こゑを手に拾ふ日より - 19~24

こゑを手に拾ふ日より

二〇二三年七月~十二月


二〇二三年七月


 身体の表の寂しげにくつろひでゐる、夜の灯の明るひばかり灯の色の漂ふやうな、身のまはりより身体を身体と言ひ当てる、身体の表、ほとりのやうな所へ、夏もまぢかひ日の風が姿も形も失ひつつ寄せてきてゐる。この光景の風合ひのある所に、静かな屋外の騒がしさが加はり、その音に耳を傾けてゐる内、本当にまう夏が訪れたやうな気のする。身のまはりも漂ふ風に合はせて静かに詩に連なる。

二〇二三年七月六日


 ひと夜のうち、その夜を可愛らしひまで寂しくし、音の絶へて静かな夜景を部屋の机の前の目の明るみから、影の広く果てまで覆ふ景色のまた彩りのなひ暗さを何と言はうと思ひつつ、恰も夜のうへに夜を畳みその夜の空を縁まで重く深くしてゐる、風のわづかな騒がしさから、今の日を夜らしひと想像してゐる。夜の端より静かに音の聴こへ、音はかうしてうるさがり、身の部屋の床のうへに向かつて此の夜や、夜といふ時のさざなむ時刻から、遠ざかり離れ忘れつつゐたひと考へさせる。静かさにまた静かさの折り重なり、何も音もなく影ばかり深く重ひ夜に、そのやうにしてしたためるといふ思へを前に沈黙する。

二〇二三年七月十二日


 やうやく日の光のうるさひ頃に、かへつて胸の落ち着く心の気配を漂はせながら、暮れるまでに幾たびもその日を手づから折り畳み日を時としてたなへ仕舞ふもののその片はらよりくりかへし明るんできて、わづらはしひほど暑ひのでこの日も夏かと思ひの走り、考へ出だす。さう思ふなら日の流れの早くたゆたふ、けふひと日の再び明日へ表れることさへ、それが昨日と同じく夜の内へ明らめるのかと、何も言はず何も考へず思へてしまふ。暮れ方のその時やはり、ひと日ごとの日と時のほとりのくりかへしを、読むことと考へる。

二〇二三年七月十五日


 詩を書かうとし、此の所詩を書くことを忘れてゐたことをふりかへり、その胸の落ち着きのなさからして書かうとする詩をまへに心のうるさくなるために、詩を書くことをやはり静かに忘れつつ詩を綴る手の一つ一つ数へられなひ動作に寄り添ふことで、このやうに風景もまた静かな宵に耳と目の官能のほど近く、詩のどこか華やぐやうにしたためてゐる。考へるなら、詩は常に日と日のくりかへしの内、詩を忘れ又は思ひ出し、それに伴つて心のうるさひ言葉などの、詩と言はれるこゑとこゑの隙間にあるものらしひ。宵ばかりけふといふ日をかへりみて、夏のまぢかひこの日の暑さにたはむ風や、樹の明るく佇つ光景を思ひ浮かべてゐると、蒸し暑ひ夜の風景も際立つて寂しく、だうしてか詩を書かうと思ふ。

二〇二三年七月二十日


 そのひとと同じくそのひとと似たひとらのこころと思ふ得体のなひ姿や、姿を形容し得てゐるそのひとらの身に着ける服装を、言葉のとどこほるまで湿らう夜の気配の周りへ、草の凪ぐ風景を凪ひだまま揺らがせるやう置ひてみたく思ふ。夏らしく暑さの濃やかな夜にこの思ふといふことを、思ふまでのこととして思ふと言ふ時は、だうしてかもどかしひ。

