こゑを手に拾ふ日より - 25~30

こゑを手に拾ふ日より

二〇二四年一月~六月


二〇二四年一月


 かうして先の見へなひと言はうか、物と物の境にある明るひ所や暗ひ所よりとほのくと言はうか、程近ひ宵闇の内へ深まると言はうか、凡そ心をさうおとなしくさせてゐた。慰めと思ふより、日のことにこだはり戸惑ふ思ひと考へる方が、華やかな気のする。静けさと言ふならさうであるのに、幽かとも思へる。

二〇二四年一月十六日


 同じひやうに時の暮れかかり、ことごとにこだはる訳でもなひ時と近ひ思ひでもつて、今を身の表にあらはれるささやかさより味あふのを、色を分け、日を整へ、時をまた何とも分けへだてなく疎そかにするやうに考へられて、ただ暮れ方のひとつひとつの日の光のしたたる内にゐて、先のことまで思はずにゐれば、昨日とも明日とも思へる時のひたすらのさはがしさや心もとなさの重なり合ふ心地でゐる。詩を日と日ばかりの連なりに潜ませて、何程といふでもなく、ただかう書ひてしまへば、詩の読み書きの空しさに焦らさせる。

二〇二四年一月二十一日


 宵にかう近くなつて来ることをつとに時の浮き沈みしてゐるやうな居たたまれなさとして、時に加へるものも何もなひまま、けふの日もかう終はれる程であつて、此所より他へたつものも感じ入られず、思へばただ野に冴へて在る木や草の睡りに近ひ切なさでゐるのを、時や風や色合ひの重さとして日を追ふごとに眺め、其の内に置かれてゐる。手づからなるものであり、いつよりまだ何とてなひ景色の内を、眠りつつ歩く心地と言はうか。かと言ふと、其の人はただ横たはつて居て、それを時の重さとしてはかりつつ、昨日より同じくけふも日とともに暮れ月とともに暮れていつてゐる。そのために心を他に揺らせつつ。

二〇二四年一月二十七日



二〇二四年二月


 つらまへるわざをただ其の時のままに、手に取られやうなひ目の前とまなざしの行かれ果てなひ所へ向けて、此の心の仕方なひことごとの愁さもまた、来たり得なひ日かと思ふ。

二〇二四年二月八日


 日をたなにかう朧気に輝ひたり陰つたりを幾つも経て、恰もけふまで時も同じく、日かとも思ひ月かと思ひ、さもなくば雲かとも雨のしたたる日の明けてより暮れかとも思ふ、さういつた見へてゐるまでの彩りのさはやかさと言つた、この日と日の後を追ふ翌る時の日差しの色の連なりほどに、此の昼もまたあせてあり、寂しく集ひ、日の事と暮らさう事の同じひあたりに、さも其の人のたなのうへにて興りまたは亡びまたは生まれ収まつて行くものとして、日といふ日はそもそも川そのものに喩へられる。これを詩のあらかじめある言葉として、身のもとや詩を綴る机の手前にこゑを失ふなら、日は整はず、さうしてけふをひと日ばかりのけふのまま、思ひの定まらずにゐる心の在り様として、どこか暮らしのおほよそを失ふやうな思ひのしてくる。詩におひて此のことはひと時の昼の明るみに近く、さうであれ宵までの日の色の乾きに近ひ。

二〇二四年二月十一月


 日のことのひと日のもとに日の明るみ、その日の片はらに住まふ日の陰の飽くまでもの日の暗がりにおひて、ひとの生きてあることや亡びてあること、整はずつぶさであり、そのためそれを養ふといふ日の習ひであることを、落ちかかり延びて終ひ明くるまでのさも百よりとほひ程と思へる、影と影のいさかふ形に身の裏へ問はれるやうな気持ちでゐた。それを象りがたひ日の並び様として、かうして書き留めてゐたく、それを仕方なひと思ふ。

二〇二四年二月十八日


 かういつた時のそばに立ち広がり崩れてあるのを、時めくまま今の時かとまなざしのもやふ所や、失せては明るむ所より受け留めてゐれば、そのひと時を時らしく又は日の内の夜として考へることができる。さもさうして時を時かとならはせても、その新しさを日のとなりに敷ひてしまひ、また今も同じやうに新しくあれば、夜の更けとは言へ、時と言ふ言ひ表し方や、喩へ方まで、詩の片はらへそつと置き、読まれるやう書き綴じられてある。

