こゑを手に拾ふ日より - 31~36

こゑを手に拾ふ日より

二〇二四年七月~十二月


二〇二四年七月


 型に沿ふ。型にこだはる。かへりみて、あらばあるものの向かふに表立つものとして、偏つてゐるとも思はづ、あへて悟られづにゐることの喩へのまま、今も身のあり方を分からなひままにしつつ、型といふ程と程の重なり方より身を隔たらせ、その為に心の休める暇を失はうとしてゐる。さうあらばさも、花や葉や風のあるのを、そのままに書けると思へて、また幾ら書かうと書き得なひと思へる。おほむねそれは、読むことを嫌ふことらしひ。

二〇二四年七月十八日


 かうしてこころの整はづにゐて、絶へてまで日のこはく明るみ、または日の光の差す窓のまはりをかげらふために、こころよりこのこころのうつとほしさを嫌がつてゐることが、かへつて朝も昼も夜も時の目にうつろふのを静かにし、うるさがらせ、日に増して暑くても身の程をしどけなくしてゐる。かう書ひて此の言ひ様をあへてほどひてしまふなら、此れらの物の思はれ方を、夏のからうじて前の日の夕立ちとして、したためられると思ふ。

二〇二四年七月二十日


 わづらはしひ夏のこころのあたらしさを目の当たりに、昼の頃にはあたたかすぎて、夜の更け前と朝のさはやかな頃ばかりに、さもことばとこゑの片はらにゐて、読むことを此れと為し、ただ何も語らはづにゐる。時に増して目もふさはしく霞み、人とも余り集はづにあつて、あたたかに過ぎる日ばかり、朝に起き、服をかはかし、物を購ひ、夜に眠る。

二〇二四年七月二十九日



二〇二四年八月


 けふも悩みに明け暮れてゐて、日のままにこゑをしはぶかせ、働くことも思ふ通りにならなひのを愉しみ、味合ひ、悶へてゐると、語らふこゑの乏しさの内に日に差され暑がれる身のやせ、定まつて行く思へのあり、日の涼む内にはかうして身の在る所をかへりみることこそ、働くといふことの折から折へのくりかへしのやうに思へて、身の程を今もなつかしんでしまつてゐる。若し喩へられるなら、草をまとへば草かたびらの、花をまとへば花かたびらの、涼しくあらば切なひのみの、夏らしく、秋前の風ばかりしとどに湿るころとして語られ、ただ懐かしむものを懐かしめると思ふ。

二〇二四年八月十二日


 さも人に対ふといふことを思ひ出すやうに、夏をしまはうとする程の夏らしひ秋風の吹ひてきてゐて、未だ夏より前とも言へさうな、日と日との間よりかげらひ、その小暗さから寄せる風の心地と軽ひとも重ひとも爽やかとも思ふ。日や時の経つて行くのをつどに思ひ悩むのは、暮らしに逆らひさうあつて寂しめる身の、涼めるまでのおほきさや小ささを感じ得て身の上へ纏はせるためとうぬぼれてゐる。かういふ日の並べ方をして、人と対ふのに大人しくあるのは、夏の涼しひためと思ふ。

二〇二四年八月十五日


 かなしひことや寂しひことのたび重なるのが八月の終りのこととして、風もかはき、日差しも落ち着ひてきたためか、安らひでゐた日の連なりや、やるせなく居たたまれづにゐる日の愁さも、いつものことに同じひやうに冷めてきてしまひ、これをけふは秋口として考へたくなる。むなしがり切ながる思ひのあるうちに、虫といふ虫の息の根は絶へ、葉は色づひて行き、年はみのつて、空も冴へてしまふのを、今に未だ哀しひとも寂しひとも思はれる。さにあらばけふは夏とも秋とも言へ、この暮らし方でもつてして日を懐かしんでゐる。

二〇二四年八月二十五日



二〇二四年九月


 わたくしのことを面白がつてか、嫌ふやうに思つてか、のどけくあつてか、日に代はり人のおとなひ人の語りおもんばかるやう聴こへる日々のあつて、欺くものも驚かすものもその人らにもわたくしにもあるのをうち騒ひでゐれば、この独り住まひの部屋は寂しく、明るく華やひでもゐて、雨の降り日の明るむ日はなほ秋も来たかと思へてきてそらぞらしひ日を過ごしてゐると思ふ。時によつては景色は色をなくしてしまひ、ある時はそれをむなしがるやう色合ひの移ろふので、風の向かふ方へ此の時も流れ行き交ふものと見へてゐる。何も計らはづ、何もおさめづ、何も思はなひでゐると日はすさぶやうに繰り返される。

二〇二四年九月十九日


 窓際にゐて、窓のうへを少しく眺め雲の色のしたたるのをうるさがり、面白がつてむつかしがりながら、いつに増して少なひ昼の物を食べてゐた。うつとほしく降る雨に、おのづからいらだち、言ふ前の言葉は忘れられる。

二〇二四年九月二十二日


 いらだたしひ思ひを得るのは、今ほどにして健やかでゐたひと思つても、ひとりとして胸の落ち着かづ、それもいらだたしさをもよほさせる日の暮れの寂しさであるらしひ。集へば別れ、密かに集ひ、したはしさを嫌ふのは心の計らひのなさかと思へて、さうあればそれをけふのしまひ方のひとつとしてしまひ、いたたまれづにゐる内に勤めのやうに身をふりかへつては、詩を書きまた人と集ひに行く。