二〇二三年七月二十七日



二〇二三年八月


  くだらなく日を重ねるうち、思ふことの日の暑さとともに涼しく移ろふのを思ひに得て、さう言へば目の上の空もやうやく静かになり始め、耳をいづくか傾げれば樹のあをみより物音のたつ気のするし、ここに暑ひ日ばかりの仕舞はれやうとする気の配りのあるやうに不意を打たれる時のをり、けふも日ごと時刻の変はり方に併せつつ、その時を考へる思ひの深まるやうでゐる。さうあれば再びとなくあるけふも詩を書ひてゐたくなり、またそしてもどかしくあるのも風の触れ方の乾き方に連なる気のする。かういふ時こそ詩を心に浮かべ次に紙にうつすのを面白ひと思へてくる。

二〇二三年八月十三日


 けふを日と風のこはひ様子で、日より来てその日と日のとなりへと通りすぎる時の形の崩れ纏まる中ほどとして、時らしくかう暑ひと再び思ふ。目の前の樹の影の深ひ蒼みの表すその樹の伸び縮みするくりかへしから、樹と日と風のほとりにゐる度、これを読書といふ言葉になぞらへ、言葉を次に忘れてしまふ。

二〇二三年八月十七日


 ひとしきり鳴くらしく鳴くこゑの耳まで届き、くりかへし鳴くことよりその目の先から足の届く所まで感じ得る身の所在をこゑの波より表してゐると思へる。身の表へ仮に置かれて在るものごとや置くといふより漂ふと言ふべき風合ひのものごとを身に問ひかへし、問ひかへすことを問ふとも言はず、ただそこに在り得なひ応答として切ながるのを、虫たちが面白がつてゐるのだと考へてゐれば面白ひ。昨日より時は再びけふと思へて寂しひ程。

二〇二三年八月二十日


 けふも目の覚めてよりくりかへし手の懐へ呼びかける気のして、そのこゑに似た淡ひ日の光の差し方を朝らしく彩りの深ひこはさとして目の内へとらへる心地のしてゐた。さう思へれば思ふ程のことより出でず、聴き及ぶやう次第に心の起きてくるのを、言葉を読むことと追ふことの手始めとしてなつかしくまたいづくへか問ふらしひ。日を日のこととしてさうあらば、朝となり目の覚めるほどの束の間にその日も終はらうといふ思へのしてくる。さうあつて朝らしひと言へる日をその日に始め、思ふことと問ふことを手すさびのやうにくりかへし、日の深まればまた朝になる。

二〇二三年八月二十四日


 整はずにゐる誰とも知れなひ人の思ひを、さう在らうと問ふでもなく整はせやうと語らうでもなく、おのづからそれをわたくしの思への内の樹よりはまだおほきな塀のやうな何かとして象り、その夢の集ふ形象の整はなひものの前へ、夢そのものを忘れやうとする私を静かに漂はせてゐた。その日のさも青ひ暮れ方の日の光の短さをまたかげらはせながら、わたくし自身も整はずにゐる心象を手に手より確かめながら独りごち、日とともに夢の目の裏から去るやうに寝ねやうとするものの、騒しく形を為さなひこゑの在りやうをだうにも出来ず、今となりそれを思ふ事と仮称する。

二〇二三年八月二十七日



二〇二三年九月


 いつよりか日の暮れてゐる程に、ふたたびまで寝てまた目の明けてくるのに、かうしてものの大人しひ日と昼をたちさはぐ音のなく、さうあらばうるさひ思ひのあるともなしとも華やひでゐるやう、覚め方に身とそれら静かさとの思へと思への往き来を考へさせられて、時に加へる時はくりかへし速く、秋とも夏とも思はれなひ気の配りの漂ふので、詩を書かうと考へられその余りまた寂しめる気のする。風はまだ昼らしくさはがずにゐて、日の光は陰ばかり落ち着ひてをり、なにかこの風景へこゑばかり問ひ返さうと身の置きどころの失くせるやうな静かさもある。これを言葉のなさと言へばさうかも知れず、つとに詩を書き、日のとなりへ日のくりかへすのを眺めてゐる。

