詩53 暮れるまへ
この詩を書いたあと、ちょっと大事なことを書いたな、と感じました。何を書いたかと言うと、特別何かを書いたという思いもなかったのですが、しかしどこか振り返ったときに、この詩に書かれていることが大事なことであるという気がしました。
いま読み返してみて、それがどういう大事なことだったのか、何ともわからない気がしますが、しかし書いたすぐあとにはその感じがあって、少し興奮していたように思います。その興奮は夜まで続いて、その次の日にも若干残り、そしてそのあとは今までと同じく書けなくなったので、やはり大事なことを書いたのかも知れません。書けなくなると心理的に不安定になることがあり、しかしその振れ幅が小さいところを見ると、まだここで書いた大事なことから、私の生活の中にある詩の川の流れは続いているように思います。
それはいつだかのツイートに表した西行の短歌によって、やはり連続しているように思えます。
この短歌を引用したのは、詩を書く二日前ですが、このときから心の中に連続する言葉の感覚があり、今もそれはある気がします。それがどんな心の流れか、今ひとつうまく言えませんが、その流れが霧のように消えたときにはまた激しく混乱するのだろうと思うと、その川のようなものを見失わないようにしたいなぁ、と思いもします。思いもするのですが、それはどうにもならない力で近づいたり離れたりするので、私はその霧のすぐ側にある見えるともない川のほとりを、どこへ行くかもわからないまま、ひたすら辿っているという気もします。
しかしどうも、少し違うような予感もあって、それは例年なら感受性の減退が始まる、この秋から冬への変わり目に、その心の川を霧の中から見つけ始めたということで、これはあまりないことです。もしかしたらこの川の隣をずっと歩きつつ、また違う川の岸辺に佇んでいたりする日々が、ここから始まるのかも知れないという気がします。
そんな予感のある詩だったので、大事なことを書いた気がしたのかも知れませんが、こうして書いている間にも、少しずつまた霧が厚くなってきているので、やはり私には分からない道行きの内にいるのだという思いでいます。
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