『メビウスの地平』

2022年6月8日

いつ買ったのか分からなくなった歌集をずっと読んでいて、雨の小止みになった深更にやっと読み終えた。何かのウェブ媒体で本の紹介を見かけて本屋さんで注文したのは覚えているが、それがいつだったか、また買ってからしばらく家に置いておいて、読み始めたのがいつだったかもわからない。買ったのは、もしかしたら一昨年の末頃だったろうか。

ということは、冒頭あたりにどんな歌が収められていたかも覚えておらず、またとても長い時間をかけて読んできたので、この歌集に対する私自身の印象や読み方、歌の造作についての考察も、読み始めたときとこの読み終えたときではずいぶん違っているように思う。この文庫歌集の解説にある通り、近ごろの永田和宏の歌を先に読んでいた者としては、歌からうける印象が現在とだいぶ異なるという、歌人の別の一面を発見したのが第一印象だった気がする。

しかしその後、ゆっくり読み進めながらまた考えていった。確かにこの頃の歌とは異なる気もするが、よく読むと似通っている歌が多く、それを発見するとしばしその似通ったところについて考えてしまった。そうしてまた読書に時間がかかるのだが、気にせず気ままに読んでいき、しかしやはりこの歌人の新しい一面を発見したという思いは、今でも鮮烈に持っている。

初め、何というか、思想的な歌が多かったように感じられた。近ごろの歌が思想的でないというのではないが、おそらくそれは時代を知っているか知らないかという話であるように考えた。あるいはこれがだいぶぶしつけな言い方なら、逆に近頃の歌を、私にとってもっと思想と生活の密接した位相より詠まれている歌として、それが新鮮な思いを胸に起こしているのかも知れない。

その読み方はしかし、この第一歌集に先に述べた技巧上の共通点を見かけたとき、また違う感興を呼び起した。そしてそのように読み始めると、彼にとって歌はどのような造作として考えられていたのかということについて、深く自問せざるを得なくなった。これらは縦書きとして書かれたのだと思う。一つには息を継ぐように。もう一つにはどこか人間の豊かな官能の本質についてひたすら自問自答を繰り返すように。

そしてそう読み始めると、決して思想的な歌ばかりとは言えなくなってきた。むしろ生活と密接した思いの内にある、歌の心を掬い取ろうとする苦悩が感じられてきて、ああ、やっぱり永田和宏だ、と思ったりした。しかしこの読み方が先入観のもたらす偏った読み方だと言われたらそうである気もする。だがこの感動にはそういったバイアスよりも、長い時間をかけてこの歌集を読んでくる中で、歌それぞれの息づかいのような何かを感じられた喜びとして、一つの読書体験をもたらしたのだと思う。

本屋さんでふと客注した一冊としては、かなり読み応えがあった。積ん読の楽しみの一つは、このようにして思いがけない一冊とある日出会えることにあるのかも知れない。確かに本は買うときに最も多い熱量でもって手に取るので、買ってすぐ読まねばどんどん積まれていってしまうのだが、しばらく時間を経てから読むのもまた楽しく、それは売り物であった本が手許にある内に、一冊の本として成熟していく過程があるからだと思う。

夜更けに読み終わり、そして読み終えながらやはり歌に感慨を得て、そして今は詩のことを考えている。そう思うと読書はリレーよりも、物の心の発する声に耳を傾けつつ、夜の道をしめやかに歩く行為に、より多く似ているとも思える。

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