二〇二三年九月九日


 此れを愛ほしさと言ひたくなり、さうある思ひの為に疎ましさと考へてゐたくなる、心のまはりから内へ寄せまたまはりへと連なつてゆくこゑの波立ちを、さはがしくその心のほとりにのみ置ひて、だうともせずに暮らしの向かふ日の連なりはそのひだの濃かさに至らうまで静かでゐる。此方へ折まで虫の鳴く音や鳥のおかしなこゑや、樹と樹の間よりせせらぐ風の騒々しさの重なりまでして、それを何とも表さず在らうものを在るままに漂はせてゐるらしひ。伝へるやうらしひと言ふのは、わたくしの思ひはまだ密かな為かと思ふ。

二〇二三年九月十日


 かうまでして在るとも無ひ気のする、ひとつひとつの物音の静かとも思へて、うるさくありつついとほしく漂ふとも考へられて、たはやかであり、疎ましひ思ひのある物ばかりの音の鳴るのを、ものを目や耳に映すまでなひままにしたためられずにゐる。この手の動きの緩く目の配り方やうつろひ方ののろさを、なぞらへると言ふ言葉で伝へたくなり、そのときこれを読むといふことかと思ふなら、わたくしは今目の許へ書ひてゐると考へられる。

二〇二三年九月十七日


 ゆゑもあり得ずこころ恋しさのそこここへ在るのを、幾つか恐ろしひと感じ入ることもあり、しかしだうにか菜の花のしどけなひ葉と茎と花の並びのやうに、儚く今とまう再びの明日へこの切なさの連なつてゐればと考へる。折りよく悪く肌のほとりへ空しさの冴へてある気のする片はらで、その思へをまたにはかに笑ふ心地のあつて面白ひ気もする。いづくよりいづくまでわたくしはこのやうな人として、詩を綴じてばかりゐるのを恥じらふ。

二〇二三年九月二十一日


 背の仄かに高くあたかも風にゆらぐらしひ、いづれの日もちひさな草のそこへ立ちありくやうでゐた。その丈のまはりを風のまとふやうに揺れ、鳥や虫の集まるやうにかひま見へ、草ばかりの通りの脇をまた草にまぎれつつ、にほひまで見へ隠れする所を日の光のたはむまで、昨日より同じひ足どりでありくらしひ。このやうに風は立ち枯れ、秋の往来してくる。

二〇二三年九月二十四日



二〇二三年十月


 かやうに物の目に留まり、それを表さうといふよりその物へ徒に問ひかけ、心へもその心のままに問ひかけ、日のこととして疑ふこともあり得ずに、恰もそれを仮と言へ名のあるものとしてさへ思はずにゐたため、いづれかへあらためてしたためることもなひ。目の程か心から留まるともなくて其の所へあるのを、増してゆゑさへ疑はずに、思ほへば日の明るさや灯のあたたかさの為せる色合ひとして、幾たびまでただあるのを見て、心にとつて物のある、言ひ難ひ日の送り方を考へさせられるためか、したためやうとも表さうとも思はずにゐるらしひ。折を作つてその物のために背をふりかへれば、また幾度も寂しめる。

二〇二三年十月一日


 あたかも彩りの豊かな音と、音のまはりに在つて音のたつ、聴こへ方の内のさも空のやうな明るさのなひ、重らうと在れば冴へ、音のその響く所より分かれやうと在ればいづれか余りある、この音のたち方と音のまま、だうとも手にすさぶままでゐる。したためるまでここにてしたため、思ひ出されるやる瀬なさより、ただに耳を傾け、夜とあらば夜らしく、ふたたび眠るばかりかと考へてしまふ。

二〇二三年十月五日


 なにものも失はれ、なにものも姿を為し得なひでゐる目の前の、こゑの果てまで届きさうに望めなひ間のとほさへ、自づから言ひがたひ思へを思へとしか言ひ現し得ずに、その身より発つなにかの思ひを身のものとしてあり得なひで放り置けば、日の畳むのをくりかへすやう読み続ける暮らしに近く、または春とし言はば春であり、秋とし言はば秋らしひと考へたくなる。日をとほしこれをまた日の巡るまでと考へるなら、時と言はばけふであるとも思へてきて、日の暮れてのち、言葉のほど近くより言葉を失ふくらひ読むことと綴ることのたび重なるのを、けふばかり、秋のいや増すといふ感じのする。草も冷めてきた。

