こゑを手に拾ふ日より - 13~24

こゑを手に拾ふ日より

二〇二三年一月~十二月


二〇二三年一月


 時のかほどそらぞらしひ、暮れかかりつつ時の内のこゑのなひ、飽く程に、同じひ色合ひとおほきさと陰のこがねのうつろひ方とをくりかへし、手と、手の表しかたどる寂漠ばかり、時の失ふ、こゑの円みを恰も失ふ、失はうまま、空そのものを寂しんで見てゐる。

二〇二三年一月八日


 平静をその日と日の折り返す、暮らしの波のおもてを空に、寄せるとも散るとも笑まはうともなく同じ動作をつづらに束ね、かうまで物と物の境のこゑに耳を澄ませる、日をまた畳み表へ返すやう、聴こへるこゑへ立ち留まりたく、文字の在り処の片はらへ、その日の風や光の色合ひを思ふ仕草で、手を添へることは、読むといふことらしひと思ふ。それをもし、情愛と言はば淵の深ひ情愛であると考へられ、さうして自づから考へることより、いつか平静もつづらにその情愛の静かさの内にゐると思ひ、またあはくさう感じる。

二〇二三年一月十五日


 立ち枯れた樹の並ぶ程、わたくしの身の程度より手前から、しだひに景色のとほくへ樹をずつと序べてゆき、規めに正しく、樹も樹を見凝める私の目の向かうも、道の程の奥まるに連なつて色や光や、それに伴ふ空を失ひ、やはり冬は官能のしたためるこゑをかうまで白ませるのだと、考へつつ身よりわたしくしを歩かせてゐた。こゑの芯のこごへて寒く、色と光を失ひながら、何もなひ五つの心を冴へて静かに、冬を冬らしく、春もまた近ひ折かと、樹の序びから思はれる。とほくまで樹の各々ふるへ、寒々しひ、波を身許へ寄せながら、わたくしは身さへ失ひ、冬のとよめく、官能の淵の近くを毎日のやうに歩ひて過ごす。

二〇二三年一月十九日


 冬の佇ち樹がさも嬉しさうに、それを其の地の上や平らな空の周辺に佇つ樹であると、姿を冬の枯れた樹のまま、あなたのまなざしの内に現れ、其の時刻を夜と設へる程の暗さを、だうもあなたの目と耳と鼻と手を通してそれと得られてくる、心なひ其の真心の儚さへ伝へ、その内を漂ひたさうに輝ひてゐる。夢をさへ、佇つそれら樹のならぶ周囲の、目のさなかのとほのく手前の景色より、発つこゑのあるとして、こゑを其の目と耳で聴くなら、樹佇ちの姿形を震はせ虚ろはせはかなませていく物として、あなたは忘れられるだらうか。夜空に対して樹の言ふことのなひ、枝と枝を影にたがへる佇ち姿を、幻と思ひつつ。

二〇二三年一月二十九日



二〇二三年二月


 息を吸ふ、若しくは、息を息のうへへ畳む、手によつて手の動く心の細ひ情動の表現を、或ひは息をつぐ胸にも息を重ねる心で、息の其所に在る吸ひ吐くといふ仕草を、静かにくりかへしながら、机の際へそよがせてゐる。手は手のとなり手として在る自らの時や所を象る動きで、手さへその手を見失ふやうな、手の踊るあしたより夕べに至る日のかがよひの及ぶ所を、またくりかへし、机のうへへ表してゐる。さういふ息に息を添へることでその部屋といふ所を思ふ心を、手はいつも文字のなひ綴り方より、ここへまたしたため連ねてゐる。恐らく書くことを書くといふことを、かういつた行ひとして、思ふことができる。

二〇二三年二月三日


 このやうにして物の輪りの儚ひあまり、物を此所へ象るといふことを忘れつつ、その物の裏側はかやうに震へてをり、それによつて雪の降る、けふをまるで雪の無ひ、形とこゑを裏切るばかり、雪の淵の輪りに漂ふ雪の日であると知る。しかしさも、雪と言はば自づから雪として今は明るひ日と時の冷たさから、雪のうへに雪の降り積むやうであるが、思へればただ其の時の風景の促すあたりに、此の程のわづらはしひこゑと詩の騒々しさの在る位で、雪も無ければ、雪の心の芯はかほど静かで寂しくある。在り、たゆたふ内へ、雪に触れ得ることを忘れた、物の定めのかやうに移ろふ、身に近ひ日の身の許の凍へを思へる。

二〇二三年二月十日


 けふよりあした、わたくしはまた海のしぶく波がしらの、その許の潮風のうらがはく位たはやかな、岸のほとりに寂しくゐた。その日と、日と時と所からとほ離る激しひ思ひを、昨日と言ひ、さう言はなひならば夢と言ひ、夢と言はばこゑさへ失く、こゑの失ふ森のうつろを、やはりまた海のほとりの、風を指ばかり折り畳む、その手の作為の表す心の無さを、わたくしは朝ごとに山を見て、とほりの岸の草を踏む程、くりかへし目に臨んできた。ことばの然し漂はず、同じくこゑを失ふやうな、樹と言はば、また海を象る樹として眺める。時の程度のとほのく頃より、わたくしは父と言ふ現象を、さう見てゐるとけふも思ふ。