二〇二四年二月二十一日



二〇二四年三月


 なほ暖かく湿りつつなべて日の底より手のもとへ程々にある日のふところにゐて、息づくこととまた息づくことの交はるあたりに、かういつたひとを激しく問ふやうな身の周りへのこゑの配りの彩りのおほきくなつてきて、いましがた暮れてよりの明けるまで、若しくは明け方に程遠く暮れ馴染むまで、此の身へとおさまれる静かさとうるささとを、てもちぶさたにしてまうけふをゐねやうとしてゐる。詩をあたかも手紙するといふ所を、誰かとも考へず身さへ飽きゆくこゑのなかほどへ発たせ、それをさも山の内にゐるやうにも感じ、山などなひまま山を望むやうにも感じ、その隣からただひとかたの日の差し方とも思へられて、詩を書くことを思ひ出だし、これらの景色を思へることも詩に近ひことかと思ふ。

二〇二四年三月七日


 やうやく時も明け暮れて、明るみと目の暗さとの暖かく変はつて来るため、人の気もその身のまはりの落ち着ひてくるのをさも捉へがたひ程のやうな寂しさを寄せるやうにも見へて、ひととほり身のもとの言葉のあたふところを連ね、書ひてゐたひと思へる日の長さになつてきた。夜の時の片はらにゐてもこの所まで未だ日の明けては暮れ、暮れては明ける静かな闇のあらはし方をおそろしひと思へるくらひ、けふも同じくかういつたものの考へ方や寄せ方を読み、書き、思ふといふのみでゐる。これらを若しただ人の身の周りのみにあるこころむなしさとして、しつらへる時と思ふならさうとも思ふ。唯読んでゐたひと思ふ。

二〇二四年三月十六日


 行くすゑをとどめる言葉を象らうなら、貰ふことや得ることや何か求めてあることなどのわづらはしささへ、自づから日のくりかへしのことごととしてまたうるさく、また面白くなく、またうるはしく思ふ。冬の居離り、春まで近く終はれるのを、彩るといふ形にして、その言葉をさう記し詩を日のことの片はらへ置くやうでゐる。これは問ふことと思ひつつ、さうでゐて話すことと同じと思へる。

二〇二四年三月十七日


 かう思ふ。見るものや見へるもののうち、その彩りや聴こへ様や手触りに喩へられてゐるものの、名を無さず、名の在らうまで自づからを肯はず、語らへば語らふことを拒まれてしまふ景色と言はうか、景色の中のその色のうつろひと言はうか、それをかう空しがり、恋ほしくあり、見へ様のあへて決まらずにゐるつかみどころの無さとして、かう言へる。競ふことや競ひ合ふことの凡そにして失はれた所をもつて、何も変はらず、さうと思へばただ打ちつけて去つて行きまた寄せてくる川の岸にゐるやうに、しつらへることとしつらへたものを畳むことの往き来ばかりの日の明るさに、何をか食らふのを楽しんでゐる。楽しひと言はば、楽しむことの余りの深さを、景色の中のひたすらのものへ預けてゐる。

二〇二四年三月二十四日



二〇二四年四月


 さにあらば草の笑ひ花の咲かうとするものをたださう留め置き、添はすやう自づから目に失せるやう気に留めず、またその形よりととのひ方までとほのひて行くのを、いづれかの朝のつどの気の置き様として、かう綴つてゐたく思ふ。さてその草花のある叢や野や路の脇の身の周りに在るかと言ふとさうに限らず、行くすゑの失はれ、現れるものの前にかたどられる時と言はうか、粧ひとしか言ひ得なひものの形にて、問はれ得ず、問ふことや問はれることを待ち続けるのを、詩のくだくだしさとしていづくの詩へか片寄らせてゐる。さうあることが花もしくは草の形を思ふのを目に助け、その目に留まらせることかと思ふ。

二〇二四年四月十日


 所縁のなひことでもなくさうとも言へば関わらうほどでもなひ朝となり、構への異なる草花や樹のまはりにあつて、朝の日の中ほどに野辺や道や屋の棟の在り様をおとなしく問ふてゐて、目の覚め方より此れをその日の畳み方としてさにありと静かでゐた。さういふさも自づからの構へをかへし、明らめてしまふやう落ちつかせ又はうるさがらせ、よほど前の日のことをただすのを日の明るみ、陰らひ、笑まひ青らむことのくりかへしかと思ふと、朝より夢の冷めてくるやうに思はれ、かねてまで草木の多ひ時の其れを囲む草木や花の、同じとも異なるとさへ言へる寂しさに、詩のことに限つて、手を添へるとはかういふ形の構へ方かとなほ体を静かに床の上に座らせてあつた。時を積むとも今ばかりとも思ふ。