二〇二三年十月十二日


 さも点であり、なだらかな線をたたへてあり、其のほかにあることの密かな虚しさを漲らせてゐる、憎らしひおぞましさも芯から怖ろしひ優しさも現してしまふそれを、だう形容したらこゑに適ふかと考へ、わたくしはこの借宿にゐて住まふといふことと思つた。さう始まりさう終はり、終はらうまでもなく、住まひの内になだらかに漂ふその朝の山の形象に近ひ言葉を、折返し日も時も哀しませる。

二〇二三年十月十九日


 日を日から透かしてとほる時刻を前に、その日の光のゆくゑのなひ所を、わたくしの年より回るけふの組み立て方や、なほ組み立てつつどこにもそのもののなひ背格好として心に置かれ、昼ばかり手にも手を透かす心地のしてゐる。読むことのうへに優しく、かへつて情の激しひ手を添へ、これを夜までの秋と言ふなら、日頃よりこのやうに読むことを時を秋の日の光の冴へた頃合ひとして、考へてゐる気のしてをり、かうある日の折返しを朝ごとに予め確かめてゐると思ふ。暮れかかりざま時刻に浚はれ、日の事をかへり見てゐる。

二〇二三年十月二十六日



二〇二三年十一月


 手の象る形式として、その手のなだらかな装ひとあたかも息づかひの深ひ影とを、今ばかりとも表し切れなひひとの手より、明くる時まで手にて此の手そのものを紙のうへへ、だうしても留め置くやうに綴り連ねて行くのを、書くといふことよりは、手を手にて為すこととして考へられてゐる。夜と言はず昼とも夕べとも朝とも言はず、ただくだくだしくこだはるもののある朝の、日の差したり雨の降つたり風の凪ひで明るかつたりした時のさもしづく影に似て、時もなく詩を手前に書くことのできずにゐる。だうしても日と時をめくり、手の先の整はずにゐるあるほどの騒がしさや静かさへ、それをそのまま省みてゐたくなる。恐らく此れを詩を書くこととして。

二〇二三年十一月二日


 風のそよひでゐるのを目に映しつつ、風の風景をなぶる様子に耳を傾け、かうして椅子に座つてゐる体の傍へ昨日とさも変はらなひ冷たさでさやぐのを、風の其の所へあるやかましさとして、けふらしく秋の日らしひと目の冴へる思ひで聴き及んでゐる。これを月の明らかな日かと思へば、その時は今とも知られず、ただ寄せる風の湿やかさより、草の丈と丈のそよぎ合ふ和やかさと、勢ひの凄まじさの片はらにゐて、空しく晴れてゐる夜を想像するつもりでゐる。秋も暮れかと思ふ。

二〇二三年十一月六日


 かうあることをかうあるとしてひとの姿やこゑにその少なひ形の表れるのを、昼とも夜とも言ひがたひ明るさの日に、昼のとほのく程の思へがたさと此の今の夜の昼よりも人の形やこゑの影さへ目に映らなひ余りのとほさとを、日の頃合ひの冷へてくる時候の現れ方として此の詩を読む人に問ひかけたくなる。秋と冬の端境に立つほどに、筆より何か綴らうことを、ただ住まふことのやうに肯つてゐる。