二〇二三年二月十六日


 やうやく夜も更けかかり、そのあをひ闇の移ろひを若しもこまやかと言ふ言葉より、手にて何をか浚ふやう、わたくしはこゑさはがしくもだしてをり、その華やがう言葉をばかり、定まるこゑも無ひと考へ、空にゑひ、このやうに象らう物を象る程へ写しつつ、今をまた今として、夜を問ふことを問ふことと思ふ、心の運びをそして静かに華やがせてゐる。かやうにしたためる際の手の手へ伝ふ心の形や、思はなひやう気を配りながら、失ふことで在る情の、うるささを手へ形容する思ひや、何ともなく、さう感じ、さもどこか情愛といふべき心の思へを、したためるといふ心の背ろへ、偲ばせてゐるとより静かに、より空と空の虚ろにゑひながら、考へる程でゐて、それらを時と言ふなら、時かと思ひしたためる。

二〇二三年二月十八日


 手の形象をかへり見る眼差しを、また思ふ憶への手よりたぐる、手の姿形の手前の手や指の、手の形象をつかまうと考へる憶へは、とほく寂しく、しづかな人恋しさを、手の追ふ向かうの風の気色を思はせるやう、まう少し手を手の片はらへ、造作するらしひ。手は何か、つかむといふより、気色ばむ風景を思ふばかりかと思ふ。手を諳んじる程の憶へで。

二〇二三年二月二十五日



二〇二三年三月


 霞ばかり満ちつつ下へ降りて行く、さうであり、かはく程度の空の明るさと、人のいくたり歩く足音の、聴こへると言はば聴こへて、または思はうとあれば思へられ、まなうらまでその風景の色合ひやまばゆさのここへ届くけふを朝と考へるならば、朝らしく朝とこの日をさう名付けられ、詩を綴らうといまだ夢を憶へるやう、詩のほどを胸へ問ひ、何も問はず放つてしまふ。しかしいまかうして詩を綴る手の裏の、頭よりうしろへひらく夢さへ失ひ、うつろさを思ふなら、この日はまだ朝であり、朝として詩を手に拾ふ時にゐる。とても明るひ、空の気配を静かと言へば確かに静かで、明るひと言へば明るひほどあたらしひ、春を手につかまう時の今に詩を書ひてゐる。

二〇二三年三月十六日


 ひととほり日のあはく差す、だうも静もり、あをみがかつて暮れつつゐる空の、ほんたうにこころのどこかむせぶ気配の漂ふ様子を、かうして耳にて追ふやう、空の中ほどへ騒がせて、ことばをことばのもとに確かめるまま、また綴らうと詩をこころへ思はせてゐる。留まる憶へのやうやく失ひ、詩を紙のうへへ写さうとして、詩を詩として目の前から遠ざけるばかり、目を瞑るとなく目の裏の夢を追ひかけ、字の手前に字の集ふことばを、書くとはかやうに在る程のことかと、詩を心より失ふことを楽しんでゐる。窓の外より、風の景色に思ひを述べて、何か書きたひ思ひでゐる。

二〇二三年三月二十日


 だうして時刻のふかく更けかかり、窓外と言はば、明くる日のいづくか在らう思へを胸に、さも儚げに思ふ空の暗さをしてをり、細かな糸のこはくしづく様子を、部屋にゐて、耳と目へ集めるばかりでゐる。いつもつたなく手にてたぐり、次にまた手にてかへし、その手のだうか手のうへへ置ひてゐる、手のまへにいつとなく触れて在る草ほど集ふ布のうへへも、その布を濡らし、同じく濡れるといふ程濡れることを失ひ、ただ雨のかさばかり、こゑをもだして、降る雨を見るやうでゐる。日を忘れ、詩を書く日々を無くしてゆき、その日の内の、こゑの騒々しひ風合ひのある、息づかひを同じく手にて浚ふのを、このところ狂ふくらひ闇の深ひ、雨のしづく時の中ほどに、手のだうして濡れ、濡れることを忘れてしまふ、けふに詩の温かみを雨として想ふ。

二〇二三年三月二十六日



二〇二三年四月


 読むことのくりかへし、さはることのたび重なり、足にて道をひと日を置ひて歩み、見ることと聞くことの寄せつつ返る、日と時の合ひ間の淵のうつろふ所へ、昔からけふに届く日の集ふ、このやうに身のまはりの風景のほか何もなひ、たまに風の吹き、鳥と言はば鳥の鳴き、光ばかり明るんでゐる、今より過去に似た時のここへ在る。これを凡そ読むといふ習ひの此の風景へ現象し、くりかへす官能として言葉にするなら、時の落ち着き、心の内にとほのく思へを、どのやうにしてこゑに語らう。こゑと言ふなら、さつきよりだうもまばらに、鳥の鳴くけふである。景色の身のまはりに現象するけふも、やはり詩を書ひてゐる。さう思ふと今はだうか、春と思へる。

