『プリーモ・レーヴィへの旅』

2022年7月16日

読み終えて、胸に不思議なおとなしさのある読書になった気がする。私にはとくに最後の一章と、その前の章の末尾がとても興味深くて、途中から文章のリズムに揺られるまま読むでもなく読み、考えるでもなく考えながら読んでいた。この章の辺りには、それまで書かれてきたテーマの全てと、謎の全てが詰まっていて、それと同時にそれらは謎のままそこに静かに置かれており、この一冊の本が抱えているテーマと、あるいは人という存在の謎について書かれていたのだと思えてきて、感慨深いものがあった。

夢中になって読んではいたが、ずっと雨が激しく降る夜でもあり、中途で立って窓を閉めに行ったり、途端に蒸し暑くなった部屋に応じて胸のあたりが汗をつたうのを確かめたり、閉めた窓を雨がまばらに、しかし強く叩く音を聴きながらいつかその雨音も文章のリズムと合わせるようにしながらページをめくったりしていたので、集中していたというよりたゆたっていたような感じといった方が適切である気がする。そしてそのたゆたいは読み終えてもなくなることがなく、得体の知れない感情を心に残したと思う。

雨の小やみになっていたお昼や夕方頃には、ずっと胸を圧しつける不安のような、焦燥のような、それとも寂寞のような、何とも言いがたい思いに捕われていて、余り鬱然とするから酒でも飲もうかと思っていたら、急に本が読みたくなり、この雨では散歩にも行けないしどうにも手持ち無沙汰だしと、どこかネガティブな思いで読み出したのを、こんなに夢中になるとは自分でも考えていなかった。

読みながら、ずっと身を振り返っていたと思う。言葉の一つ一つを身に照らし合わせながら、自身の書く詩や、詩の作法や、あるいは詩を書くにあたって持っている心構えや、それとも私が散歩を好むことそのものや、様々なことを顧みながら読んでいた。どうしてこんなに夢中になって読んだのかと思っていたら、途中で答え合わせがあった。あったというより、その答え合わせがこれらその章の辺り全般に散らばっていることに気がつかされたのだと思う。私は、たぶん原稿用紙を読むように読んでいたのだと思った。そしてそれはまさしくこの本のテーマと、提示されている謎と呼応しているのではと思えたとき、さらに引き込まれる思いがあった。

……と、ここまで書いていたら、雨がやんできた。今日は雨が降ったりやんだりする。そのような日だからこそある潤いと、空のしづかさと、土の上の騒々しさを空気一杯に湛えて、外ではまた雨がやんできたらしい。そう分かると私は急に歩きたくなる。もはや日課というより歩行癖と言った方が当たっている気さえするくらい、この頃はよく歩く。

歩きたくはなるが、しかしまだ何か読みたい気もする。この胸にある不思議なおとなしさの感覚を、鬱然と抱えていた抑圧からのカタルシスと言ってしまえば簡単だが、少なくとも私の実感としてはそのように名状される何ものかではなく、またそのようであってはならないと思えており、そう思えることがまた本を読みたくさせているのだ。

読みさしている住宅謙信の句集でも読もうかと思うが、ひとまずは夕食にすることにする。もうあと十分ほどで日付も変わるし、一日を終える支度もしなくてはならない。

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