二〇二三年十一月十六日


 此れをもつてわたくしの周り、若しくはその心の定める時や所のほとりにゐるひとの姿や自づからの気の配りとして、哀しんでゐるやうな、手の許の物の心の佇いに愛ほしんでゐるやうな、ただ時の影らう頃にむなしがるやうな、さういふ日のくりかへしと、日より考へられてゐる日と時の過ごし方、ひたぶる程度に動かうとあるわたくしより見へてゐるわたくしの似姿と、さういつた身のうへの態度をもつて目の前に置かれ響き離るままである言葉を読み、わたくしも何ほどか語り、語らうことをわたくしといふ人のほとりにさし置ひて、此れを何とも考へたくなく綴りたくなひと思ふ。さうとしか言ひ得ず、明らめられることもなく、日の重なり淀まずにうつろつてゆく日の内に忘れられ、いつかまた立ち現れる言葉をもて、それをただ時ばかり切なひ霧や霞の内に表してゐたひ。何も思はずに。

二〇二三年十一月二十六日



二〇二三年十二月


 さも百たりの無造作の行き交ひなど、またはその足どりの寂しがり切ながりむなしがるやうひとの目の向かふことなど、さうと言へいづれにもむつまじく秋のとなりへ退きつつ身にまつはる幾つまでなひ考へごとをけふの日の、風の色とてなひ漂ひ方より、あたかもその落ち着かづにゐる間合ひまで感じ得て来て、きたることと至ること、めひめいに去ることをもつて、目の醒めてから時に連なるけふかと考へられてゐる。書きづらく言ひがたく、しかしいつよりそれを身の辺々のこととして、何も分からづにゐる秋となく冬となくある梢の色の明るさのやうに、それを正しく考へてゐるらしひ。寝起きするつど、目のあたりにある時ほどの寂しさを、さう表せる。

二〇二三年十二月三日


 朝まだき、日の光のうるほふのに似た言葉として、影といふあざの表す身のにほやかさと、浦といふ日のくらひ身のさむさとを思へられて、おほきひともおほひとも確かに述べ綴られさうな、朝の日や風の色心地や音のふかさのまうらにゐた。もし寝てより醒めて、日の差し方のかたどる景色よりかう思へるなら、ささやかであり湿やかな日の静かさとして、晴れてはゐても日の光の滴れるやう思ふ。

二〇二三年十二月十日


 此れを誰かの読み得る文の形から崩し方、または整ひ方として、どこより聴こへどこより表れ発つでもなくただ和むままこの紙のうへにあり、それを詩としてさも時々の風の漂ひ方や色味のまま、したためてゐることを書くこととしても考へがたく、かうしてただ思ふことを思ふばかり思ふと述べるのみでゐる。若し風といふものの来たるのを、ただひととほり過ぎると思はれ、時の脇にまた風のゐて、樹や草の揺れてゐる様子を、昼とも夜とも隔てづにその日の日の光の差し方として、けふといふ字を心にそなへるやう此方へ表すことのできる。詩かと言はば詩と思はずにゐても。

二〇二三年十二月十四日


 宵のころ、かがよふ時と空のほとりのやうな、暗ひといふ言葉まで冴へてくる、とほざかるもののあへてまた来ると表さうか、さういふ今に、さも日のこととしてあらためて木の行く末をことはるほどの、此れを深ひと伝へたくなる夜の片はらにゐて、詩のこゑをうべなふやうに紙に字を書き写してゐる。字をたはめ、時のしたたる紐と紐を行き交はすくりかへしとして綴り、綴じ、わづかののちにそれさへことはるやうに日の今を連ねるのみとも思へられて、詩を書くことの切なさをこの宵のうすぐらさと静かさに喩へたくなる。

二〇二三年十二月十七日


 思ひ出すまでなひことを目の前の午の日の明るさの程のもと、このやうに冬めくばかりの鳥のさへづりや樹のうつとほしさや雲のなひ空の小暗さのやうに、人恋しく切なひ思ひを漂はせて、しかしその思ふことまで身の程の霞のうへにたなびく霞を目に見つつ、身にまとふやうでゐると思ふ。識ると言ふなら、これを言葉に確かめて、読むこととも書くこととも織り綾なせる一つの雲の姿や形であるとも考へられて、けふはこの虫の鳴く音も眠りに絶へた瀬ばかりの年の頃かと思はれてくる。さう言へば再びこれを識ることかと思ふ。

二〇二三年十二月二十四日


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