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赤ちゃんはわけみたま

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私は未婚のアラフォーで、妊娠6ヶ月。相手は16歳年下の男の子。態度をはっきりさせない彼氏に私がとった行動とは。※このマガジンはフィクションです。
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2020年2月の記事一覧

14 成人

二十歳になり、私は成人になりました。 普通の女の子なら、晴れ着を着て、同級生と会って、昔話に花を咲かせる、そんな普通の成人式を迎えるはずでしたが、私には晴れ着を用意してくれる人も、会いたい友達もいませんでした。 両親が私達に遺してくれたものは、生命保険と土地。これまでは、本家の伯父さんが管理してくれていましたが、成人となった以上、これからは私が財産の管理をすることになります。 とは言え、私は成人したばかりで、弟と妹は未成年です。今多額の現金を手にしても、どう扱っていいの

13 不倫男

私は高校卒業と同時に就職、弟と妹を施設に残し、会社の寮に入ることになりました。 当時は寮と言えば「ツルモク独身寮」のような、夕飯と朝ごはんが出る「社員寮」というイメージでしたが、私が入居したのは1Kのお部屋が沢山あるアパートで、そのアパートがまるごと寮という感じでした。 私は高校を卒業したものの、まだまだ子供でした。 毎日寮と会社の往復。そんな決まりきった生活でも、どこか人の温もりや、人の温かさを求めていました。 私は同じアパートに住んでいる男性と、お互いのお部屋を行

12 施設

私達きょうだいは施設に引き取られる事になりました。 本家の伯父さんは、会社や入院した伯母のこともあり、毎日とても忙しそうでした。そんな大変な時に、私達のために時間を割いて、施設を探してきてくれました。 施設はすぐに見つかり、私達は本家を出て、施設に入ることになりました。 そこでは私達のように両親がいなくなってしまった子ども達や、両親が育児を放棄した子ども達が集団で生活をしていました。 そこにはガミガミと怒鳴ったり、説教したり、酔って手を上げるような大人はいませんから、

11 出て行きます

私達のせいで、伯父さんにも、伯母さんにも心労をかけてしまった。その結果、伯父さんと伯母さんの関係は悪くなり、ついに伯母さんが倒れ、入院してしまった。 私は長女として、その責任を痛感しました。 両親が亡くなったのは、私達にはどうしようもないことです。ですが、その後の生き方は私達の心がけ次第で何とでもできたはずでした。 本家の伯父さん伯母さんに、私達の両親の役割ができるはずなどないのです。長女でありながら、高校生でありながら、私はそこまで気が回らなかったのです。 とても子

10 伯母の入院

私達兄弟をめぐり、伯父さんと伯母さんが毎晩のように喧嘩をするようになりました。 伯母さんから見れば、自分の子ならいざしらず、親戚の子が起こした問題の責任を取らされるのは、どうしても納得がいかなかったのでしょう。 伯母さんは私達に対して「出て行きなさい」とは決して言いませんでした。ですが、早く成人して出て行って欲しい、それが本音だったと思います。 その一方で、私達には言えないその本音を、伯父さんに向けて感情的にぶつけていたのです。 伯父さんは伯父さんで、自分の弟の子ども

09 暗い影

本家では、私達は何不自由のない生活をさせてもらえました。帰る家がある、家に帰ればご飯がある、お風呂にも入れる、暖かい布団でゆっくり眠れる。 母が亡くなった後の、あの荒れた生活と比べたら、何一つ不自由のない、むしろ幸せと言ってもいい生活でした。 しかし私達の背後にはいつも、両親の死という暗い影が付きまとっていました。 その暗い影は様々な形で吹き出し、常に私達や周囲の人たちの気持ちをザワつかせる原因となりました。 弟は学校でケンカをしたり、イジメに遭うようになり、目つきが

08 尻拭い2

本家でも私たちの居場所はなく、私達はいとこが使っていた部屋に引きこもり、肩身の狭い思いをしながら暮らしていました。 伯父さんも伯母さんも、家業を続けるのに手一杯で、私達に対して親子のように接してくれることはありませんでした。 本家の伯父さんは私達の未成年後見人となり、両親が遺してくれた生命保険と土地の管理をすることになりました。 未成年後見人は度々役所からの呼び出しや、書類への記入など、細々としたお仕事があります。それらのお仕事を、市役所が開いている時間帯にしなければな

