました。書けないならばやはりイライラするもので、イライラすればますます書けなくなり、そのまま書き方すら忘れたり、それまで書いていた詩の心もどこか解体されていったりして、特に今月は心がすさんでいたように思います。
しかし書いた詩を読み返してみると、どうもまだ季節の変わり目にいることが詩を戸惑わせているようで、振り返れば去年もこのくらいの時期に書く詩は、こういった喩えがたい孤独の影のある詩が多かった気がします。喩えがたいというのは、本当に何に喩えたら良いかわからないためで、しかし身の感じ方としてむしろ孤独ではなく、詩を書くと正体の分からない孤独感が言葉に表れるといった有様が、詩をますます戸惑わせると言いましょうか。
詩の中身としては、しかし二月までの空の色の無さを映したような内面的なものではなく、やはり土が温まるとともに萌してくる草の芽たちを詩に取り込もうとして、無理をしているところがある感じで、風景と詩と、それまでの書き方とのアンバランスな情緒から受ける感覚が、この得体の知れない孤独の背景にある気もしますが、よくはわかりません。
しかしどうも、この時期は特に書きづらいようです。
ただ、このところまた言葉が落ち着いてきていて、それで月末になってこうして二篇したためる機会がありました。今はまた言葉にくらくなっていますが、ややともすれば言葉の種のような、火のような、明るさのような、それとも核のような、これもまた名状しがたい何かが心に芽生えてくる感じがあり、季節が移ったなぁ、という感じがあります。
飽くまで、作詩というスコープを通してみた私の個人的な感覚ですが。
詩を読むという作業も少しはかどってきていて、詩が書けないときはいくら読んでも面白くないのに、今日本屋さんで立ち読みをしていたら、妙に面白い詩があって、そのまま買ってしまいました。月末にお店を閉める本屋さんらしく、記念に行ったのですが、そういうときほどむしろ何か言葉をもらってしまうこともあり、不思議な感情を持ちつつ本を買ってきたりします。
しかもまた例によって、そういうときほど人を拒みたくなり、そういうときほど人の言葉や態度、行動などに敏感になってしまい、今はどうもだいぶ参っています。これもまた、何かが生まれそうなときの予感に似ていて、しかしこういうときは生まれないのが日々というのも、また予感としてあります。
確定申告は終えてしまって、次に転職活動もぼちぼち進んでいるなかで、また月が変わろうとしています。来月はどれほど書くか分かりませんが、まだもう少し書けるといいな、と思いつつ、しかしどうにか書かなくてはという思いもあって、今年こそは何か新しいことができたらなぁ、と考えています。
抱負も何もない暮らしが常の私ですが、やはり何かをしたいという動機は道端に転がっている石ころのようなものらしく、その石ころに目を留めて歩くことが、新しいことを産むのだという気がします。
またそのように、身を小さくしている時と言いましょうか。
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