詩51 息づかひ
秋雨には、どこか詩興を起こさせる音の豊かさがあって、ここのところ雨の降る日になぜか詩を書きたくなることが多く、盛んに雨の詩を書いています。晴れている日はかえって憂鬱なのか、なかなか詩を書くより体を休めようとしたり、出歩いて疲れてしまったり、何かその日の作業に精を出してそのまま夜遅くなるにつれて詩を書く気も失せてしまったりという日々で、昨年の秋とは違った書き方をしているように思います。
九月から十月初旬にかけて、台風が何度か来たということもあって、よく雨が降り、雨の音を聴いたり、雨の中を歩いたり、雨の中で鳴いている虫の鳴き声を聴いたりということが、ことさら秋という時の風景の色彩の豊かさを想起させるようで、かえってその色の無さを味わいながら時を味わうことには、昨年とは違った面白さを感じているように思います。
今は、ちょうど開けた窓の外で虫が鳴いていて、綺麗な音の声を聴かせてくれていますが、どうも雨音の激しく窓を叩く様子や、その激しさにしぶく叢の濡れそぼつ佇ち方や、またその雨音の中で幽かに声を聴かせてくれながら、さりとてよく晴れて乾いた日の、その時と日のつつがなさに色合いを添えるように鳴く静かで寂しい虫たちの声と比べていると、どこかその雨音のさ中にしかない秋を聴き取ることに、ここ最近の詩作があったことを今も感じています。
しかしどうも、私の心の内でもそっと季節が移ろっているようで、今はまた違う心地の詩の中にいる気がしています。ただ、秋という時は耳を澄ますのにはちょうどいい季節で、それは風と空の見せる景色の風合いのような何かから、その色味の豊かさが思い浮かばれてくるためとばかりは言えず、秋という時刻や季節の感覚を通して感じ得られるような、時の色彩の内にある言葉のたてる声や音に対して、耳を澄ましてみたくなる好奇心と言いましょうか。
そう思うと、やはり秋は豊かで、この時間の内に実りの本質があるような気がしてきます。しかしまた冬になると感受性に一気に影がさしてきて絶望するのだろうか、と思うと、怖くもありますが、そうならない年もあり、まだよくわかりません。
その乗り切り方は、知っているような知らないような感じです。そうやって毎年、豊かさの後に四苦八苦しているのもまた、季節感なのかなぁ、と思いますが、いまはこの時の言葉のたゆたいの内に身を置いて、ひたすらゆらめていたい思いです。
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