こゑを手に拾ふ日より - まえがき

冒頭に

 この詩集は、詩で記す一つの日記として書いていくつもりの、いつまで続くかもわからず、またいつ終わるともわからない、しかしある日ふと終わってしまい、また別の形で新しく始まるかも知れないような、企図のない企みです。もしかしたら二〇二二年で終わるかも知れないし、それとも次の年まで続くかも知れず、まだわかりません。
 そして日記とは言え、毎日記している訳でもなく、また月ごとに決まった量の詩がある訳でもありません。もしかしたら詩には連関がなく、ひたすら言葉の影を追いながら、あるいは一篇ごとを、それぞれ一篇と呼ぶこともできるかわからない詩の連なりとして書いていくつもりです。
 そのように全く企みのないまま始まり、そしてついに企みをもたずにしまおうと考えていて、私にもどのような詩集となるか、まだわからずにいます。
 日々を丁寧に積み重ねた、その記録であるかと言うと、決してそうでもなく、これを記録と呼んでいいかもわからず、では一体この日記は何を記していこうとしているのか、おそらく記そうとすることそのものを記そうとしているようだと思うこともありますが、そうでない日もあり、何とも言いがたい詩集だなぁ、と思っています。
 さて、この頃の世相はと言うと、日ごとに何か心の愛憎の陰翳の深まっていき、どうとも分からない混乱をしているように感じます。自然というのは耳を澄ますとすぐ近くでいつもと変わらないようにそこに在りますが、人の心の愛憎もまた自然の一つの在り方ならば、あるいは混乱しているのではなくて、これまで在った命がこれまでの通りに生きようとしているようにも感じられます。しかし一方で、何か言葉や声への、人の心の渇きのようなものを感じられもするというと、うぬぼれに過ぎるでしょうか……
 この詩集を作ろうと思ったときに、世相から来る企みのような感情はないようにも思っていましたが、こう考えると、自然のもつ声の寂しさとその内側の豊かな在り様を書き留めたいのかも知れないと思えてきます。しかしそれも私にはわからず、ただ日記として書こうと思う心より書き始めるばかりです。
 記録ではない日記として……
 どのような詩集となるか、まだわかりませんが、お付き合いいただけますと幸いです。この詩集を終えるまでか、また半ばには、世相が落ち着いたらいいなぁ、と思っています。

   二〇二二年一月三〇日  東京 立川  小倉信夫


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?