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詩68 こづゑのもと

こづゑのもと

わたくしを身の周りから見て
身の程をわづかに支へ
大事に扱ふ 言ふなれば
扱ふと言ふ片はらで身のうへを
立てつつかたどり
さうしてその身を切なくあしらふと
言へばまた
身と言へる身の周りから表立つ
こゑにかなふと思へるらしひ
こゑをたてる
そのこゑは
わたくしの身をわたくしと
言ふのみでゐるその時の
ひと時となひ切なさのほとりにて
身の周りより見るわたくしの
身と同じひやうに
だうしても切ながり哀しひ程のこはささへ
とほざけつつ そのやうであり 唯に失せる

/小倉信夫

Twitter @hapitum 2023/5/10

 この詩を書き終えたのは10日の深更でした。どうしてか詩を書こうと思い立ち、散歩に行こうとしていたのを中止したあと、少し布団で休んでいたらだいぶ遅くなってしまったのですが、やはり書きたいと思って筆を執りました。

 書いたときはもう夜も遅くなっていて、書き終えたのは13時半くらいだったと思います。私は書いたときには題を決めないことが多く、長い詩を書いているときにも、書き始めてからだいぶ経って題を決めることがよくあります。中途で題ができたり、初稿を書き終えてから題を決めたり、稿を改める中で題が変わったりするのですが、近ごろ書いているこれらの短い詩群や、連載している詩などは題の付け方が違って、短い詩は書き終えてから数日後、連載詩については、連載の始まる前に決めてしまいます。

 具体的には、連載詩のまえがきを書いているときです。それはほとんど直観的に出てくる題なので、自分でも分からないまま題を付けてしまい、書いている途中や、書き終えてから題の意味を考えたりしますが、今でもよく分からないものが幾つかあります。ただどうも、その題に添うような内容になっている気はしていて、しかしそれも飽くまで気がするといったところでしょうか。

 ここに書いた詩は、日が明けてからわりと簡単に題が決まりました。これら短い一連の詩でよくある題の付け方は、Twitterに投稿したものをnoteに再投稿するにあたって、原稿を読み直し、題をつける、というものですが、この詩はやや異なり、詩を読まずに決めてしまいました。では詩の内容を覚えていたかと言うと、深夜に投稿したものを明くる朝に読んで以降読んでおらず、そのおぼろげな作品の印象のまま、夕方頃に買い物へ行くのに歩いていたらふと題が決まってしまった、という題の付け方です。

 これは、私にとっては特に長編詩の題を付けるときによくあるやり方で、やはり長くなるとどうしてもそういう方法になるのですが、今回は短い詩についてその付け方をしたので、最初は半信半疑でした。しかし題を原稿用紙に書こうとなって、これしかないという思いが、読む前に起こってくるとともに、少し言葉足らずである気もしてきて、上の題になったといういきさつがあります。

 あるいは語尾については不要であるかも知れません。しかしこの三つの言葉がある意味については自分でもよくわかっておらず、初めての三つについては恐らく明瞭な意味がそこにはあるのですが、この語尾の三つの言葉については、どうも蛇足であるというようにも読めてしまっています。しかしそれを投稿することで、かなり時間が経ってからこの題を読むことになり、そのときのことを考えると、どうも蛇足とは思えないような気のしていて、後ろを振り返らずに、そのままこの題にしてしまいました。

 私はよく、深夜に詩を書きます。いつの間にか、そういった仕事のペースになってしまい、日中でも書くとしたら夕方以降が多いです。これはもう、数年来の習慣なのでなかなか改まりそうもないのですが、眠気の中で書くのもだるいことがあり、さりとて書かなければ書かないで心情面が芳しくなかったりするので、どうしても深夜になってしまうのかも知れません。

 今日ももし書くとしたら、これから書くつもりです。書けるときには言葉が見えていて、その感覚があるのですが、ここ数日、その感じがあります。積ん読消化のために本を読み始めたからでしょうか。

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