二〇二三年四月四日


 詩と言はば、詩を書くひとの文字の中ほどへ休み、手づから時刻のくりかへしのやうに紙のうへに写され、自づから身のまはりの風景と、風景よりさはる風の吹き方から、かなしくあり、愛しまう心を愛しひと言はなひために、人のまへにて人より失せ、こゑのもとよりこゑを失ひ、わたくしもまたわたしくしと言はれなひ花のうたかたに似た姿の無さを儚まうため、詩はつとにまなうらや耳のほとりのくだらなさの内へも、失はれてゐると思つてゐる。やうやく何か心を辿り、言葉より言葉を排し、思ふところのあるくだくだしさから、すでに見へなひ詩の足跡や風景の美妙な影を、美妙と考へることなく、何も言はずに追ふ行ひを、名付けやうなく、同じく花のうたかたと言ひたひらしひ。詩はつねにこのやうに黙すと言ふこゑの失ひ方に近く、さう思へることで、けふも詩を静かに認めやうと思ふ。したためながら身を疎む所以を得つつ。

二〇二三年四月九日


 やうやく誰か人心地して、言葉を濃かに胸へ辿らうとする筆の表の、手の先から誰かまう一つの手の先へ伝ふ言葉の幻を、悩ましひ霞の内にゐてその霞の棚引く在り様を追ふ程に、手のうへに手を還し、その仕草を文字の連なる胸の裏側の光景として、だうもそれを人心地すると言ひたひやうに思ふ。日のもとに日を畳む、またそれをつづらへ開く、日の耳元へ日として集ふ春の日を、そのやうに、やうやく晴れてくる雨の縫ひ目に喩へてゐる。

二〇二三年四月十四日


 思はうと思ふことを目の内へ映し、その目に見へなひ映像を思ひ浮かぶと喩へ、目の内側のうつろな所には、それをまなうらとのみ言ひ得る空しひ光の漂ひ、さうして目の前へは夜の部屋の明るみの他、触れやう程の物もなく、明るさの内の色合ひを思ふつど、また思ふといふその日の心の在り様の身へ映されてくる。その思はれるまま思ふ行ひの表現する光景を、ここへひとときの現象として表しつつ、表されてゐる映像を日ごとの行ひに同じひ時刻のことごととして、思へばそれは昼の暮れ方に近く、何となく思ふことを追ふ。追ふ程それは、心としか言ひ得なひこゑのたゆたふ胸の内のやうに、色付ひてけふも追はれてばかりゐる。

二〇二三年四月十七日


 心を表さうとして、ゆめ伝はるものの定まらず、いづくへ開ける思ひも失ふままに、その感情を辿れば両の目のうつろへ、日の凪ぐ海の広がる思へのあつて、さう考へると、そこへ表れるなにものかのある気のする。これを書くといふ行為と重ねあはせるなら、書くことは両の目の、目を合はせるといふことに、近ひとも思へる。思ひに沈み、言葉を手前に心を表さうと試み、何をもて、わたくしは心さへ失ふままの、だうしても思への無ひ、日と次の日のくりかへしの明るさを浴びるばかり、言葉をひとへ問ふ前に消へ失せるらしひ。そのときだうも、そのひとびとの海のやうな心の官能の片はらにゐて、その感情も表しやうのなく、書くことは暮らすといふことかと静かに思ふ。わたくしはそしてその海に漂ふ。

二〇二三年四月二十二日



二〇二三年五月


 このやうに日の畳まれて在る胸の内の、やうやく静かな思へのその胸の縁をさ中に漂ふ、さういつた詩を日々の日の無ひ所へ置かうと試み、かへつてこの夜更けへと思ひの丈の現象させる、そのやうな胸の内の哀しひ心地で夜を過ごしてゐた。何をか言葉にしやうと思ふのなら、その思へを言葉にする所の手前より、まうそのひと日を思ひの内へ忘れてしまひ、だうしても書くことの書き得なひ仕草ばかりの、目の裏の、さうとして何も見へずにゐる目より、目に余るやう感じ得てゐる。この切なひ心の静かさを、だうしてか表したく、しかし表しも象れもしなひまま、ただこのひと時として、胸にまた日を畳んで仕舞ひ、その心の動きをかうしてここへ記すのみでゐる。

二〇二三年五月九日


 夜を夜としてその夜としか言ひ得なひ時の、なに程か夜のやうに夜らしひ目のまへと目の失へるまなざしの表へと、手を添へるやうで在れば、わたくしをまたわたくしとして思へる前に、今をいつか夜と考へ、ここにその闇さへ暗ひ風景をしたためるらしひ。その影のなひ光景を地虫の静もる草群を片はらに、ただわたくしと言ふ軽さより、さすらひ歩き、消へ入る程度の身のたはやかさで、身も心もいづくへ放り、さう在ることで表れる心さへなひ身の騒々しさを、春より梅雨にさしかかる夜の表現として、何を思ふといふこともなく、道をとほるばかりでゐた。うつむきつつ。

