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「好きなことをして生きる」より大事なこと。そして私が「好きなこと」を見つけた方法

ここ5年間くらい
自分は【好き】って言葉に囚われすぎてたなあって

あなたにとっての「好き」は何?

5年前くらいに
オーストラリアで生活してた時に自分が思ったこと
「私は好きなことじゃないと"努力"ができないから
好きなことを仕事にしなきゃいけない」

そう思ったときから
自分の「好き」なことを探そうって
思って生きてきたけど
探してる時点で無理である笑

私にとって
「好き」なことってそんなにないんだよね

もちろん人の「好き」は移りゆくものだからその時点で「好き」を決めつけることはできない
そもそも「好き」の感じ方とか度合い、そしてどの位の度合いで自分の「好き」を満たせるかは人によって違うと思う

私はその中でも
「これがないと生きていけない!」って位の
「好き」を探し続けてた

でも自分の性質上なにごとにも好奇心旺盛で色んなものをちょっとずつ見たいって思うし、心から納得できるものじゃないと走り出せないある種「好き」へのハードルが高いタイプ
それに社会人になってからの、日常生活リズムとか身にふれるものの変化からかより一層自分の「好き」が感じにくい感覚にもなってた

AUSの経験から勝手に「好き」にこだわって生きてきたけど、最近では「好きなことを仕事に」とか、『好きと得意の掛け合わせで仕事を見つけよう!』とかってうたいかける本が沢山出てる

どこもかしこも
その人の「好き」を前提にする思考が溢れかえってる

だから私もより一層
私の好きな分野とかモノってなんだろうなあって
何もピンとくるものがないなかで模索し続けてた
(元々the感覚人間)

なんで「好き」を探してた?


ずっと考えたり、積極的にいろんなものを感じようとして、『私は今までの人生の中で1番苦しんでるんじゃないか、、?』ってくらいの日々を過ごしてたけど(特に社会人になってから)

もう一回前提を疑って感じなおしてみた

なんで好きなことを探してたかって、、
好きなことをしないと自分が"努力"できないって結論に至っていたから。それは辿ると「自分は"興味あること"なら、自分では努力と思わないほどにその物事に注力できるから」っていう理由

でもそれは注力できる(永遠に問いを立てて頭を動かせられる)もの=好きなことって決めつけていたにすぎない。となると私が他に注力できるもの?、、

そう考えたときに自分の得意を生かせるものの可能性を探りつづけることが自分が注力できること(永遠に問いを立てて頭を働かせられる)なんじゃないかって

考えを突き詰めて自分の感覚とか自分が導き出した理論で動きたいって思う私にはこの考え方の変換がどうしても必要だった。自分が自分の人生を楽しむために。

こんな単純な考えの変換なのに
長年自分を自分で縛りつけてた私は一体、、

考えの変換で変化した感覚

考え方を変換してから
なぜか世の中に気になるものが増えた

これは社会でいう「好きなこと」になるのかもしれない

『あれってなんでだろう?これはこうした方がいいのに!私はこういうふうになりたい』
色んなこと感じることができるようになった

多分今までの自分は、見えない壁で【自分】を囲い隠して、気づかぬうちに「私は〜あるべき」を心に刻みこませていたのかもしれない。
その「あるべき」は自分が自分でだした「べき」かもしれないけど、自身で掲げた理想や長年言葉にしてきた道筋ほど、無自覚にもその人の潜在意識に入りこむ

気づかぬうちに【自分】を見えなくする薄いけど頑丈な壁を建てて盲目にさせていたのかもしれない

自分自身の軸(意見)があるけど柔軟性もある
そう思ってる人ほど陥りやすいのかもしれない

生き方のアップデート

自分の人生観、仕事観
それに伴う社会との関わり方

そこを整理して、自分の人生を飽きさせないように色んな情報を色んな見方でinputして考えを巡らせておく

それが回り回って自分の得意を活かすことに繋がる

それが私にとって1番大事だと今は思うから
これから暫くはそう生きることにしよう

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