自伝 垂れ流し

菊地成孔は自分の神を信じろとは言うがその前に私は私の弱いところを見つめる、認めるのだ。看るという時は手と目で出来ているのでつまり看護は手と目で護ること、と速攻で中退した看護大学で習ったんだ。あと、「肺機能の歴史を辿ると人は人と口頭で話すこととを選んだ」とか、すんげえロマンチックなことも習ったんだ。人魚姫かよって思って感動したね。まあ、そうそう私の弱さはまず精神が弱い。まあ手帳持ち精神病患者だからそれはもう仕方がないことなのに、自分でそれを認めないでニコニコ明るい私をやってる、無理すんなって話だ。ニコニコ明るくしてないと友達が出来ない、笑わないのは可愛くないと母親に言われ愛されたくて褒められたくてそれを守っていたら変な人に絡まれて人生めちゃくちゃになって看護大学も中退した。まあ、その看護大学は左翼系の洗脳教育が施されるところだったので、それの影響もある。そう、私は母親に褒められたかったし、褒められて生きてても良いという証が欲しかった。推測だが、赤ん坊というものは腹の中で恐らく外の声を聴いているし理解している。私はこの世に来る前に、「私はすぐ死ぬから先に行きなさい」と死んだ妹に譲ってもらって生まれてきた気がするし、その情景もわかるのだが、まあ、持病特有の幻覚なんだと思う。私はマジで弱くて精神不安定で狂ってるし、そこんところ本当に知っておかないといけないんだと思う、あと背が低いし短足だし、お腹がかなり太ってるし、肌もクレーターニキビ跡と毛穴がすごい。顔の輪郭もゴツいし、全然可愛くない。なんだこれ。外見に対する解像度が高い。そりゃそうだ目に見えるから。ん。目に見えない弱点まだある。私は人との距離感が近すぎるし、優しいし、そのくせ人を傷つけないようにしてるし、言いたいこと、とされることは人に合わせて変えるし、なんだこいつと思っても抑える。我慢してる。我慢した瞬間と心の先には、我慢する人生が待ってるんだけど、なぜかというと我慢出来る人が優しいと信じていたからだ。自分の気持ちを抑えて我慢していたら優しいと言われるからそのために優しいふりをしていた。優しいと言われると生きてて良いと思えた幼稚園児、優しいと保育士さんに褒められて母親が喜んでた、最初の記憶、何が優しいんだろう、どうやったらもっと優しいと褒められるんだろう、とずっと考えていた。でもそんな、他人からの評価は揺らぐもので、幼稚園の時の評価軸は優しさだったけど、小学生の時の評価軸は「友達と楽しく話せるか」になって、私はそもそも人と話したことがなかったので(優しい、というのは一言も話さなくても伝わるものなので)母語なのに日本語を話すことが出来ず、言葉の教室にぶち込まれた。言葉の教室では、コイツは日本語をちゃんと認知してるぞと言われて、ますます母親が困っていたので、図書館で、ひとり、どうしたら良いかわからないまま本を読み漁っていて、ある時「人と話すのは情報交換に過ぎないので、話題のインプットをすれば良い」と、何故か啓示が降りてきて、急によく話すようになった。よく話すようになって明るくなった頃、中学のときに、母親が「変に明るくしてるから疲れちゃうんじゃない?」と言い出して、あなたが求めたことだろ?とは言えずに、何を急に言い出すんだろうと思った。そういえば小学一年生から「死にたい」という言葉は知っていて、多分それは妹が死んで発狂した母親に遺骨は白いのか、何色かと迂闊に聞いたら「私が死ねば何色かわかるからそれを見れば良い!」と発狂され、いくら謝っても発狂が止まらなかったので、その時に「私は死ぬべき人間だ」とはっきりわかり、習得した。死にたいと唱えていればいつか死ねて母親が許してくれると思った。恐らくその頃から「本当に話したいこと」は話さなくなった。本当のことをここだけで話すけど、私が思い出す本当の最初の過去イントロ?は「妹が目の前に死んでいって視界が紫や緑に包まれる」シーンで、その時に私は、「本当にごめんなさい、死んでくれてありがとう。あなたの介護を私は大きくなってもしなくて良いんだ、私は自由だ。」