二〇二三年五月十三日


 さう思へるといふ、そのやうに思はれ、考へられるといふ、往来の目を抜くとほり、樹と樹を其の所へ置ひてゐる、立ち居並び方の、いづくとなく今程度とさへわたくしに分からなひ、思ふことより思へられる、思へられてもいまださう思へるらしひ、其の在り様の、日差しのもとににはかに起ち、片はらの樹の並ぶ風景とそれらの樹の立ち居振舞ひより此所へ、わたくしのわたくしとして定まり得ず、さうと言へ、つとに今は其のわたくしとして在るやうな、此の所へ、時ほどの思ふといふ行ひのさまよひ、表され、そこひの方へかげらへる、光景と言ふに等しひ空間の在つた気のする。わたくしはいつか小さく、ただそのもどかしひと言へる気のする、切なひ通りに身も心も放り失くせる思へでゐた。かういふ時の所を象る景色を、夕ぐれと言ふ気のする。

二〇二三年五月十七日


 てすさびの幾とほりか手の並び、その手の片はらまで寄るこころをいづくまで考へつつ、手の集ふ、そのてすさびの手にて手をばかり為すこころもとなさを、だうと思へずいぶかしむやうまた考へられて、これを疎み、さうあればいづくまでゑふ心地のするためか、今くらひ詩を書きたひと、心まで心を透かして行くやうな、てすさびの手をわたくしの手の思へ方より詩として為すやう、くちづさみ思ほへる、思ふ方より手のこころ連なる風で、本当にゑひながらてすさびに寄るほとりさへなひ姿で、樹の並ぶ道の片へを歩ひてゐた。道行きは春の去る時の際さへとほくへ送り、その時の中ほどにまで、わたくしの姿形をかくして置ける、静かさの感じ入られるやうでゐる。これを日と言はば日と時の暮しと思ふ。

二〇二三年五月二十二日


 詩のこころの、その日の日ごとに折り返す時や時を其所へ表してゐる陽の中くらひの大きな淵や、またはわたくしをわたくしと言ふばかりでゐるこころに同じひ、ひと時まへの情けなひ思ひを、けふのこの暖かさとして考へる生活のさびしさより、詩のこころの胸ともなく手ともなく目の裏ともなく伝ふやう、窓の内の机の前の明るさと、梅雨のいつかより近ひ湿やかさのほとりにゐて、伝はりきらず切ながる其の詩の心を、それら昼の下がりの時刻の光景の内へ、わたくしを誰とも言はず潜めてゐた。だうしてか時の表すその今の、ひとりゐほどの静かさを詩の萌す時と味あふ。

二〇二三年五月二十七日



二〇二三年六月


 夜と人へ、人ともなければ人かと思ひ人と言ふわたくしの目に見へてゐるその人の姿形へ、夜と伝へる思への向かふ、時刻を夜と考へられるやう日の在る時の今は沈み、ただ同じひ目の前の所の静かと言へる、又は眠りゐると形容できさうな、叢の並び、樹の幾つか佇ち、人と人の歩き交はす道のおほくとほる場所のうへに、その所はかういふ所ではなひとも思へ、感情のくだらなさをだうにも為せず、その言葉の在り方とを夜らしひと考へられてしまひ、わたくしもわたくしなりに物静かな心持ちで、この夜の夜とは言ひ切れなひ静かさの、あまりの深さをだうしたためれば心を得るか分からずにゐる。日のことと言はばさうである、思へがたひ姿形のその人へ、詩を書かうとするものの、未だ何も言へなひ。

二〇二三年六月六日


 音のたつ音ばかりのさほどうるさくあり得なひその音の片はらに座り、定めの正しひ音の聴こへ方に耳を寄せつつ、音の静かに心へ深め、また同時に夜もすがらその音の行方を辿つてゐる。草のいづくか立つやうな、樹のひとたびまでかげらひ明るむやうな、さういつた電燈の灯の光の元にゐて、目の前の机もやはり静かさをその表にあらはしてをり、だう考え、だう身と心をこの時の程の前へ整へやうとも、風景と言ふよりただ心の切なさばかりである現在の、音の後ろから音を追ひ、追はうとも寄せるばかりの音の連なりを、目の先のうつろふ夜の内へ、読み深めてしまふ。

二〇二三年六月十一日


 今にこころなし目の前にゐて、影の在ることの夜をとほし、明るひ灯のいづくまで漂ふやうな光の表と、その夜の闇の濃やかな光景を、幾つか佇む影をこころへ思へつつ、いくたびまで今ばかり時ほどの夜のたはやかな樹や草のほとりに似た所へ、在るらしく、其の所がどこであれ足許の確かな、影の切なひこころの憂さをけふひと日の愁ひとともに、また夜をとほし感じ入るらしひ。何と言ひ、何と考へ、何と悩んでゐやうとも、此の風景の暗がらう所に漂ふ、なほおほくの灯の光の映すそれらの影をこころに思へ、明日こそ愁ひを晴らさうと思ふものの、さういかず、いつに同じく人にこだはり、とまどふままけふも眠りに着ひてゆく。今の夜の静かさの内に。

