カスミ荘のカスミちゃん
目次
1. コクられた?!
2. 姉ちゃんの悩み
3.マユカちゃんの恋
4.愛子姉ちゃんのピンチ
5.あやしい訪問者
6.親子の再会
7.カスミ荘のクリスマス
1.コクられた?!
学校から帰るときのことだった。
校門を出ると、同じ五年一組の神谷(かみや)龍平(りゅうへい)くんが追いかけてきた。
「拓斗(たくと)くん、いっしょに帰ってもいい?」
「え? いいけど……」
龍平くんとは五年生になって初めて同じクラスになった。でも、十月になる今まで、ほとんどしゃべったことがない。
そもそも龍平くんの家って、ぼくんちと同じ方向だったっけ?
そんなことを考えながらいっしょに歩きだすと、龍平くんがいった。
「拓斗くんって、サッカーが上手だよね」
「えっ、それほどでもないけど……」
たしかに、ぼくは一年生のときからサッカークラブに入ってるから、サッカーにはちょっと自信がある。でも、「まあね」なんて答えたらうぬぼれてるみたいだから、一応否定しておいた。
そしたら、龍平くんはムキになってほめ始めた。
「上手だよ、絶対。だって、この前、体育でサッカーしたとき、拓斗くん、何回もシュート決めてたし、パスもドリブルも超うまかったし」
尊敬のまなざしでぼくを見る龍平くん。
「ああ、あのときは調子がよかったかも。それに、ぼくはサッカークラブに入ってるから、入ってない人よりもうまくて当然っていうか……」
ぼくはあくまでも謙虚さを貫いた。自分のことをほめられるのはうれしいけど、ちょっと照れる。しかも、今まで存在すら気にしていなかった龍平くんがぼくのことをそんな目で見ていたなんて……。
「龍平くんは、何か習いごとしてるの?」
話題を変えようと思って質問してみたら、龍平くんは首をぶるんぶるんふった。
「ぼくはなんにも習ってない。得意なものなんかないし。拓斗くんはサッカーも上手だし、勉強もできるし、作文もうまいし……。ほんとすごいよね」
「……そ、そんなことないって」
ほめられすぎると、逆に居心地がわるくなる。
そのとき、ちょうどわんぱく公園についたからホッとした。ぼくのうちはわんぱく公園の少し先にある。
「あ、ぼくんち、そこだから。じゃあまたあしたね」
片手をあげて走っていこうとすると、
「あ、ちょっと待って」
と、龍平くんに呼びとめられた。
ふりむくと、龍平くんが立ちどまって、何かいいたげにぼくを見ている。
「なに?」
「あの……、拓斗くんって、好きな子いる?」
えっ。
急にそんなことを聞かれたから、ドギマギしてしまった。
「い、いないけど、なんで?」
すると、龍平くんはほんのり顔を赤らめ、小声でうれしそうに「よかった」とつぶやいた。
よかったって、どういうこと?
「えーと……、えーと……」
龍平くんはまだ何かいいたそうにしているけど、次のことばが出てこない。
「……それじゃ、またあした」
けっきょく、龍平くんはそういって、帰っていった。
ぼくは家に向かいながら、考えこんでしまった。
龍平くんは、なんでぼくの好きな子なんか聞いたんだろう? あの「よかった」は、どういう意味だったんだろう?
「えーと」っていったあと、ほんとうは何をいうつもりだったのかな?
ぼくの好きな子を聞いたのは、だれかから、聞いてきてってたのまれたんだろうか?
だけど、龍平くんとそんなに仲がいい女子なんていたかなあ。
でも、待てよ、もしも、だれかにたのまれたんじゃなかったとしたら……?
そう考えた瞬間、ぼくの心臓がバクバクしはじめた。
まさか、それはないよな。だって、龍平くんは男だよ。
ない、ない。
きっと女子のだれかから聞いてきてってたのまれたんだ。龍平くんにたのんだのはだれだろう?