と思った。妹が生まれてから「あなたが大きくなったら妹の世話をする」と言われていたので、そんな不謹慎なことを思ってしまった、言葉にならずとも感じてしまった自分が許せなくて、多分その頃から妹と同じように死んでしまいたいと思っていたかもしれない。実際妹が死んだ後数年は母親が発狂していたので(実際私はお漏らしもせずすぐにトイレを覚え、とにかく人と話さない大人しい子供だった)私も死ねば母親にここまで愛されるかもしれないな、と思ったのかもしれない。多分、多分だけど、今の私も、死ねば本当の意味で愛されるかもしれないと思っている節があって、それが私の希死念慮のエネルギーかもしれない。私の希死念慮は、多分母親に愛されたいという意味だった。多分、発狂していた頃の彼女にずっと愛されたかった。それよりもっと前を思い出すと、妹の医療用テープや哺乳瓶、注射器に“妹のために”キャラクターを手書きしてあげると、母親がとても喜ぶし、それを見るのが好きで、私は絵を描くようになっていた。しばらくして小学生の頃になると、書道を母が教えてくれたのだが、私がなかなか上手く書けなくてまた母親がとんでもない勢いで発狂して、自分なんて死んで仕舞えばよいと思って泣いてしまい、それを見た母にまた発狂され、その後書道教室に通うようになり、恐らく絵で培った感覚があり、正しく教わるとメキメキ字が上手くなり、新聞に載るようにもなったし、賞状もかなり沢山貰った。ただ、母が、妹の医療用テープにお絵描きした時以上に褒めてくれることは、無かったように思う。それから、私立高校も母が気に入っていたため、看護大学も母が気に入っていたため、それぞれ入学し、高校では同級生からストーカー被害にあったり、大学ではいよいよ本格的に社会生活が出来なくなり、授業中にたびたび過呼吸になり、看護師の教師に「更年期かも」と言われたり、最寄りの病院の精神科の空きが無かったりで、適切なケアを受けられないまま気が狂い、街中で「殺してやる!」とやたらめったら叫びまくったり「祖母を殺さなければいけない」と思い込み殺しそうになったので、当時交際(実際はただのモラハラレイプ性虐待支配諸々だが、そういえばこの人にレイプされて、脅されて付き合ったかもしれないが、ショックすぎて何も思い出せない)していた中国人の歳上彼氏が韓国にいたのでそのまま韓国でしばらく住んでいた。日本にいたら家族を殺しそうになるので、とりあえず韓国に逃亡していた。当時の彼氏を除いて韓国での生活は楽しかったし、韓国語が結構わかるようになった。まあ、当時の彼氏が実際は私を洗脳していて、「結婚しなかったら殺す」「お前は若さ以外何も価値がない。ブスだしデブだし頭も悪いから」とずっと言われ続け、本当に気が狂って中国に渡航して瀋陽の中国大使館で婚姻届を出した。もう人生終わりだな、逃げられない、死ぬかと思っていたら、心の底から「どうせ死ぬなら闘ってから死ね」という声が物理的に聴こえたので、すぐに現地の中国人弁護士を見つけて離婚裁判を起こした。その間実家に元旦那からの怪文書が届いたりしたが、2年かけて裁判を終わらせて離婚した。この間にベトナム人と付き合って金を金額を言えないくらい、すごい金額取られたりしているし、暴力もモラハラも受けているが、ぶっちゃけ金以外はそんなにダメージ無いな…なんか他にもあった気はするけど、とりあえず今日はここまで。安直なんだけど、多分私の人生の大半の問題は幼少期に妹が死んだのと、母親がゴミ屋敷・知的・発達障害持ちメンヘラ女で精神年齢幼くて子育てに向いてない人だったのが大きいのでは?と書いてて思ったし、私は愛されたくて色々やってきた結果報われなくて病気になったし、多分「頑張ったら報われる愛される」を体験してみたかったんだな。まあ、一生あの時の母親からは褒めてもらえないんだけど。(なんか、あの頃と母は別人になっていて、多分妹の死で精神やられた結果の多重人格かなと私は思ってる)

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