07 本家

私達は本家に引き取られる事になりました。当時私は高校生、弟は中学生、妹に至ってはまだ小学生でした。 いとこのお兄ちゃん、お姉ちゃんはそれぞれ家を出ていたので、空いたお部屋を使わせてもらうことになりました。 本家の学区は、私達の学区ではなかったのですが、隣の学区ということもあり、弟も妹も転校せず、これまで通っていた学校に、卒業まで通うことができました。必要な手続きはすべて、本家の伯父さんがしてくれました。 大正生まれの、本家のおばあちゃんは当時、まだまだ元気でした。 私

06 尻拭い

父の乗る車に積んであった、仕事で使うロープ。父はそのロープを使って自ら命を絶ちました。 父が死に場所に選んだのは、母の遺体が発見された場所だそうです。 今思えば随分酷い話ですが、父の遺体と対面した時、私は「これで父から解放される」と安心したのを憶えています。 父の葬儀は、本家の伯父さんが仕切ってくれました。 母の葬儀で来てくれた、母方の親戚は皆、苦い表情で葬儀に参列していました。 「親より先に死ぬバカがあるか!」本家のおばあちゃんが、父の遺体にすがりついて泣いていま

05 父の死

母が亡くなった後、私達家族の生活はとても荒れました。 父は毎晩のように深酒をするようになり、タバコの量も増えました。家の中にはいつも、タバコとお酒の匂いがしていて、足元にはお酒の瓶が転がり、絨毯の上にはタバコの灰が落ちていました。私は学校から帰るといつも、お酒の瓶や吸い殻を片付け、掃除機で灰を掃除し、窓を開けて家の空気を入れ替えていました。 父はお酒を飲むと、毎晩のように私達3人に説教しました。お酒を飲みながら、タバコを吸いながら、毎晩のように行われる説教はとても嫌な時間

04 母の葬儀

母の葬儀は修羅場でした。 自ら命を絶った母。その原因は父。母方の親戚は、どの方も険しい表情で葬儀に参列していました。 私達3人をいつも優しく、笑顔で迎えてくれた祖父や祖母、おじさんやおばさんも、皆一様にこみ上げてくる怒りを抑えているようでした。 葬儀が終わり、参列された方々が帰ると、母方の親戚は父に対して「人でなし!」「謝れ!」と激しい言葉をぶつけました。父は下を向き、固めた拳をブルブルと震わせながらそれに耐え続けました。 私は弟と妹の手を引き、できるだけそういう場面

03 母の死

私が高校生になったばかりの頃です。それまでは家族5人で小さなアパート住まいでしたが、一戸建ての家を買って、そこに引っ越すことになりました。私達3人にはそれぞれお部屋が与えられました。 私達はお休みの度に、家族でホームセンターに行ったり、家具屋さんに行ったりして、憧れのベッドや本棚が部屋に置かれるようになりました。 父は仕事を取ってくるため、取引先を引き連れて繁華街までよく出かけていきました。景気が良かったということもありますが、建設業界ですからある程度見栄を張らないとバカ

02 私の生い立ち

私は地方の港町で生まれました。 砂浜があって、磯があって、入江があって、底を歩くカニやエビが見えるくらい透明な海があって、背後には切り立った山々、入り組んだ複雑な海岸線、漁港、魚市場、魚屋さん、そんな感じの町でした。 両親は共に地元の出身で、当時町議会議員をしていた方の紹介で、お見合いで結婚したそうです。 父は建設機械をリースする会社の役員で、小さいころはよく建設の現場に連れて行ってもらいました。大きなトラックに建設機械を積んで、工事現場まで父が運転していきます。 私

01 私の事

私は見た目が若いので30代前半に見られることも多く、お客様に実際の年齢をお伝えすると、とても驚かれます。 私は今妊娠中で、16歳年下の彼氏との間にできた子供がお腹の中にいます。 なぜそうなったかは後々お話させていただくとして、妊娠6ヶ月ともなると、だいぶお腹も目立ちます。 個人差はあると思いますが、赤ちゃんの重さが1,000グラムだとして、それに胎盤や羊水など、いろんな重さが加わるので、実際には5キロ位になります。 5キロのカバンを持ったり背負ったりするのとは違い、お