こゑを手に拾ふ日より - 16

こゑを手に拾ふ日より  二〇二三年四月


 読むことのくりかへし、さはることのたび重なり、足にて道をひと日を置ひて歩み、見ることと聞くことの寄せつつ返る、日と時の合ひ間の淵のうつろふ所へ、昔からけふに届く日の集ふ、このやうに身のまはりの風景のほか何もなひ、たまに風の吹き、鳥と言はば鳥の鳴き、光ばかり明るんでゐる、今より過去に似た時のここへ在る。これを凡そ読むといふ習ひの此の風景へ現象し、くりかへす官能として言葉にするなら、時の落ち着き、心の内にとほのく思へを、どのやうにしてこゑに語らう。こゑと言ふなら、さつきよりだうもまばらに、鳥の鳴くけふである。景色の身のまはりに現象するけふも、やはり詩を書ひてゐる。さう思ふと今はだうか、春と思へる。

二〇二三年四月四日


 詩と言はば、詩を書くひとの文字の中ほどへ休み、手づから時刻のくりかへしのやうに紙のうへに写され、自づから身のまはりの風景と、風景よりさはる風の吹き方から、かなしくあり、愛しまう心を愛しひと言はなひために、人のまへにて人より失せ、こゑのもとよりこゑを失ひ、わたくしもまたわたしくしと言はれなひ花のうたかたに似た姿の無さを儚まうため、詩はつとにまなうらや耳のほとりのくだらなさの内へも、失はれてゐると思つてゐる。やうやく何か心を辿り、言葉より言葉を排し、思ふところのあるくだくだしさから、すでに見へなひ詩の足跡や風景の美妙な影を、美妙と考へることなく、何も言はずに追ふ行ひを、名付けやうなく、同じく花のうたかたと言ひたひらしひ。詩はつねにこのやうに黙すと言ふこゑの失ひ方に近く、さう思へることで、けふも詩を静かに認めやうと思ふ。したためながら身を疎む所以を得つつ。

二〇二三年四月九日


 やうやく誰か人心地して、言葉を濃かに胸へ辿らうとする筆の表の、手の先から誰かまう一つの手の先へ伝ふ言葉の幻を、悩ましひ霞の内にゐてその霞の棚引く在り様を追ふ程に、手のうへに手を還し、その仕草を文字の連なる胸の裏側の光景として、だうもそれを人心地すると言ひたひやうに思ふ。日のもとに日を畳む、またそれをつづらへ開く、日の耳元へ日として集ふ春の日を、そのやうに、やうやく晴れてくる雨の縫ひ目に喩へてゐる。

二〇二三年四月十四日


 思はうと思ふことを目の内へ映し、その目に見へなひ映像を思ひ浮かぶと喩へ、目の内側のうつろな所には、それをまなうらとのみ言ひ得る空しひ光の漂ひ、さうして目の前へは夜の部屋の明るみの他、触れやう程の物もなく、明るさの内の色合ひを思ふつど、また思ふといふその日の心の在り様の身へ映されてくる。その思はれるまま思ふ行ひの表現する光景を、ここへひとときの現象として表しつつ、表されてゐる映像を日ごとの行ひに同じひ時刻のことごととして、思へばそれは昼の暮れ方に近く、何となく思ふことを追ふ。追ふ程それは、心としか言ひ得なひこゑのたゆたふ胸の内のやうに、色付ひてけふも追はれてばかりゐる。

二〇二三年四月十七日


 心を表さうとして、ゆめ伝はるものの定まらず、いづくへ開ける思ひも失ふままに、その感情を辿れば両の目のうつろへ、日の凪ぐ海の広がる思へのあつて、さう考へると、そこへ表れるなにものかのある気のする。これを書くといふ行為と重ねあはせるなら、書くことは両の目の、目を合はせるといふことに、近ひとも思へる。思ひに沈み、言葉を手前に心を表さうと試み、何をもて、わたくしは心さへ失ふままの、だうしても思への無ひ、日と次の日のくりかへしの明るさを浴びるばかり、言葉をひとへ問ふ前に消へ失せるらしひ。そのときだうも、そのひとびとの海のやうな心の官能の片はらにゐて、その感情も表しやうのなく、書くことは暮らすといふことかと静かに思ふ。わたくしはそしてその海に漂ふ。

二〇二三年四月二十二日

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