こゑを手に拾ふ日より - 24

こゑを手に拾ふ日より  二〇二三年十二月


 さも百たりの無造作の行き交ひなど、またはその足どりの寂しがり切ながりむなしがるやうひとの目の向かふことなど、さうと言へいづれにもむつまじく秋のとなりへ退きつつ身にまつはる幾つまでなひ考へごとをけふの日の、風の色とてなひ漂ひ方より、あたかもその落ち着かづにゐる間合ひまで感じ得て来て、きたることと至ること、めひめいに去ることをもつて、目の醒めてから時に連なるけふかと考へられてゐる。書きづらく言ひがたく、しかしいつよりそれを身の辺々のこととして、何も分からづにゐる秋となく冬となくある梢の色の明るさのやうに、それを正しく考へてゐるらしひ。寝起きするつど、目のあたりにある時ほどの寂しさを、さう表せる。

二〇二三年十二月三日


 朝まだき、日の光のうるほふのに似た言葉として、影といふあざの表す身のにほやかさと、浦といふ日のくらひ身のさむさとを思へられて、おほきひともおほひとも確かに述べ綴られさうな、朝の日や風の色心地や音のふかさのまうらにゐた。もし寝てより醒めて、日の差し方のかたどる景色よりかう思へるなら、ささやかであり湿やかな日の静かさとして、晴れてはゐても日の光の滴れるやう思ふ。

二〇二三年十二月十日


 此れを誰かの読み得る文の形から崩し方、または整ひ方として、どこより聴こへどこより表れ発つでもなくただ和むままこの紙のうへにあり、それを詩としてさも時々の風の漂ひ方や色味のまま、したためてゐることを書くこととしても考へがたく、かうしてただ思ふことを思ふばかり思ふと述べるのみでゐる。若し風といふものの来たるのを、ただひととほり過ぎると思はれ、時の脇にまた風のゐて、樹や草の揺れてゐる様子を、昼とも夜とも隔てづにその日の日の光の差し方として、けふといふ字を心にそなへるやう此方へ表すことのできる。詩かと言はば詩と思はずにゐても。

二〇二三年十二月十四日


 宵のころ、かがよふ時と空のほとりのやうな、暗ひといふ言葉まで冴へてくる、とほざかるもののあへてまた来ると表さうか、さういふ今に、さも日のこととしてあらためて木の行く末をことはるほどの、此れを深ひと伝へたくなる夜の片はらにゐて、詩のこゑをうべなふやうに紙に字を書き写してゐる。字をたはめ、時のしたたる紐と紐を行き交はすくりかへしとして綴り、綴じ、わづかののちにそれさへことはるやうに日の今を連ねるのみとも思へられて、詩を書くことの切なさをこの宵のうすぐらさと静かさに喩へたくなる。

二〇二三年十二月十七日


 思ひ出すまでなひことを目の前の午の日の明るさの程のもと、このやうに冬めくばかりの鳥のさへづりや樹のうつとほしさや雲のなひ空の小暗さのやうに、人恋しく切なひ思ひを漂はせて、しかしその思ふことまで身の程の霞のうへにたなびく霞を目に見つつ、身にまとふやうでゐると思ふ。識ると言ふなら、これを言葉に確かめて、読むこととも書くこととも織り綾なせる一つの雲の姿や形であるとも考へられて、けふはこの虫の鳴く音も眠りに絶へた瀬ばかりの年の頃かと思はれてくる。さう言へば再びこれを識ることかと思ふ。

二〇二三年十二月二十四日

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