詩72 抵当
前の日から、どうも詩を書きたくなっていて、暫く詩を書いていないとそうなるのですが、このときはその少し前に詩を書いたばかりなので、そういう感情とは違ったように思います。
詩を書こうとして書けるときには、だいたい連続して本を読んでいることが多く、よく書くときには読書を習慣のようにしていることがままあります。いつもそうではないのですが、やはり読むという感覚を通して書くという作業を得ることで、またその書くという作業が読むという作業へと循環するように、二者が一体となるあたりに詩の存在のあることが多いです。
このいわゆる読むことと書くことが車軸の両輪であるという言い方は、人によってその意味したり感覚したりするところが違うように思っています。私の場合はどうかというと、どうもいつも揺らいでいて一定ではなく、これといってその行為の内容を指し示す具体的な定義もなくて、また定義することそのものを拒んでいるようにも感じられています。
あるいはそのような姿勢が私の詩に対する態度であるのかも知れず、ざっくばらんに言うのなら、明日の風は明日吹く、という言い方に近いかも知れません。別の言い方をするのなら、それは水辺の思想であるとも、川の流れ方であるとも、山の生い立ちであるとも言えそうに思うのですが、そのような格好付けた言い方より、行き当たりばったりという表現の方が適当でああるという、そんな書き方や読み方かも知れません。
しかし均して考えると、どうも本をよく読むときによく詩を書いているように思えていて、この頃読んだり読まなかったりの日々を送るためか、書きたいような書けそうなような、しかし書けないような、そういう焦燥のような思いもあって、上述の詩が出てきたように思います。
大江健三郎さんが亡くなって、何か読まなくては、と思って本屋へ急ぎ、二三冊本を買い込みました。なぜそんな思いを急に興したかというと、全くの人違いであることは分かっているものの、亡くなられる数ヶ月前に歩いているところを某所にてちょうど見かけているように思い、それも少しつまづきそうな姿勢で、しかしどこか微笑みながらゆっくり歩いておられるところがどこか大江さんぽくて、似ているのだろう、と思って済ましておいたのですが、しかしどうも訃報を聞いてからそのとき私を見た何か意味ありげな眼差しが忘れられなくなってしまい、人違いだとは分かっていても急に手に取らなくては、と妙な思いに駆られるまま本屋さんへ向かいました。
その後暫く積んでいたのですが、積んでいたままの本がどうも崩れるようになり、順に読んでいこうと手に取り始めたのがきっかけで、再び読書の日々にさしかかろうとし始めています。今読んでいるのは新潮文庫の『死者の奢り・飼育』という本で、その内の長編「飼育」を読んでいます。前二者の文とは異なり、表現の密度が非常に高く苦労しながら読んでいるのですが、やはりどうもその文に見られる姿勢のキッチュなところが気になってしまって今は手に取らなくなっています。
大江さんへのこの手の批判は既に生前から見られていて、有名なノートのシリーズや『個人的な体験』などもそうなのですが、やはり私も同じような批判を得てしまうように思って読んでいます。それに私は『個人的な体験』を以前に読んでいてやはり納得のいかないものがありました。端的に言うと、書かれている思想の抜け目無さと言いましょうか。
もしここに入沢康夫の話を持ち出すのなら、彼は物語論、あるいはテクスト論としてバルトを参照しつつ、小説の構造分析を試みました。それはいわゆる小説の結構というものは「作者-語り手-登場人物」という関係性を軸として成り立っているという指摘で、確かにそうだと思うし、それは非常に重要な指摘かと思います。それに彼の書いた詩自体、この構造を基軸として成立していると読むことである程度わかりやすく読めるように思います。
しかし考えるのなら、これ自体がどうも私自身のキッチュな指摘であり、もし私が入沢さんと実際に会って、彼と交流を持っていたのなら、彼のこのテクスト論は彼自身の文章を匿名化するための水先案内人だったと思うかも知れません。そして重要なことに、文学にとって、それは非常に核心的な考え方だと思います。
さて、ここでやはり私が大江さんを読もうと思いついた理由が顔を出してきます。そして私が人に彼の文学を語るときには上記のようなキッチュな語り方をするのですが、本当に私が勘違いをしたその人が大江さんだったかはさておき、しかしそこに似た影を見たということが、読みを助けてくれているように思えていて、やはりそこに読むと書くという行為が繋がり合う一点があるのかと思い、読みたくなってしまったのだと思います。
それが本当に彼で、言葉を交わし、どのように発声し、どのように言葉を感じ、その感じたものをまた言葉として発するのかを聞いたり、仕草の一つ一つから得られる彼の思想をじかに見たりしていれば、さらに読みは深まったと思うのですが、その人の真率な眼差しをどこか他人のものとして、彼に近しい感情を私の一方的な誤解として留め置くまま、その疑問を解消することはできなくなっています。
人の認識を最もよく表すのはその人の人となりであり、その意味では近いものに触れたという、そのように思い込んで読み始めたため、どうも感想を言いたくないのかも知れません。今は読む手が止まっていますがまた読み始めたく、しかし逃げ出すように毎日暮れるとほっつき歩いたりしてどうも手に取らずにいます。
その大江さんらしき人から感じられる印象を書き記すなら、それは上述の明日は明日の風が吹く、に近い感じのように思います。たびたび不運な出来事に巻き込まれる私からすると、どうも読まなくてはと思えたのでしょうか。
この読むことと書くことの連関はやはり幸福な感情を伴うので、また書きたいなぁ、と思いつつ、もったいなくて書けないような複雑な思いの日々を送っています。
だいたいそのような日は多くは続くかないので、もったいないと思うまま日が経ってしまい、いつも書けずに仕舞うことが多いです。そう思うとやはり私は水辺の思想云々というより、行き当たりばったりが適当であると思えてしまいます。そう考えるとその大江さんらしき人がその人であるかどうかも、霞の中に立つ人影を見るような私の誤解なのかも知れず、そう想像することも面白いと思えてしまい、これもまたいつか忘れてしまう類いの出来事なのかも知れません。
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