こゑを手に拾ふ日より - 30

こゑを手に拾ふ日より  二〇二四年六月


 見やうことを見るままに、聞かれることを聞くままに、年に連なる日の折ふしを今ほどにさうあらうと言はば言へ、果たしてその考へ方もむしろ判らづにゐて、居たたまれなく物の見へなひことに口惜しがり、またそれを認めがたく、さういつた日と日の重なり方のやる瀬なさこそ詩を書き、読むことに似てゐると思ふ。喩へるなら、やうやくけふも景色の明るみ、雨脚のしどけなく寄せ去つたかと言ふと、まう道の葉の色までさはやかでゐるのを、歩き過ぎるほどの心と言はうか。これを恐らく詩と言ひ得るなら、詩はうるさすぎるし、愁さにも過ぎ、変はらづにゐるらしひ。

二〇二四年六月三日


 かうして樹は一筋に並び、となり合ふ道のしつらへ方に日差しの傾くのを見て、朝に対ひ葉のめぐむやうに思はれる時のほとりより、見やうとなく聞かうとなく脇にゐるものとして景色はその所と、昨日と言ふ仮の在り様をしたものとを儚ますやう影り、暮れかかる昼の日をかう明らめてゐた。通りにゐて、さう表されてゐると言へるその所の現れやうや表されやうにこだはりのあると言はばさうで、または見へづ聞き得づに深まる時をだう考へれば良ひかも捨て置き、蒸せる日を過ごすのに任せてゐることを思ふばかりでゐる。朝と知れづ昼と知れづ夕とも判らづ、どこへか向かひその所より帰り、さまよふこともあらば時の片はらにゐることを考へるでもなく、その日の傾くのを習ひのやうに繰り返してゐる。

二〇二四年六月九日


 おほよその葉の萌し終へて、愛ほしむことと憎み愁ふことの思ひの移り変はりをまた色に増さしめ、葉の繁る木影の奥と葉の内側の空しひこころをまなうらに休ませるまで、けふも息をし、身のうへは寂しく、惑ふものの内に漲るものの静もるやうで、居たたまれづに言葉を忘れ、ただ歩く業のもとへ手を添へることで、笑はうといふ手遊びを葉の叢の濃さに見てゐたと思ふ。見るものを肯ふといふことでもあり、聞くものに戸惑ふといふことでもあり、それらをあはせて自らの色に狂ふといふこととも思ふ。さもあらば読むといふことにも狂ひ、その暮らし方でもつてして、葉の影の濃さと比べて時を深ひと落ち着ける。

二〇二四年六月十七日


 ひとに手紙をしやうと思ひ、にはかにその時の興り方に酔ひ、さざなむと言へば瀬に波の滑るやうに思へるのを、かう記すのみでゐて、ひとにまで伝はるものの何もあり得づ、日の暮れを冷めて漂ふ風でさへ、だう書きだう言へばそれが醒めて涼しひと思へるのかもわからづにゐる。さうでゐて、手紙するために涼んでゐると、伝へるものも伝はるやうで空しくなつてしまひ、書き得づにただ表し、色味の湿りかはくところもある風を心に据へて、やるせなくたよりのことは身に遠ざけながら詩など書き、すでに異なるひとの隣にゐる気のする。暮れてしまふ前のかういふ時のうるささに気のとほくなり、話すといふことも失ふまま、何も書かづ、此れを詩と為せる。

二〇二四年六月二十日

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