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詩76 追想

追想

夜をとほしかうして影の
いづくとなく在るらしひと
思へられ
また思へる程したためられ
目の許にゐなひ
樹や叢や石の暗く重く目差しに映らずにゐる
その形象と色合ひの表とを
心より目をうつろはせつつ
まなうらに
思ふやうな思はなひやうな切なさで
梅雨のしどけなさの在る夜を
だうもこころもとなくてゐる
雨音のくりかへし
この蒸せる夜の幾程かの時の合ひ間を
さもとほくより部屋の戸へ
さざなませおほよその戸の周りまで
影を静かに深めてゆき
雨粒と雨音の外にある可愛らしさを思はせる

/小倉信夫

Twitter @hapitum 2023/7/6

 詩を原稿用紙に書いて、それをTwitterに投稿し、そしてまたそれをnoteに転載していますが、まずTwitterに投稿したあとで、これは縦書きだな、とか、これは横書きでも読めるな、とか考えます。原稿用紙に書いたときは縦書きなので、それを横書きにして投稿することになり、やはり音の繋がり方とか言葉の流れ方とかがどうしても変わってしまうのを見過ごすことはできず、いちいち気にしつつ読んでいます。

 ただ縦書きといっても原稿用紙に書かれたものは鉛筆であり、それをTwitterに投稿するとゴシック体になり、またnoteに再投稿すると明朝体になるので、(私のnoteの設定ではスマートフォンで読むと明朝体になります。)そもそも読み方が違うのですが、それでもこれは縦書きだなというのは、やはりあります。

 どこがどう違うかということについて、詳細を述べるのは難しいのですが、直観としてそう感じられるのは確かにそうなので、それを参考にしつつ再読しており、打ったあとで読むと、ああなるほど、と考えさせられることが多いです。考えさせられるといっても、書いたあとすぐ、打ったあとすぐはどうも感覚が熱しているのか、読んでも頭に入ってこないのがほとんどなので、しかしそれで何か分かるかというと分からないという感じです。

 だいたいにおいてようやく分かってくる感じがするのは、だいぶ日が経ってからというのがいつもかと考えると、ただここに転載することに意味があるのかも知れないとも考えられます。ただ分かったという言い方には語弊があり、それは分かることはあり得ないという前提があるからではなく、飽くまで私の感覚として分かることがあり得ないという、そういった個人的な経験より来る、微妙な加減の伴った言い回しであるためでしょうか。

 一度目に出した詩集をまとめていた時には、推敲が足りていないがために書き換えた詩や、再推敲した詩もだいぶあり、それでよくなったとも悪くなったとも完成したとも何も言えませんが、しかしそのように感じられたというのは否定できず、その一方で記憶を辿るとあの詩集に収められた詩を書いていたときには、生活時間がほとんどない程に詩ばかり練っていて、書いた詩を投稿するときにまた推敲が加わり、それを改めて読み直してから投稿したりなどしていたので、電車に乗っている時間も推敲の時間でした。家で打ち込んで、それを歩いて駅に行く間にある程度まで忘れ、そして電車で椅子に座ってから読み直すと別の見え方があったためです。

 それがひどく不器用な詩に見えたので推敲というのは不思議なのですが、では完成したかというと、詩集に収めるにあたって再推敲をする前の詩のほうがもしかしたらいいものがだいぶあったかも知れません。これは言わばバイアスの話で、読んでいる人の生活状況や年齢や置かれている社会的な環境や、様々な状況に基づく因子によって読みが大きく変わるため、どちらが良かったとも言い切れないのだと思います。

 近ごろはTwitterにアップロードする際にも推敲をしておらず、書いたものをそのまま打ち込んでいます。同人誌をしていたときの話になりますが、印刷物を出すという際にもともとそれである程度書けていたと思っていた詩におびただしい推敲が加わったことがあり、しかもその作業が編集をしながら同時に進むので、打ち込んだものを書き換える状態が続いたことがありました。原稿用紙にあるものが明朝体としてパソコンの画面に映るときに一つ、次にそれを雑誌に載るのと同じ体裁で印刷したのを眺めたときに一つ、そもそも書いたと思っていたものを読み返したときから一つ、つまりこの三つのローテーションがいつまでも終わらず、直しては打ち、打ったものを見て直したくなり、それを印刷すればまた直し、という作業が牛の涎のように続いてしまっていました。

 ただ、印刷される時にどう映るのか、ということについてコツのような感覚を得ると今度は違って、このローテーションがなくなってしまい、原稿用紙に推敲したものがそのまま紙になるようになりました。すると今度は紙媒体でしか発表しなくなり、画像ファイルにしてアップロードするものは作成途中の作品という感じになっていったのですが。

 これは書くという作業にまつわる一つの謎かけのような話です。書くということには正解がなく、今はまったく違う書き方を取っているので、今投稿する際には原稿用紙に書かれたものをそのまま打ち込み、そしてTwitterからnoteに転載する際にも字の誤りなどはただすもののほとんど書き換えをしないまま、書かれたままをそのまま投稿し完成かというとそんなこともなく、ただ時間の移ろいの中に置かれた詩の在り様を、原稿用紙、Twitter、noteと読み比べているばかりです。

 読むときには出来がいいとか、うまく書けたとか、凄い詩だとか、あまり考えてはおらず、技術や技巧がどう働いているか、などを見ますが、かえってそのように読むと完成することを追い求めなくなるというのが不思議です。

 さて、上述の詩ですが、この詩を読んで思ったことについて、ここに書くことは避けることにします。ここまで長々と書いてきてまるで肩すかしのようですが、それが私の性格かというとそうなので、まだこの詩を私がどう読むのかは自分でも分からずにいます。

 あるいは少なくとも私にとって、読み、書くということがそのような在り様の作業なのかも知れませんが。詩を書いたのは夜ですが、今は朝、目が覚めてから後にこれを書いています。恐らくそういった因子の内にある文章なのだと思えば、この文章自体、少ししてから読まないと何を書いているのか分からないのだと私には思えています。

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