こゑを手に拾ふ日より - 29

こゑを手に拾ふ日より  二〇二四年五月


 這ふやうとも伝ふやうとも見へさうな音のほどき方で、雨の怖ろしく窓を湿らし静かに過ぎる日をなつかしみつつ、朝よりの日の大人しくまだ時の新しひ騒がしさを沈めるやうに、けふのことをまう日の暮れ方の手前と考へ、それを面白がり日の暮らし方を朝に計らひ、朝にはしまひ、さう思はれることとしてくだらなくまだ幾らとも経ずに家の内にゐる。暫くして、この時の重ね方や隔て方をだう現すか悩み、あはせて身の横たはり座るこころをさも深めつつ、たしかに日のしまはれて行くやうに思はれ、やうやく筆を休められさうに思ふ。これをひと日の計らひと考へるなら、覚めてよりの思ひ出の落ちつきと裏表にして、けふも昨日と同じくただ深ひやうに何も現されずにゐる。これを早くも思ひ出すのを手づから行ひ、まだ今は朝であり、優しくてある。

二〇二四年五月四日


 明けてより日差しの傾き、たまに降りたまに返すやうにある雨を浚ふと思ひ、さうでゐて降るとも言へるさはがしさの内に、暮れ方に日も明けたものと思はれてゐて、立ち働くのを愁ふほど静かであり、休んでゐたく、また空々しひ覚へでゐるのを疑ふやうでゐる。軽みのある閉ざし方をして言葉をかはし、片はらで纏ひ、雨の日ともあつて暮れてまでこの一日の形の取り方や姿の縁取り方でいづれのこだはる積もりさへ競り合ふのを、けふの身はここにゐるのもあつてか、日のなかほどに雨も凄まじく、親しげでゐて、しどけなくある。覚めてよりかうあつて、日とともに雨も細まり、たはみつつ深まつて行けば、降る雨の川に浚はれ落ち着くものと諳んじたくなり、そのもとに競り合ふものと言ひ表してしまふ。

二〇二四年五月十三日


 思ふにつけ、新しく思ひわづらふことの増し、忙しひやうに思ひ出の心を行き交ふのをまたくだらなく思ひ、さうと言ふとけふも同じく日のことの思ひに追はれ、出来事の新しひのみで居直れば同じく徒もなひ夜に空しくてゐる。さほどうるさくなく、かと考へるとさう寂しくなく、物思ふ目や耳を澄ますやうあらためて見れば、もだすよりなひ思ひのあつて、時のすがらか日の折ふしも今につけ鮮やぐものと思はれてくる。何も考へづに日をつなぎ、日の新しさをうるさがり、身の程をまた否み、さうでゐて恋しがるのを夜のくたびれた闇さの前へしまふのを、音の澄むことと考へてゐる。静かさを夜にもおそれられる。

二〇二四年五月十八日


 夜をまぢかにしてその夜の景色を思ひ、寂しひものと思ふとも怖ろしひものと感じ入られるとも言へて、夜のことをこゑに語らうにもただおのづから浚ふとしか言ひ表せず、向かはうとする物思ひの程を、したためるとばかり肯ひ得てゐる心の置き方や据へ方でもつて、夜半に近ひ静かさを思ほへるまま思ふやう目に浮かべ、思ひのもとへも浮き沈みさせてゐる。出向かふまで為すことのなくて、ひとりでゐることをその夜の色合ひに照らし、音の落ち着かづさはぐ深さに照らし、けふの物憂さと思はれ、やつらへるやうにゐる影の暗さを目のもとに仕舞ふものとしてかう綴つてゐる。夜のしづかさや小暗さのさもさみだれるやうに耳を打つ、音のはげしさとしても言へ、彩りの可愛らしさとも言へると思ふ。

二〇二四年五月二十三日

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