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詩52 霧



さういふことばのあらうほど
思ひながら耳をかたむけ
さもことばを縁どらうとおぼへると
ややこころも重たく
ことばを失ふやうな心地のことばを湛へる程
あらうことよりなからうことばの
どことなく
聴こへては体のうへへ触れる気のしてゐる
さつきより
音と言つて雨を夜の長ひ時のかよふ
こゑよりとほひ耳元へ
雨を雨らしひ穏やかさとして
さはつてきてはこゑをまたたちのかせ
秋雨の
身のしどけなさを思はせてくれる
ことばさへ
あるくらひその在り様に
耳を傾けるといふ態度を得てしまふ程涼しひ

/小倉信夫

   (2022年10月14日のツイートより引用)

Twitter @hapitum 2022/10/21

 ややともすると忘れがちな記事の更新を、ふと思い出してこうしてここへ詩をTwitterから引いていますが、スマートフォンでアクセスするnoteの記事は明朝体の表示にしており、自分の書いた詩が明朝体として表示されるのを見ることが、実は少し楽しみです。

 同人誌をしていたときは、もともとTwitterでよく書いていたのを、急に紙媒体に書き始めて、そのとき印刷した文字がウェブ上にアップロードされて見える文字とは全く違ったことに愕然としました。一日一篇というのをずっとTwitterでしていた時があり、そのときは詩作用ノートに書いた詩を、毎日投稿していたのですが、やはり投稿する際にも推敲が加わり、それがウェブに載るとあたかも完成された詩のように見えていたのですが、その後雑誌を始めてみたら電子的な画面に映る文字と、紙として印刷された文字の質感の違いに驚いたのを覚えています。

 雑誌で詩を書き始めたときは、紙を通して読者と交流することを前提に書くことになり、それはデバイスの画面を通した交流とは違ったコミュニケーションなのだということを、どうしても考えざるを得ず、それはおそらくその文字が印刷された明朝体であるのか、それとも電子的な画面に映った明朝体であるのかというところに、最も極端に現れている文化的な差異だったと思います。

 つまり原稿用紙に詩を書き、それをデバイスの画面に入力し、そしてその入力された文字を出力して読み直すことをしたときに、一見するとデバイス上では完結していたかに見えた詩が、印刷されたことでより一層、というよりかなりという位の程度、未完成なものとして映るということが、何度繰り返しても起こってくるようになったのが不思議だったのだと言いましょうか。

 実はこれは、その一日一篇として書いていたTwitter詩を詩集にするときも同じでした。日が経ってから編んだというのもありますが、やはりこのときも自分の持っているプリンタで何度も刷り、それを自分で糸綴じにし、何度も読んで、何度も直すという作業が発生しており、それは上のような体験と全く同じでないものの、似たような文化的な差異による紙の上でのフォントへの落とし込みという現象が起こっていた気がします。

 それを推敲というのなら、推敲なのかも知れませんが、私にとってこれは推敲ではなく、未成熟なものの別の媒体への適合作業に似ていたと思います。つまりそのようにして、刷ると決めた段階で膨大な作業が生まれてくるのですが、推敲はおそらくその詩が書かれている段階で行われており、それは推敲という名の意識体験に近いと私は考えています。

 それとも今はそうして書いているだけということでしょうか。

 このようなことを考えるのも、また文フリが近づいてきたからで、さっき日程を間違えて覚えていたことに気がつきました。この時に刷った詩集を販売しにまた会場へ向かいますが、そろそろ何かまた印刷をしたい気も起こってきています。

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