こゑを手に拾ふ日より - 28

こゑを手に拾ふ日より  二〇二四年四月


 さにあらば草の笑ひ花の咲かうとするものをたださう留め置き、添はすやう自づから目に失せるやう気に留めず、またその形よりととのひ方までとほのひて行くのを、いづれかの朝のつどの気の置き様として、かう綴つてゐたく思ふ。さてその草花のある叢や野や路の脇の身の周りに在るかと言ふとさうに限らず、行くすゑの失はれ、現れるものの前にかたどられる時と言はうか、粧ひとしか言ひ得なひものの形にて、問はれ得ず、問ふことや問はれることを待ち続けるのを、詩のくだくだしさとしていづくの詩へか片寄らせてゐる。さうあることが花もしくは草の形を思ふのを目に助け、その目に留まらせることかと思ふ。

二〇二四年四月十日


 所縁のなひことでもなくさうとも言へば関わらうほどでもなひ朝となり、構への異なる草花や樹のまはりにあつて、朝の日の中ほどに野辺や道や屋の棟の在り様をおとなしく問ふてゐて、目の覚め方より此れをその日の畳み方としてさにありと静かでゐた。さういふさも自づからの構へをかへし、明らめてしまふやう落ちつかせ又はうるさがらせ、よほど前の日のことをただすのを日の明るみ、陰らひ、笑まひ青らむことのくりかへしかと思ふと、朝より夢の冷めてくるやうに思はれ、かねてまで草木の多ひ時の其れを囲む草木や花の、同じとも異なるとさへ言へる寂しさに、詩のことに限つて、手を添へるとはかういふ形の構へ方かとなほ体を静かに床の上に座らせてあつた。時を積むとも今ばかりとも思ふ。

二〇二四年四月十三日


 詩をたうに忘れたかと思ふなら、詩の心は目の前の道のそらぞらしく、わたくしのおよそ道といふ仮名のままの姿でゐる景色の現れ方の内に、話し合ふと言ふまた仮のならび方でもつてさう呼ばはれる亡び方として、またけふも昼よりなほ忘れられてゐたと思ふ。詩を尋ねるでもなく、だう表せばさうあるでもなく、さもとほのける日の暮れ方までの、時とも分かる景色のふるへる定まり方を時より借りて、詩の心の身のまはりとの隔たり方をさう静もらせ、さう定め、寂しがらせてゐる。

二〇二四年四月十八日


 言はれなひ道のもとにだうゐても、旅のこころの立ち、あはせて旅と言ふことばの定まり、身の周りには暮らすにそなへるもののほか何もゐなひとも、設へ整へたひらげ洗ひでかへすことのくりかへしとも、うちやつたり大人しく座り立ち居直ることとも思ふものの、ただひとつの日の日のかげや、目のもとの言葉の見へやうこころまでの思ふばかりの憂さでゐる。家にゐて、筋の合はさるやう整へてあり、野のもとにあるのを同じやう日を数へ、小暗さと明るさを携へるこころもちをして、日のひとつひとつを深ひと言へる怖ろしさより、さう考へ、野に喩へ川になぞらへ家の奥ゆかしさを見通さすなら、それを旅と考へる。

二〇二四年四月二十六日

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