二〇二三年六月二十一日


 夜半をあまり越してきてしまひ、だひぶ目の内の其の所へ映り、目の前やわづかにとほくあることの明るみつつ在りゐるらしひと考へられる、光景や彩りやさうあらう風合ひのこのやうに昏くなり、さうあらばまたひるがへつて色のなく、失ふ程あらためて現象する色彩の、夜半らしく音のかすかである今に、身と心の同じひやうに其の内にのみ在る風景になぞらへることを、昨日より時の切なひ今に至る感情のくりかへしとして、何らしひと言ふよりも思ふことと、思ふことより連なりつつかへつて何も思はうとしなひ、同じく此方へ書くといふ命題のほとりに佇むやうで、この夜半をだうも楽しんでしまふ。春よりまだとほく、夏にいづれかほど近ひ、夜のとても長く時ほどに短ひ今の、心のうつろさと落ち着きの為せる静かさらしひ。さういふ時刻の涼しさのためか、夜をとほし詩を紙に追ふ。

二〇二三年六月二十五日




二〇二三年七月


 身体の表の寂しげにくつろひでゐる、夜の灯の明るひばかり灯の色の漂ふやうな、身のまはりより身体を身体と言ひ当てる、身体の表、ほとりのやうな所へ、夏もまぢかひ日の風が姿も形も失ひつつ寄せてきてゐる。この光景の風合ひのある所に、静かな屋外の騒がしさが加はり、その音に耳を傾けてゐる内、本当にまう夏が訪れたやうな気のする。身のまはりも漂ふ風に合はせて静かに詩に連なる。

二〇二三年七月六日


 ひと夜のうち、その夜を可愛らしひまで寂しくし、音の絶へて静かな夜景を部屋の机の前の目の明るみから、影の広く果てまで覆ふ景色のまた彩りのなひ暗さを何と言はうと思ひつつ、恰も夜のうへに夜を畳みその夜の空を縁まで重く深くしてゐる、風のわづかな騒がしさから、今の日を夜らしひと想像してゐる。夜の端より静かに音の聴こへ、音はかうしてうるさがり、身の部屋の床のうへに向かつて此の夜や、夜といふ時のさざなむ時刻から、遠ざかり離れ忘れつつゐたひと考へさせる。静かさにまた静かさの折り重なり、何も音もなく影ばかり深く重ひ夜に、そのやうにしてしたためるといふ思へを前に沈黙する。

二〇二三年七月十二日


 やうやく日の光のうるさひ頃に、かへつて胸の落ち着く心の気配を漂はせながら、暮れるまでに幾たびもその日を手づから折り畳み日を時としてたなへ仕舞ふもののその片はらよりくりかへし明るんできて、わづらはしひほど暑ひのでこの日も夏かと思ひの走り、考へ出だす。さう思ふなら日の流れの早くたゆたふ、けふひと日の再び明日へ表れることさへ、それが昨日と同じく夜の内へ明らめるのかと、何も言はず何も考へず思へてしまふ。暮れ方のその時やはり、ひと日ごとの日と時のほとりのくりかへしを、読むことと考へる。

二〇二三年七月十五日


 詩を書かうとし、此の所詩を書くことを忘れてゐたことをふりかへり、その胸の落ち着きのなさからして書かうとする詩をまへに心のうるさくなるために、詩を書くことをやはり静かに忘れつつ詩を綴る手の一つ一つ数へられなひ動作に寄り添ふことで、このやうに風景もまた静かな宵に耳と目の官能のほど近く、詩のどこか華やぐやうにしたためてゐる。考へるなら、詩は常に日と日のくりかへしの内、詩を忘れ又は思ひ出し、それに伴つて心のうるさひ言葉などの、詩と言はれるこゑとこゑの隙間にあるものらしひ。宵ばかりけふといふ日をかへりみて、夏のまぢかひこの日の暑さにたはむ風や、樹の明るく佇つ光景を思ひ浮かべてゐると、蒸し暑ひ夜の風景も際立つて寂しく、だうしてか詩を書かうと思ふ。

二〇二三年七月二十日


 そのひとと同じくそのひとと似たひとらのこころと思ふ得体のなひ姿や、姿を形容し得てゐるそのひとらの身に着ける服装を、言葉のとどこほるまで湿らう夜の気配の周りへ、草の凪ぐ風景を凪ひだまま揺らがせるやう置ひてみたく思ふ。夏らしく暑さの濃やかな夜にこの思ふといふことを、思ふまでのこととして思ふと言ふ時は、だうしてかもどかしひ。

二〇二三年七月二十七日



二〇二三年八月


  くだらなく日を重ねるうち、思ふことの日の暑さとともに涼しく移ろふのを思ひに得て、さう言へば目の上の空もやうやく静かになり始め、耳をいづくか傾げれば樹のあをみより物音のたつ気のするし、ここに暑ひ日ばかりの仕舞はれやうとする気の配りのあるやうに不意を打たれる時のをり、けふも日ごと時刻の変はり方に併せつつ、その時を考へる思ひの深まるやうでゐる。さうあれば再びとなくあるけふも詩を書ひてゐたくなり、またそしてもどかしくあるのも風の触れ方の乾き方に連なる気のする。かういふ時こそ詩を心に浮かべ次に紙にうつすのを面白ひと思へてくる。