二〇二四年九月二十三日


二〇二四年十月


 だうあれば心のしづもり、心の落ち着き、だうあれば凝つたりほどけたりし、纏まりつつあらため、時とも言ひ、実りとも言ひ、布とも言へ、然し一つの部屋の暮らしとも言へる日を、だうあらばしつらへられるか、幾ら語り、幾ら関はり、幾ら考へても、なべて変はらずけふも空しくてゐる。此の寂しひばかりの日の過ぎ様を、まう秋ともなつて、思ひに暮れつつ、日の涼しさを恨めしく思ほへる。

二〇二四年十月二十一日


 ひとの厚意に甘へてゐるのを、また何かもてなすもののなくてはならづ、さうあれば然し調へるものの形のをかしくなる気のして何も行へづ、かと言ふとひとは落ち着かづにゐてしまふので、出来うることを出来うる内にしてゐれば良ひやうであり良くなひやうであり、自づから集へるもののそこかしこにゐて、それがさも見へなひ境をしめしてゐるやうに見へ、此の時を秋かと思ひ、また冬のしたごしらへかとも思へる。その所の草や木の崩し方の移ろへば恰も色を変へるかのやうに風の騒ぎ、日の光はかげらひ、花も虫もをかしく舞ひ、またいつか今にかへれる。さう考へれば、目に映る同じひ空もひとつ所として同じではあり得づ、あらたまらうとも変はり得たためしのなひものとして、翌る空に連なつてゐる。ひとの集ふことの腹立たしさかと思ふ。

二〇二四年十月二十六日


 かう伝へればかう伝はり、かう考へればかう考へ、かう思へばかう思ふのを、山と言はば山であり、川と言はば川であり、空と言はば空であつて、ここにしだける戸惑ひのある。だう語らうと目も定まらづ、または昏く、日の明ける前にはさも等しく眠つてゐて、また語らへばここにひとつの暮らし方の、だう見てもただ同じひひとのゐる。日を追つて秋も熟れてゆくやうであり、冷めてゆくやうであり、さして志すものもなく何も日をこなさづにゐれば、色も深まり空も黙し夢もしはぶく。

二〇二四年十月二十八日



二〇二四年十一月


 さも裏返し、語り得づに集ひ寄せうるさく言ひつのつては取つて去る、晴れやうと雨の降らうと風のあらうと幾たびもあつて、あらたまり、幾たびも失はれて行く業を思ひ、時とも喩へ川とも喩へ海とも喩へ、然しただ今に去る日の関はり方らしひと、何もなく思ひ出だされる。いづくにゐても同じひのだと誰かの語り、さにあらばさうあるのだと、悶へ争ひつつ日ののちは人により何処へも憂へる。

二〇二四年十一月二十日


 問はれてもなほこたへ得づ、あるやうにありあつたやうにあつて、おのづからの向かはうとするところと対かひあつて語らはうとするところのややはなやぎ、やや嫌がり、何でもなく見へ聴こへるものを恐らく手紙すると言ふ。雨のしだける日かとも言ふとさう思へて、たださすらへる日の宵かと言ふとさうも思へる日を、ああ言へばかう言ひ、かう言へばさう言ふのだと、空しがり切ながり日の度に困るものとして、問ふと言ひ表したくなる。貧しければ貧しひなりに、あへて哀しまうとするかのやうにその思ひを手紙するなら、それはさうあるとしか言ひ得づ、さうも言へなひ。関はるといふことは儚むことに似てゐる。

二〇二四年十一月二十四日


 寂しひほどの身の周りに物音のしはぶひてゐて、樹のほとり、実の近く、日の光のかざし方の飽きてくるところとは、音のしまはれ、現れ、とほざかる間のことを言ふと思ふ。ただこれをしたたかに聞くと言ふ言葉として、まだむなしひ秋の辺りに身を置けば心華やぐ。

二〇二四年十一月二十五日



二〇二四年十二月


 けはひのたつ日の身の周りはしはぶひてをり、にほふ日の夜半のことごとは震へてをり、かはく日の身の近くには物の気配のあり、翌る日に連なりつつ樹を伝ひ布を伝ひいづくかへ凍みて去らうとしてゐる。または集ひつつ集はせつつ身の周りに黙してゐて、匂へば立ち、嫌へば散り、殺めれば身を問ふのを花とも考へただにするまま、冬のこととしてのみ寒がりながら、日とともに翌る日に備へてゐるのみでゐる。その飽くるやうな頃の空をたなにつくやう思はれても、花に身を染めるのを嫌ひつつ、去り気なひ手の置き方や惑はせ方で染まりながら口惜しひ思ひのある日もある。此の所を冬と思へば春はまう隣より来る。

二〇二四年十二月二十九日


 際立つてゐる装ひもあり、だらしなくてある装ひもあり、筋のかよふ風のよそほひを見つつ、またたくさまに霞むのを辻と言ふあらはし方で構へてゐる。笑ふやうとも休むやうとも見へてそのたたづまひはめかすとも、あらためて粧ふとも言へ、日の光の瀬の音もまぢかくまで来て、はやくもその日の暮れ方を思はせるありさまでゐる。冬とよばはばさうであつて、春とよばはばさうでもあつて、ただひとときは隈をなくしさまよふやうにゐる。

二〇二四年十二月二十九日


 ならぶと言ふ、失ふと言ふ、引くと言ふ、むなしがりせつながりかなしめるやう、さのまへへ添へ笑ふやうに語り、砕くやうに笑まひ、身のもとへ遠のき引ひて行くものを、けふの川のせせらぎと思ふ。まだかすみ、まだ残り、聴こへてゐる音を背の前へ見て、樹のほとりの川を耳に聴き、そのこゑに集はせる。またはたださびしがり、町に日もかげらふ。

二〇二四年十二月三十日

こゑを手に拾ふ日より - 31~36|小倉信夫