詩49 亡び
前の日に詩を書いて、そこから次の日に向けて生まれてきた詩をまた書きたいと思い、書きあぐねつつ書いた詩でした。近ごろはあまり読書をしておらず、もう少し本を読みたいと思うのですが、あまり金欠の度が過ぎるとそうも行かないまま、日々出歩いて過ごしています。また、住環境があまりよくないのもあって、読みづらさもあるのですが、読み始めれば引き込まれるので、言語状況のよくなさについては住環境との相性という話程度かも知れません。
Twitterに以前少しだけ書いたことのある話があって、それについてどのような状況で、どのような人たちが私とあまりうまく行かないのか、だいぶ様々な環境を通過しながら考えてきたため、ある程度は心の内で整理がついてもいますが、それらの人たちの持っている言語的な環境について私から批判する気もあまり起こらず、その後Twitterにはその話は書いていません。
もともと家族仲のあまりよくない家ではあったのですが、私自身も両親含め弟妹と仲がよくなく、それは昔からなので、家で経験して得てきたアンテナのようなものが、ああ、これか、と知らせている感じです。これはもしかしたら知っている人は知っている話かも知れませんが、Twitterの話の続きとなってしまい、またあまり書いても仕方ない話かとも思うので、これ以上は書きません。ただ、一つ言えることは、ある言語的な環境の中にいる人と私とは恐ろしく不仲であるらしく、しかし家という何か選びがたい力のようなものと繋がっていることは、普通であり日常的であるとも思えば、この不仲についても宿命的な何かを考えてしまいます。結局私は自分の育った世界と自身の言語が折り合わず、それを例えば「パターナリズム」という言葉で言い表すようにも思います。
であれば、私の書いている詩は、その私と隣り合わせにありながら、私にとっては異質である言語的な世界から自身の言語を解き放っていく過程とも思われますが、よくはわかりません。
いづれにせよ、あまり本が読めていないのはよくないので、読書をしたいなぁ、と思いながら、家という環境から逃げるように街をぶらぶらし、そしてこの生誕にまつわる一種の悲劇を訥々と物語るように、詩を書いている気がします。
私はかつてヘルマン・ヘッセを好んで読み、またトーマス・マンに感動したりなどしましたが、その文学が分かるようでいて、それらが持っている文学という形式や一冊の完成された本としての価値から、遠ざかるように彼らの文を読みたいと思うのかも知れません。
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