ぼくはクラスの女子ひとりひとりの顔を思い浮かべながら、歩いた。
気づいたら、うちの門の前だった。
門を開けようとすると、中からカスミちゃんが出てきた。
「あらま、拓ちゃんやないの。今、学校の帰りなん?」
いつものガラガラ声だ。
「そうだけど、カスミちゃん、どこ行くの?」
「あたしは今から仕事やねん。きょうは遅番やから、夕方から夜中まで働くんよ」
「ふうん」
カスミちゃんは、ぼくのうちの庭に建ってるおんぼろアパート「カスミ荘」に住んでる女の人で、年は四十才ぐらいに見えるけど、カスミちゃんに聞くと、いつも「二十五才ってゆってるやろ」と、すずしい顔で答える。
カスミちゃんがカスミ荘に来たとき、ぼくと姉ちゃんに「あたしのことはカスミちゃんって呼んでな」といったので、仕方なく「ちゃん付け」で呼んでるけど、カスミちゃんはどう見てもそんなかわいい名前が似合うタイプじゃない。
背が高くてやせてるから、うしろ姿はモデルさんみたいだけど、正面から見ると、お化粧が濃くて本当の顔がよくわからない。
ただ二十五才でないことだけはたしかだ(と思う)。
カスミちゃんは今、駅の向こうのカラオケボックスで働いているけど、前はとなり町で小さなスナックをやっていたそうだ。だけど、半年前、カスミちゃんはわるいお客さんにだまされて、一文無しになってしまったという。
住むところをなくしてこまってたカスミちゃんを、スナックのお客さんだったぼくの父さんが、カスミ荘に連れてきたのだ。
ちなみに、うちのおんぼろアパートの名前とカスミちゃんの名前が同じなのは、ただの偶然だ。
ぼくの父さんは小説家で、母さんと結婚して姉ちゃんが生まれたころは、まだ全然売れてなかったらしい(今はそこそこ名前の知られた作家になっている)。
父さんは「小説が売れなかったらカスミを食って生きていかなきゃいけない」といって、何年も人が住んでなかったおんぼろアパート付きのこの家を買い、ほんの少しリフォームしただけのアパートに「カスミ荘」と名づけて、人に貸しはじめたという。ぼくが生まれる前の話だ。
カスミ荘には四部屋あるけど、今、貸しているのは三部屋だけだ。
一号室に住んでいるのは、母さんのいとこでフリーカメラマンの愛子姉ちゃん。
三十代後半で独身の愛子姉ちゃんは、仕事で世界中を飛びまわっているので、アパートにはほとんど帰ってこない。たまに会うと、「拓ちゃん、大きくなったねー。前はこんなにちっちゃかったのに」って、自分のひざぐらいを指す。ぼくが生まれる前からカスミ荘に住んでる愛子姉ちゃんにとっては、ぼくは何年たっても二、三才のイメージのままらしい。
そんな愛子姉ちゃんと正反対なのが、四号室に住んでいるマユカちゃんだ。
父さんの知り合いの娘のマユカちゃんがカスミ荘に来たのは三年前、マユカちゃんが二十才のときだった。マユカちゃんは過去に何があったのかわからないけど、ずっとアパートの部屋に引きこもり、マユカちゃんのおかあさんがとどけてくれる食料で食いつないでいる。
そんなマユカちゃんだけど、一年に何度かは外に出る。そんなとき、庭で遭遇すると、ギョッとする。だってマユカちゃんはすごく太ってて髪の毛がボサボサだから、動物園から逃げだしたゴリラみたいに見えるんだ。そんなこと、本人には絶対いえないけど。
カスミ荘の住人は変わってる人ばっかりだから、カスミちゃんが引っ越してきたときもおどろかなかった。むしろ、関西弁のおもしろい人が来たなと思った。けど、母さんはカスミちゃんのことがあんまり好きじゃないみたいだ。
父さんを「先生」「先生」といって慕ってるカスミちゃんは、天気がいい日、父さんが庭のガーデンチェアで日向ぼっこしてるのを見つけると、父さんにマッサージをしてあげていたりする。母さんはそれを見て「なによ、あれ。いやらしいったらありゃしない」なんていうけど、ぼくにはどこがいやらしいのかわからない。けっこう楽しそうに見えるから、ぼくも一度だけカスミちゃんにマッサージしてもらったことがある。そしたら、カスミちゃんは細いのに力があって、肩の骨が折れそうなぐらい痛かった。それ以来、ぼくはカスミちゃんのマッサージはことわることにしている。
門の前でカスミちゃんに「じゃあね」といって、中に入ろうとしたら、カスミちゃんがニヤニヤしながらぼくの顔をのぞきこんだ。
「ははあ、拓ちゃん、さては、彼女ができたやろ?」
は? カスミちゃんったら、いったい何をいいだすんだろう。
「な、なんで急にそんなこと……」
動揺して、しどろもどろになった。
「だって、拓ちゃん、今、顔がニヤけてたで。だから、彼女のことでも考えてたんかなーと思て」
「ち、ちがうよ。ニヤけてなんかいないし!」
カスミちゃんをにらんだけど、ふと龍平くんのことをカスミちゃんに話してみたくなった。
「あ、でもさ、ちょっと気になることがあって……。ぼくの友だちの話なんだけど、カスミちゃんならどう思うかなあ」
ぼくは家の門を閉めて、カスミちゃんのうでを引っぱって、うちから少しはなれたところに連れていった。庭で話してもいいんだけど、母さんに見つかって「何話してるの?」なんて聞かれたらめんどうだ。
