『白であるから』

2021年9月22日

少し前、古書店であり、出版社もされている七月堂さんへ行った際、紀伊國屋書店新宿本店で七月堂さんがフェアをうたれているというお話しをうかがった。私はそのとき現代詩文庫に探している巻があって、それはもうお店で見つかったけど、言われてフェアのことを思い出すと行きたくなり、会計を済ませたあとすぐに新宿へも行った。この詩集はそのとき、紀伊國屋さんで買った一冊なのだ。

フェアの棚を見ると、面白そうな本ばかり並んでいて、どれも欲しいなぁ、と覗いていたら、何か表紙の紺色の奥深いこの本がいい雰囲気を出していた。私は買うときに中身をパラッと読むけど、どの詩を読んでも美しく、また優れた惹句があり、ああ、これは読んでみたい、と思ったのだった。

その後、しばらく部屋に積んであって、なかなか手に取らず、かと言ってしまい込みもしなくて、読む機会をうかがいながら、他の本を読んだりしていた。それをこないだ池袋へ行った際に持っていって、私はそのまま電車の中で読み終えた。

カバンの中には他に本が二冊入っていた。二冊とも池袋の本屋さんで買った、たしか詩集と句集だったと思う。だいたい、買った場所が家から離れていると、そのまま電車の中でその本を読み始めるけど、このときはこの『白であるから』がどうしても読みたくて、池袋から多摩市へ向かう電車の中でやっと読みはじめ、感慨を得るくらい夢中になった。

多摩市でも本屋さんに立ち寄ったのだが、しかしそこでは何も買わず、キレイな夕べの街をうかうかと歩いて、私は考えていた。

本というのは不思議で、それが一冊の形である通り、持ち運ばれて旅をする。できあがるまでには、著者と制作者さんとの間の道程があり、できあがってからは、喩えばこの日のように、ちょっとした会話からその一冊と出会って、それがたくさんの本屋さんを巡る道のりの中でページをめくられて、読み終えたなら、そのちょうど読み終えたという地点から遡って私は、その本が書かれたという事実の、著者の息づかいを風景に覚えながら歩くこともある。

形であるから手になずんだというのも確かで、制作に至る過程を想像し、考えることもある。

この詩集は、文体が素敵な詩集だが、こうして身と心に旅をさせることで、私がいまここにいるこの年齢から立ち現れた私自身であることが、抜き差しならず詩の言葉と重なっていたと思う。

またいつか、違う場面に読んだら、違った読み方をするかも知れない。本は、風景とともに年をとる一幅の布のようでもあって、まさに、紡ぐということだなぁ、と、本を巡るこの日の旅から、考えさせられた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?