二〇二四年四月十三日


 詩をたうに忘れたかと思ふなら、詩の心は目の前の道のそらぞらしく、わたくしのおよそ道といふ仮名のままの姿でゐる景色の現れ方の内に、話し合ふと言ふまた仮のならび方でもつてさう呼ばはれる亡び方として、またけふも昼よりなほ忘れられてゐたと思ふ。詩を尋ねるでもなく、だう表せばさうあるでもなく、さもとほのける日の暮れ方までの、時とも分かる景色のふるへる定まり方を時より借りて、詩の心の身のまはりとの隔たり方をさう静もらせ、さう定め、寂しがらせてゐる。

二〇二四年四月十八日


 言はれなひ道のもとにだうゐても、旅のこころの立ち、あはせて旅と言ふことばの定まり、身の周りには暮らすにそなへるもののほか何もゐなひとも、設へ整へたひらげ洗ひでかへすことのくりかへしとも、うちやつたり大人しく座り立ち居直ることとも思ふものの、ただひとつの日の日のかげや、目のもとの言葉の見へやうこころまでの思ふばかりの憂さでゐる。家にゐて、筋の合はさるやう整へてあり、野のもとにあるのを同じやう日を数へ、小暗さと明るさを携へるこころもちをして、日のひとつひとつを深ひと言へる怖ろしさより、さう考へ、野に喩へ川になぞらへ家の奥ゆかしさを見通さすなら、それを旅と考へる。

二〇二四年四月二十六日



二〇二四年五月


 這ふやうとも伝ふやうとも見へさうな音のほどき方で、雨の怖ろしく窓を湿らし静かに過ぎる日をなつかしみつつ、朝よりの日の大人しくまだ時の新しひ騒がしさを沈めるやうに、けふのことをまう日の暮れ方の手前と考へ、それを面白がり日の暮らし方を朝に計らひ、朝にはしまひ、さう思はれることとしてくだらなくまだ幾らとも経ずに家の内にゐる。暫くして、この時の重ね方や隔て方をだう現すか悩み、あはせて身の横たはり座るこころをさも深めつつ、たしかに日のしまはれて行くやうに思はれ、やうやく筆を休められさうに思ふ。これをひと日の計らひと考へるなら、覚めてよりの思ひ出の落ちつきと裏表にして、けふも昨日と同じくただ深ひやうに何も現されずにゐる。これを早くも思ひ出すのを手づから行ひ、まだ今は朝であり、優しくてある。

二〇二四年五月四日


 明けてより日差しの傾き、たまに降りたまに返すやうにある雨を浚ふと思ひ、さうでゐて降るとも言へるさはがしさの内に、暮れ方に日も明けたものと思はれてゐて、立ち働くのを愁ふほど静かであり、休んでゐたく、また空々しひ覚へでゐるのを疑ふやうでゐる。軽みのある閉ざし方をして言葉をかはし、片はらで纏ひ、雨の日ともあつて暮れてまでこの一日の形の取り方や姿の縁取り方でいづれのこだはる積もりさへ競り合ふのを、けふの身はここにゐるのもあつてか、日のなかほどに雨も凄まじく、親しげでゐて、しどけなくある。覚めてよりかうあつて、日とともに雨も細まり、たはみつつ深まつて行けば、降る雨の川に浚はれ落ち着くものと諳んじたくなり、そのもとに競り合ふものと言ひ表してしまふ。

二〇二四年五月十三日


 思ふにつけ、新しく思ひわづらふことの増し、忙しひやうに思ひ出の心を行き交ふのをまたくだらなく思ひ、さうと言ふとけふも同じく日のことの思ひに追はれ、出来事の新しひのみで居直れば同じく徒もなひ夜に空しくてゐる。さほどうるさくなく、かと考へるとさう寂しくなく、物思ふ目や耳を澄ますやうあらためて見れば、もだすよりなひ思ひのあつて、時のすがらか日の折ふしも今につけ鮮やぐものと思はれてくる。何も考へづに日をつなぎ、日の新しさをうるさがり、身の程をまた否み、さうでゐて恋しがるのを夜のくたびれた闇さの前へしまふのを、音の澄むことと考へてゐる。静かさを夜にもおそれられる。