二〇二三年八月十三日


 けふを日と風のこはひ様子で、日より来てその日と日のとなりへと通りすぎる時の形の崩れ纏まる中ほどとして、時らしくかう暑ひと再び思ふ。目の前の樹の影の深ひ蒼みの表すその樹の伸び縮みするくりかへしから、樹と日と風のほとりにゐる度、これを読書といふ言葉になぞらへ、言葉を次に忘れてしまふ。

二〇二三年八月十七日


 ひとしきり鳴くらしく鳴くこゑの耳まで届き、くりかへし鳴くことよりその目の先から足の届く所まで感じ得る身の所在をこゑの波より表してゐると思へる。身の表へ仮に置かれて在るものごとや置くといふより漂ふと言ふべき風合ひのものごとを身に問ひかへし、問ひかへすことを問ふとも言はず、ただそこに在り得なひ応答として切ながるのを、虫たちが面白がつてゐるのだと考へてゐれば面白ひ。昨日より時は再びけふと思へて寂しひ程。

二〇二三年八月二十日


 けふも目の覚めてよりくりかへし手の懐へ呼びかける気のして、そのこゑに似た淡ひ日の光の差し方を朝らしく彩りの深ひこはさとして目の内へとらへる心地のしてゐた。さう思へれば思ふ程のことより出でず、聴き及ぶやう次第に心の起きてくるのを、言葉を読むことと追ふことの手始めとしてなつかしくまたいづくへか問ふらしひ。日を日のこととしてさうあらば、朝となり目の覚めるほどの束の間にその日も終はらうといふ思へのしてくる。さうあつて朝らしひと言へる日をその日に始め、思ふことと問ふことを手すさびのやうにくりかへし、日の深まればまた朝になる。

二〇二三年八月二十四日


 整はずにゐる誰とも知れなひ人の思ひを、さう在らうと問ふでもなく整はせやうと語らうでもなく、おのづからそれをわたくしの思への内の樹よりはまだおほきな塀のやうな何かとして象り、その夢の集ふ形象の整はなひものの前へ、夢そのものを忘れやうとする私を静かに漂はせてゐた。その日のさも青ひ暮れ方の日の光の短さをまたかげらはせながら、わたくし自身も整はずにゐる心象を手に手より確かめながら独りごち、日とともに夢の目の裏から去るやうに寝ねやうとするものの、騒しく形を為さなひこゑの在りやうをだうにも出来ず、今となりそれを思ふ事と仮称する。

二〇二三年八月二十七日



二〇二三年九月


 いつよりか日の暮れてゐる程に、ふたたびまで寝てまた目の明けてくるのに、かうしてものの大人しひ日と昼をたちさはぐ音のなく、さうあらばうるさひ思ひのあるともなしとも華やひでゐるやう、覚め方に身とそれら静かさとの思へと思への往き来を考へさせられて、時に加へる時はくりかへし速く、秋とも夏とも思はれなひ気の配りの漂ふので、詩を書かうと考へられその余りまた寂しめる気のする。風はまだ昼らしくさはがずにゐて、日の光は陰ばかり落ち着ひてをり、なにかこの風景へこゑばかり問ひ返さうと身の置きどころの失くせるやうな静かさもある。これを言葉のなさと言へばさうかも知れず、つとに詩を書き、日のとなりへ日のくりかへすのを眺めてゐる。

二〇二三年九月九日


 此れを愛ほしさと言ひたくなり、さうある思ひの為に疎ましさと考へてゐたくなる、心のまはりから内へ寄せまたまはりへと連なつてゆくこゑの波立ちを、さはがしくその心のほとりにのみ置ひて、だうともせずに暮らしの向かふ日の連なりはそのひだの濃かさに至らうまで静かでゐる。此方へ折まで虫の鳴く音や鳥のおかしなこゑや、樹と樹の間よりせせらぐ風の騒々しさの重なりまでして、それを何とも表さず在らうものを在るままに漂はせてゐるらしひ。伝へるやうらしひと言ふのは、わたくしの思ひはまだ密かな為かと思ふ。

二〇二三年九月十日


 かうまでして在るとも無ひ気のする、ひとつひとつの物音の静かとも思へて、うるさくありつついとほしく漂ふとも考へられて、たはやかであり、疎ましひ思ひのある物ばかりの音の鳴るのを、ものを目や耳に映すまでなひままにしたためられずにゐる。この手の動きの緩く目の配り方やうつろひ方ののろさを、なぞらへると言ふ言葉で伝へたくなり、そのときこれを読むといふことかと思ふなら、わたくしは今目の許へ書ひてゐると考へられる。

二〇二三年九月十七日


 ゆゑもあり得ずこころ恋しさのそこここへ在るのを、幾つか恐ろしひと感じ入ることもあり、しかしだうにか菜の花のしどけなひ葉と茎と花の並びのやうに、儚く今とまう再びの明日へこの切なさの連なつてゐればと考へる。折りよく悪く肌のほとりへ空しさの冴へてある気のする片はらで、その思へをまたにはかに笑ふ心地のあつて面白ひ気もする。いづくよりいづくまでわたくしはこのやうな人として、詩を綴じてばかりゐるのを恥じらふ。

