こゑを手に拾ふ日より - 26

こゑを手に拾ふ日より  二〇二四年二月


 つらまへるわざをただ其の時のままに、手に取られやうなひ目の前とまなざしの行かれ果てなひ所へ向けて、此の心の仕方なひことごとの愁さもまた、来たり得なひ日かと思ふ。

二〇二四年二月八日


 日をたなにかう朧気に輝ひたり陰つたりを幾つも経て、恰もけふまで時も同じく、日かとも思ひ月かと思ひ、さもなくば雲かとも雨のしたたる日の明けてより暮れかとも思ふ、さういつた見へてゐるまでの彩りのさはやかさと言つた、この日と日の後を追ふ翌る時の日差しの色の連なりほどに、此の昼もまたあせてあり、寂しく集ひ、日の事と暮らさう事の同じひあたりに、さも其の人のたなのうへにて興りまたは亡びまたは生まれ収まつて行くものとして、日といふ日はそもそも川そのものに喩へられる。これを詩のあらかじめある言葉として、身のもとや詩を綴る机の手前にこゑを失ふなら、日は整はず、さうしてけふをひと日ばかりのけふのまま、思ひの定まらずにゐる心の在り様として、どこか暮らしのおほよそを失ふやうな思ひのしてくる。詩におひて此のことはひと時の昼の明るみに近く、さうであれ宵までの日の色の乾きに近ひ。

二〇二四年二月十一月


 日のことのひと日のもとに日の明るみ、その日の片はらに住まふ日の陰の飽くまでもの日の暗がりにおひて、ひとの生きてあることや亡びてあること、整はずつぶさであり、そのためそれを養ふといふ日の習ひであることを、落ちかかり延びて終ひ明くるまでのさも百よりとほひ程と思へる、影と影のいさかふ形に身の裏へ問はれるやうな気持ちでゐた。それを象りがたひ日の並び様として、かうして書き留めてゐたく、それを仕方なひと思ふ。

二〇二四年二月十八日


 かういつた時のそばに立ち広がり崩れてあるのを、時めくまま今の時かとまなざしのもやふ所や、失せては明るむ所より受け留めてゐれば、そのひと時を時らしく又は日の内の夜として考へることができる。さもさうして時を時かとならはせても、その新しさを日のとなりに敷ひてしまひ、また今も同じやうに新しくあれば、夜の更けとは言へ、時と言ふ言ひ表し方や、喩へ方まで、詩の片はらへそつと置き、読まれるやう書き綴じられてある。

二〇二四年二月二十一日

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