『群青の海へ わが青春譜』-2

2022年5月13日

大粒とは言いがたく、しかしさほど細い雨の降るでもない夜に読み終えた。ここのところ寝不足の日々が続いていて、家の近くの自販機でコーヒーを買って飲んだらますます暗鬱となり、雨もあまりにザアザア降るし、収拾の付かない思いでいた一日だったのが、この本を読んでいたらふいに私も詩と向き合わなくてはならない気がしてきた。

私にとって、平山郁夫というと東山魁夷と並ぶ日本画の巨匠としてイメージされており、また近年絵を見たことのある手塚雄二さんという画家のお師匠さんという印象でいたが、彼について実はあまり知らなかった。仏教画を描いていてシルクロードの絵を描くらしいという話は新聞で読んだことがあったが、どんな人なのかまでは知らず、ましてどのような画家なのかということについては何も知らなかった。

それはむしろ、東山魁夷の展覧会へ、こと若い頃に伺っていたためであると思う。東山魁夷というと濃緑の美しい画家、あるいは街よりも森を描いた画家として印象されており、されど彼について調べたという程でもなく、その絵より受ける悠久の思いに浸りに展覧会へ通っていたように思う。

平山郁夫について興味を持ち始めたのは、東京の銀座で開かれた手塚雄二の展覧会に行ってからで、このときは偶然行く機会があったのみだったため、私は手塚雄二という人についてもよく知らなかった。手っ取り早く言うとそれくらい私は絵に疎い。しかし手塚の展覧会で幾つか気になった絵があり、また平山郁夫が弟子を余り取りたがらない画家だったという逸話も気になって、いつか平山に興味を持つようになっていた。

この『群青の海へ』という本は平山郁夫の自伝的エッセイとして、多く勉強になる本だったと思う。私は彼の芸術観が現れている一冊として読み始めたというより、むしろこの巨匠と言われる画家の肉声が聴きたくて読み始めたのだが、その宇宙観とも言えそうな世界にずるずる引っ張られていくので、あっという間に読み切ってしまった。

読み終えて、ああそうだな、と思うのは、同じ一つのことが繰り返し語られているということだと思う。その意味では絵を描くように書かれている気がした。とは言え絵に疎いのだから、これはもしかしたら私の詩の作法から読んだ言い方というのが適切かも知れない。しかしあたかも永遠を一瞬として語り、その一瞬がまた無窮であるような、何か海の波にたゆたう印象のある文で、読み始めるとどんどん引き込まれていった。

こういった本を読んだのは久々だったと思う。私には静けさよりも騒々しさの内にいるような文として読まれたし、口絵にある何枚かの絵を見ても、やはりそのような印象を持ってしまった。しかし騒々しさという、別の見方をすると恐ろしい静けさの内にもいるようで、それはおそらく語りとしか言いようのない言葉の在り様を聴いたためかも知れない。もしそうだとしたら肉声を聴いてみたいと色気を起こして、聴いたというと不遜かも知れないが、聴いたと言ってみたい気持ちになる。

ちょうど、近所のディスカウントストアより帰る道を歩いていたら、雨が強まりだしてきて、身の暗鬱さが増してきたように思う。これから窓を開けて雨の音を聴きながら夕飯を摂ろうと思うのだが、もう少しこの本の余韻に浸りたい思いもある。日々はせわしなく過ぎてゆくのに、そのせわしなさから決して離れていこうとするような本ではなかった。むしろその生活のとりとめのない時間の姿を、克明に一字ずつ綴ろうとするようで、そこに彼の芸術があったのだろうかと思う。そうであればやはり、雨の夜更けに窓を開けて、夕飯を摂りながらしばらく涼んでみるのも、この本の読後としてはいいのかも知れない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?