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第十七日 『アポロンの島』

  アポロンの島

 ミケネの遺跡はアテネへ行く街道から少し入った所にあった。柚木浩がミケネから歩いてこの道路に出て、バスを待っていた時には日が照っていた。コリントでバスが十分位小休止をした時、彼は下りて葡萄を買ったが、雨が頬に当たった。
 浩は土砂降りになっていた時を憶えている。彼はバスの一番前の席に乗っていて、運転手の前の窓にワイパーが通ると、直ぐ水が掛かって来るのを見ていた。外の灯は滲んで、何個あるか数えられなかった。バスは海に沿って走っていたが、早く日が暮れて、カーヴへ近づくと、雨以外にヘッドライトで照らし出される物体がないことがわかって、海が想像出来た。停留所でドアが開くと、彼の席からは外が見えて、寒い風を起こしている雨脚の勢いがわかった。

   小川国夫「アポロンの島」『アポロンの島』 講談社文芸文庫 90ページ

 これは静岡県藤枝の人、小川国夫が世に出した初めての単行本の表題作です。と言っても表題作も連になっており、その連のうち、表題と同じ一篇を選びました。
 私にとってこの本の栞はとても大事な箇所に挟まっており、それがどの場所かはあとで書きますが、この「第十七日」本文冒頭には意図的にこの一文を選んでいます。
 この文では、物事を一つ一つ配置していく描写と同じように、分節化された言語が一つ一つ順番に配置されています。日本語を読んでいるのにあたかも他の地域の言語を読んでいるようであり、なにかフランス語の訳文を読んでいる感覚があります。
 例えばル・クレジオに似ているような……

 しかし一方で、「彼はバスの一番前の席に乗っていて、運転手の前の窓にワイパーが通ると、直ぐ水が掛かって来るのを見ていた。」といった一節を読むと、この文が分節化の底にたゆたう言葉の通り道を歩いているのだと感じられます。ここに小川国夫の書く文の不思議な魅力があります。違う言語のようでありながら、別の言語と日本語の間に架かっている幽かな橋を、小川さんが一人で渡っている気がしてくるのです。

 この感覚を俳句というなら、小川国夫の小説は俳句的かも知れません。

 私は小川国夫という作家を、入沢康夫さんという詩人さんとセットで発見しました。今から10年ほど前、アルバイトを始めてお金をある程度自分で稼ぐようになったとき、幼少の頃に住んでいた京都を訪ねました。少し観光もして、その折何を考えたか東山から京大図書館へ歩き、その図書館で『入沢康夫詩集成』(青土社)を手に取ったのが入沢さんとの出会いです。「失題詩篇」等数篇を読み、ああ、近代がここに引き継がれているなぁ、と考えたのを憶えています。
 憶えています、というほどに淡くはなく、むしろ現代詩とのショッキングな出会いだったかも知れません。言語として詩を読むという、詩の再発見でもありました。
 京大図書館を出た私は京都駅に向かい、駅南のイオンモールにある大垣書店へ入りました。この「第十七日」の書影にはカバーがかかっており、本のタイトルが見えません。これは大垣書店のカバーです。大垣書店でこの『アポロンの島』を買ったのですが、小川さんとの出会いは私には特別な意味があります。

アポロンの島

小川国夫

   講談社文芸文庫

2010.9.7 京都
~2010.11.3 東京自宅にて読了(下二行は小倉による手書きー引用者注)

   小川国夫『アポロンの島』 講談社文芸文庫 1ページ

 この位置に栞が挟まっています。
 言語の分節化という、あたかも言葉の湖底が表象する喩を内省していく作業について、私は入沢康夫という詩人の目を通して見たのかも知れません。言語の野にすわった湖を、幽かとも、美しいとも、野性とも、枯淡とも思う心を一つ一つ検証していった末に、湖底から表を見ているまなざしが小川さんにはある感じです。

 (背景には戦争と、小川さんの経験した結核があることを付記します。)

 それが言語と言語の間に架かる橋として、世が世である理由を問いかけてきます。なぜこの世は存在しているのか……
 そう問いかける姿勢を不安というならば不安でしょうが、豊かというならば豊かです。入沢さんもこの「韻の秘密」をひそかに紡ぎ続けていたように思います。

 小川国夫という作家さんは、40歳まで同人作家でした。それがある日島尾敏雄さんによって新聞に取り上げられ、それ以降は商業誌で書くようになったという経緯を持つ方です。島尾さんは、送られてきた同人誌を仕事場に溜めておいて、ある時「この人だ」という作家さんを数号まとめて読むという読み方をしていたそうで、当初私家版として刊行され数年来ちっとも売れなかった『アポロンの島』は、島尾さんが取り上げてからたちまち売り切れたとか。

 私にはお礼を言わなくてはならない人がいます。
 京都へ帰省(帰旅とでもいいましょうか……)した私は、京大図書館へ寄った帰りバス賃が尽きてしまい、見知らぬ人から借りたことがありました。そのときは雨が降っていて、京都駅までのバス賃がいくらになるかわからず、バス停で地下鉄駅までの道のりを人に尋ねたところ、こういう時はお互い様だから、と言って、サラリーマン風の男性がバス賃を貸してくれたのを憶えています。私は地下鉄駅まで歩き、お金が足りなければ京都駅まで歩いて戻ろうと思っていたので、驚いてしまいました。その後、バス席に座って何かをじっと考えながら駅まで戻ったのですが、この体験の心の深さは、小川国夫さんを見つけた読書の体験とつながっている思いがします。
 このサラリーマンの男性の言葉は、今でも私の言語の底の湖から、私を見つめている気がするのです。

 例えば「アポロンの島」を思うとき、こういったレーゾンデートルの秘密について、考えてみることもできるのです。

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