二〇二三年九月二十一日


 背の仄かに高くあたかも風にゆらぐらしひ、いづれの日もちひさな草のそこへ立ちありくやうでゐた。その丈のまはりを風のまとふやうに揺れ、鳥や虫の集まるやうにかひま見へ、草ばかりの通りの脇をまた草にまぎれつつ、にほひまで見へ隠れする所を日の光のたはむまで、昨日より同じひ足どりでありくらしひ。このやうに風は立ち枯れ、秋の往来してくる。

二〇二三年九月二十四日



二〇二三年十月


 かやうに物の目に留まり、それを表さうといふよりその物へ徒に問ひかけ、心へもその心のままに問ひかけ、日のこととして疑ふこともあり得ずに、恰もそれを仮と言へ名のあるものとしてさへ思はずにゐたため、いづれかへあらためてしたためることもなひ。目の程か心から留まるともなくて其の所へあるのを、増してゆゑさへ疑はずに、思ほへば日の明るさや灯のあたたかさの為せる色合ひとして、幾たびまでただあるのを見て、心にとつて物のある、言ひ難ひ日の送り方を考へさせられるためか、したためやうとも表さうとも思はずにゐるらしひ。折を作つてその物のために背をふりかへれば、また幾度も寂しめる。

二〇二三年十月一日


 あたかも彩りの豊かな音と、音のまはりに在つて音のたつ、聴こへ方の内のさも空のやうな明るさのなひ、重らうと在れば冴へ、音のその響く所より分かれやうと在ればいづれか余りある、この音のたち方と音のまま、だうとも手にすさぶままでゐる。したためるまでここにてしたため、思ひ出されるやる瀬なさより、ただに耳を傾け、夜とあらば夜らしく、ふたたび眠るばかりかと考へてしまふ。

二〇二三年十月五日


 なにものも失はれ、なにものも姿を為し得なひでゐる目の前の、こゑの果てまで届きさうに望めなひ間のとほさへ、自づから言ひがたひ思へを思へとしか言ひ現し得ずに、その身より発つなにかの思ひを身のものとしてあり得なひで放り置けば、日の畳むのをくりかへすやう読み続ける暮らしに近く、または春とし言はば春であり、秋とし言はば秋らしひと考へたくなる。日をとほしこれをまた日の巡るまでと考へるなら、時と言はばけふであるとも思へてきて、日の暮れてのち、言葉のほど近くより言葉を失ふくらひ読むことと綴ることのたび重なるのを、けふばかり、秋のいや増すといふ感じのする。草も冷めてきた。

二〇二三年十月十二日


 さも点であり、なだらかな線をたたへてあり、其のほかにあることの密かな虚しさを漲らせてゐる、憎らしひおぞましさも芯から怖ろしひ優しさも現してしまふそれを、だう形容したらこゑに適ふかと考へ、わたくしはこの借宿にゐて住まふといふことと思つた。さう始まりさう終はり、終はらうまでもなく、住まひの内になだらかに漂ふその朝の山の形象に近ひ言葉を、折返し日も時も哀しませる。

二〇二三年十月十九日


 日を日から透かしてとほる時刻を前に、その日の光のゆくゑのなひ所を、わたくしの年より回るけふの組み立て方や、なほ組み立てつつどこにもそのもののなひ背格好として心に置かれ、昼ばかり手にも手を透かす心地のしてゐる。読むことのうへに優しく、かへつて情の激しひ手を添へ、これを夜までの秋と言ふなら、日頃よりこのやうに読むことを時を秋の日の光の冴へた頃合ひとして、考へてゐる気のしてをり、かうある日の折返しを朝ごとに予め確かめてゐると思ふ。暮れかかりざま時刻に浚はれ、日の事をかへり見てゐる。

二〇二三年十月二十六日



二〇二三年十一月


 手の象る形式として、その手のなだらかな装ひとあたかも息づかひの深ひ影とを、今ばかりとも表し切れなひひとの手より、明くる時まで手にて此の手そのものを紙のうへへ、だうしても留め置くやうに綴り連ねて行くのを、書くといふことよりは、手を手にて為すこととして考へられてゐる。夜と言はず昼とも夕べとも朝とも言はず、ただくだくだしくこだはるもののある朝の、日の差したり雨の降つたり風の凪ひで明るかつたりした時のさもしづく影に似て、時もなく詩を手前に書くことのできずにゐる。だうしても日と時をめくり、手の先の整はずにゐるあるほどの騒がしさや静かさへ、それをそのまま省みてゐたくなる。恐らく此れを詩を書くこととして。

二〇二三年十一月二日


 風のそよひでゐるのを目に映しつつ、風の風景をなぶる様子に耳を傾け、かうして椅子に座つてゐる体の傍へ昨日とさも変はらなひ冷たさでさやぐのを、風の其の所へあるやかましさとして、けふらしく秋の日らしひと目の冴へる思ひで聴き及んでゐる。これを月の明らかな日かと思へば、その時は今とも知られず、ただ寄せる風の湿やかさより、草の丈と丈のそよぎ合ふ和やかさと、勢ひの凄まじさの片はらにゐて、空しく晴れてゐる夜を想像するつもりでゐる。秋も暮れかと思ふ。

