詩78 一時
この前の日の夜にスマートフォンのレコメンドへクンデラの訃報のニュースが流れてきて、面食らったのかなんとなく呆然としてしまいました。まだ存命だったということにまず驚いたのですが、次には亡くなったということに驚いて、しかしクンデラの作品をあまり読んだことがなかったために、その感情はどうも曖昧模糊とした呆然さとしか言い得ないものだった気がします。
しかしクンデラと言うと世界文学を語るときには名前の出てくる一人ということもあって、いつか読まなくてはと思いながらずっと手に取れていない作家の一人であり、そしてそのまま読まずにいたのが訃報を聴くと何か悔やまれる思いのしてくるのが訳の分からず、急に手持ち無沙汰な心地になった感じです。
文学の世界に疎く、さほど数を読んでいない私でも名前くらいは知っており、しかしほとんど知ったかぶりの知識というものさえ持ち合わせがないのに読まなくてはと思わせる何かがあった作家だったため、日の暮れた室内にいて、途端に気持ちが静かになってしまいました。近ごろ国内にせよ国外にせよ一時代を築いた世代の作家の訃報に接することが多く、何かそれらの時代のアイデンティティを象徴していたような人物の死を聴くにつけ、時代が移り変わっているような気分になります。
大岡信の著作に『蕩児の家系』という、主に日本の近代詩の歴史について書かれた論考があり、ざっくばらんに言ってしまうと、近代以降の日本の詩の歴史は前の世代の築いた時代を後に続く者がそれに反発し、あたかも家出を繰り返すかのごとく新しいムーブメントを興すという形で、「継ぐ」という概念を意図的に喪失しようとするところに特徴があったのではないかという話なのですが、これをこのクンデラの死や近年の相次ぐ著名作家の死と結びつけるのは拙速であるとしても、どうも連想させずにはおかず、連想させるのであればその蕩児は果して今どこで何をしているのかということが気になります。
これは逆説的な指摘で、つまり日本にはまだ確立された詩の歴史といった代物がないのだとも読めますが、こうして訃報を聴くたびに考えさせられるのはやはりこのメタボリズムのような思想で、更改されていく歴史という考え方を敷衍する人物を探してみたくなります。といっても、上記のように読書がまばらである私にはとうていできない作業であり、ぼうとしたまま一日を過ごすことをひたすら繰り返すような日々なので、もしかしたらどこかで蕩児はすでに家出を始めているのだろうかとも思えますが、私にはよく分かりません。
そう思いつつ、しかし一時代を成した作家の死を聴くことが度重なるのは寂しいという思いを通り越して、どこか口惜しい思いのつど重なってくるようなもので、それが日暮れのひとときを余りに寂しくさせてしまい、胸に穴が開いたような気持ちにさせたのかも知れません。
そうしていると途端に詩を書きたくなってきて書いたのが上記の詩なのですが、まだ今にはこの詩は私には読めず、しかし読めるときが来るような実感もないので、まだ詩の言葉ごと霧のなかに漂うような心持でいます。
あるいは訃報というのはそういった類いの感情を起こさせるためにかえって人を言葉に向き合わせるのかも知れません。しかしどうもそれが私には正直なところで、そう言いつつまだ呆然としてもいます。この頃は、日を静かに振り返ることもままならない日々なのですが。
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