二〇二四年五月十八日


 夜をまぢかにしてその夜の景色を思ひ、寂しひものと思ふとも怖ろしひものと感じ入られるとも言へて、夜のことをこゑに語らうにもただおのづから浚ふとしか言ひ表せず、向かはうとする物思ひの程を、したためるとばかり肯ひ得てゐる心の置き方や据へ方でもつて、夜半に近ひ静かさを思ほへるまま思ふやう目に浮かべ、思ひのもとへも浮き沈みさせてゐる。出向かふまで為すことのなくて、ひとりでゐることをその夜の色合ひに照らし、音の落ち着かづさはぐ深さに照らし、けふの物憂さと思はれ、やつらへるやうにゐる影の暗さを目のもとに仕舞ふものとしてかう綴つてゐる。夜のしづかさや小暗さのさもさみだれるやうに耳を打つ、音のはげしさとしても言へ、彩りの可愛らしさとも言へると思ふ。

二〇二四年五月二十三日



二〇二四年六月


 見やうことを見るままに、聞かれることを聞くままに、年に連なる日の折ふしを今ほどにさうあらうと言はば言へ、果たしてその考へ方もむしろ判らづにゐて、居たたまれなく物の見へなひことに口惜しがり、またそれを認めがたく、さういつた日と日の重なり方のやる瀬なさこそ詩を書き、読むことに似てゐると思ふ。喩へるなら、やうやくけふも景色の明るみ、雨脚のしどけなく寄せ去つたかと言ふと、まう道の葉の色までさはやかでゐるのを、歩き過ぎるほどの心と言はうか。これを恐らく詩と言ひ得るなら、詩はうるさすぎるし、愁さにも過ぎ、変はらづにゐるらしひ。

二〇二四年六月三日


 かうして樹は一筋に並び、となり合ふ道のしつらへ方に日差しの傾くのを見て、朝に対ひ葉のめぐむやうに思はれる時のほとりより、見やうとなく聞かうとなく脇にゐるものとして景色はその所と、昨日と言ふ仮の在り様をしたものとを儚ますやう影り、暮れかかる昼の日をかう明らめてゐた。通りにゐて、さう表されてゐると言へるその所の現れやうや表されやうにこだはりのあると言はばさうで、または見へづ聞き得づに深まる時をだう考へれば良ひかも捨て置き、蒸せる日を過ごすのに任せてゐることを思ふばかりでゐる。朝と知れづ昼と知れづ夕とも判らづ、どこへか向かひその所より帰り、さまよふこともあらば時の片はらにゐることを考へるでもなく、その日の傾くのを習ひのやうに繰り返してゐる。

二〇二四年六月九日


 おほよその葉の萌し終へて、愛ほしむことと憎み愁ふことの思ひの移り変はりをまた色に増さしめ、葉の繁る木影の奥と葉の内側の空しひこころをまなうらに休ませるまで、けふも息をし、身のうへは寂しく、惑ふものの内に漲るものの静もるやうで、居たたまれづに言葉を忘れ、ただ歩く業のもとへ手を添へることで、笑はうといふ手遊びを葉の叢の濃さに見てゐたと思ふ。見るものを肯ふといふことでもあり、聞くものに戸惑ふといふことでもあり、それらをあはせて自らの色に狂ふといふこととも思ふ。さもあらば読むといふことにも狂ひ、その暮らし方でもつてして、葉の影の濃さと比べて時を深ひと落ち着ける。

二〇二四年六月十七日


 ひとに手紙をしやうと思ひ、にはかにその時の興り方に酔ひ、さざなむと言へば瀬に波の滑るやうに思へるのを、かう記すのみでゐて、ひとにまで伝はるものの何もあり得づ、日の暮れを冷めて漂ふ風でさへ、だう書きだう言へばそれが醒めて涼しひと思へるのかもわからづにゐる。さうでゐて、手紙するために涼んでゐると、伝へるものも伝はるやうで空しくなつてしまひ、書き得づにただ表し、色味の湿りかはくところもある風を心に据へて、やるせなくたよりのことは身に遠ざけながら詩など書き、すでに異なるひとの隣にゐる気のする。暮れてしまふ前のかういふ時のうるささに気のとほくなり、話すといふことも失ふまま、何も書かづ、此れを詩と為せる。

二〇二四年六月二十日

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