二〇二三年十一月六日


 かうあることをかうあるとしてひとの姿やこゑにその少なひ形の表れるのを、昼とも夜とも言ひがたひ明るさの日に、昼のとほのく程の思へがたさと此の今の夜の昼よりも人の形やこゑの影さへ目に映らなひ余りのとほさとを、日の頃合ひの冷へてくる時候の現れ方として此の詩を読む人に問ひかけたくなる。秋と冬の端境に立つほどに、筆より何か綴らうことを、ただ住まふことのやうに肯つてゐる。

二〇二三年十一月十六日


 此れをもつてわたくしの周り、若しくはその心の定める時や所のほとりにゐるひとの姿や自づからの気の配りとして、哀しんでゐるやうな、手の許の物の心の佇いに愛ほしんでゐるやうな、ただ時の影らう頃にむなしがるやうな、さういふ日のくりかへしと、日より考へられてゐる日と時の過ごし方、ひたぶる程度に動かうとあるわたくしより見へてゐるわたくしの似姿と、さういつた身のうへの態度をもつて目の前に置かれ響き離るままである言葉を読み、わたくしも何ほどか語り、語らうことをわたくしといふ人のほとりにさし置ひて、此れを何とも考へたくなく綴りたくなひと思ふ。さうとしか言ひ得ず、明らめられることもなく、日の重なり淀まずにうつろつてゆく日の内に忘れられ、いつかまた立ち現れる言葉をもて、それをただ時ばかり切なひ霧や霞の内に表してゐたひ。何も思はずに。

二〇二三年十一月二十六日



二〇二三年十二月


 さも百たりの無造作の行き交ひなど、またはその足どりの寂しがり切ながりむなしがるやうひとの目の向かふことなど、さうと言へいづれにもむつまじく秋のとなりへ退きつつ身にまつはる幾つまでなひ考へごとをけふの日の、風の色とてなひ漂ひ方より、あたかもその落ち着かづにゐる間合ひまで感じ得て来て、きたることと至ること、めひめいに去ることをもつて、目の醒めてから時に連なるけふかと考へられてゐる。書きづらく言ひがたく、しかしいつよりそれを身の辺々のこととして、何も分からづにゐる秋となく冬となくある梢の色の明るさのやうに、それを正しく考へてゐるらしひ。寝起きするつど、目のあたりにある時ほどの寂しさを、さう表せる。

二〇二三年十二月三日


 朝まだき、日の光のうるほふのに似た言葉として、影といふあざの表す身のにほやかさと、浦といふ日のくらひ身のさむさとを思へられて、おほきひともおほひとも確かに述べ綴られさうな、朝の日や風の色心地や音のふかさのまうらにゐた。もし寝てより醒めて、日の差し方のかたどる景色よりかう思へるなら、ささやかであり湿やかな日の静かさとして、晴れてはゐても日の光の滴れるやう思ふ。

二〇二三年十二月十日


 此れを誰かの読み得る文の形から崩し方、または整ひ方として、どこより聴こへどこより表れ発つでもなくただ和むままこの紙のうへにあり、それを詩としてさも時々の風の漂ひ方や色味のまま、したためてゐることを書くこととしても考へがたく、かうしてただ思ふことを思ふばかり思ふと述べるのみでゐる。若し風といふものの来たるのを、ただひととほり過ぎると思はれ、時の脇にまた風のゐて、樹や草の揺れてゐる様子を、昼とも夜とも隔てづにその日の日の光の差し方として、けふといふ字を心にそなへるやう此方へ表すことのできる。詩かと言はば詩と思はずにゐても。

二〇二三年十二月十四日


 宵のころ、かがよふ時と空のほとりのやうな、暗ひといふ言葉まで冴へてくる、とほざかるもののあへてまた来ると表さうか、さういふ今に、さも日のこととしてあらためて木の行く末をことはるほどの、此れを深ひと伝へたくなる夜の片はらにゐて、詩のこゑをうべなふやうに紙に字を書き写してゐる。字をたはめ、時のしたたる紐と紐を行き交はすくりかへしとして綴り、綴じ、わづかののちにそれさへことはるやうに日の今を連ねるのみとも思へられて、詩を書くことの切なさをこの宵のうすぐらさと静かさに喩へたくなる。

二〇二三年十二月十七日


 思ひ出すまでなひことを目の前の午の日の明るさの程のもと、このやうに冬めくばかりの鳥のさへづりや樹のうつとほしさや雲のなひ空の小暗さのやうに、人恋しく切なひ思ひを漂はせて、しかしその思ふことまで身の程の霞のうへにたなびく霞を目に見つつ、身にまとふやうでゐると思ふ。識ると言ふなら、これを言葉に確かめて、読むこととも書くこととも織り綾なせる一つの雲の姿や形であるとも考へられて、けふはこの虫の鳴く音も眠りに絶へた瀬ばかりの年の頃かと思はれてくる。さう言へば再びこれを識ることかと思ふ。

二〇二三年十二月二十四日

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