「拓ちゃんの友だちの話? いったい、なんの話やねん?」
カスミちゃんがキョトンとしている。
ぼくはそのままカスミちゃんのうでをつかんで、駅のほうに向かって歩きだした。
「カスミちゃん、仕事に行くんでしょ。それなら、送ってくよ」
「それはうれしいけど……。話ってなんやの?」
「うん。あのね、ぼくの友だちの話なんだけど」
「それはさっき聞いたで」
「えーと、なんだっけな、そうそう、ぼくの友だちがね、同じクラスの男の子から『好きな子いる?』って聞かれたんだって。それで『いない』っていったら、その子が『よかった』ってうれしそうにいったんだって。それってさ、女子のだれかから聞いてきてってたのまれたんだよね?」
たぶんそうやろねっていうと思ったら、カスミちゃんはまじめな顔でちがうことをいった。
「うれしそうな顔でよかったってゆったんやな? ほな、その子自身が好きってことやないの? それは……、告白やね」
「こ、告白……?」
声がひっくりかえった。同時に顔も熱くなってきた。
「そうや」
「で、でも、龍平くんは男だよ」
「龍平ってゆうんか、拓ちゃんのこと好きなんは」
カスミちゃんが意味ありげに笑う。
「な、なんで、ぼくの話じゃないってば。カスミちゃん、誤解しないでよ」
「ああ、そやった。友だちの話ゆうてたな。けど、男の子が男の子を好きになったらあかんって決まりでもあるん? 好きになるのは自由やろ?」
カスミちゃんがしんけんな目でぼくを見つめている。
「た、たしかに、好きになるのは自由だけど」
カスミちゃんのいうとおりだ。だけど、なぜだかすごく動揺してしまう。
「拓ちゃん、その龍平くんって子、どんな子なん?」
カスミちゃんがぼくの肩にうでを回した。カスミちゃんのうではけっこう骨が太い。
「どんな子かって聞かれても、よく知らないんだ。おとなしくて、いつもニコニコしてる感じかな。ちゃんとしゃべったのってきょうが初めてだったから、まさかそんなこと思ってるなんて知らなくて。だから、びっくりしちゃって……」
そこまでいって、ぼくは、あっ、と口を手でふさいだ。友だちの話って設定なのに、これじゃバレバレだ。
カスミちゃんがぼくを見て、おかしそうに笑ってる。もうバレてもいいか。投げやりな気持ちになった。
カスミちゃんがしみじみした感じでつぶやく。
「そやったんか―。龍平くんって子、勇気だして拓ちゃんに告白したんやね」
カスミちゃんは完全に龍平くんがぼくを好きだと思いこんでいる。
話題を変えることにした。
「ねえ、カスミちゃんは、子どものころ、だれかに告白したことある?」
ぼくは今まで人の恋愛なんて興味がなかったし、大人の人とそんな話をするのも初めてだ。
だけど、カスミちゃんになら、なんでも聞けそうな気がするからふしぎだ。
「あたし? そういえば、あたしが初めて同級生に告白したのんも、五年生のときやったなあ。めっちゃかっこええ子やったんよ。即、ことわられたけどな」
ハハハとカスミちゃんが笑う。だけど、その顔はなんかさみしそうだ。
「ごめん、いやなこと思いださせちゃって……」
まずいことを聞いてしまったと後悔していると、
「かまへん、かまへん」
と、カスミちゃんは手を大きくふった。
「あたしの場合、相手に好きな子おるの知ってて告白したんよ。だから、ことわられて『やっぱりな』って感じやった。フラれて、さっぱりしたわ」
「ほんとに? そんなかんたんにさっぱりできるものなの?」
「そりゃあ、フラれた日は泣いたけどな。この世の終わりかと思うくらい涙出たけど、次の日になったら、もう過去の話になっとったわ。これホンマの話やで」
カスミちゃんはいたずらっぽく笑った。
だけど、ぼくは笑えない。カスミちゃんの笑顔のおくには、昔、失恋して、この世の終わりかと思うくらい泣いた日があったんだと思ったら、ぼくまでもらい泣きしそうだった。
それから駅前まで、ぼくとカスミちゃんはだまって歩いた。
カスミちゃんが働いているカラオケボックスは、駅前のガード下を抜けた先にある。
ガード下まで来ると、カスミちゃんが立ちどまった。
「拓ちゃん、ここでええよ。送ってくれてありがとな。気ぃつけて帰るんやで!」
「うん。カスミちゃんも、仕事がんばってね」
「まかしとき!」
カスミちゃんがめちゃくちゃ大きなダミ声をあたりにひびかせたから、思わず笑ってしまった。カスミちゃんって、やっぱりおもしろい。
家に帰ると、リビングには母さんしかいなかった。父さんは書斎のようだ。
「拓斗、おかえり。遅かったけど、何かあったの?」
「ううん、別に何もないよ」
カスミちゃんを駅まで送っていったなんていうと、なんで? と聞かれそうだから、だまっていた。
「きょうは宿題がいっぱいあるから早く始めないと……」
早々に自分の部屋に行くことにした。
階段を上ると、すぐに姉ちゃんの部屋がある。今年中学生になった姉ちゃんは卓球部に入って、毎日部活で帰りが遅い。
「中学に入ると、勉強もむずかしくなるし、部活もあって大変だよ」
姉ちゃんはいつもそういってるけど、その顔はけっこう楽しそうだ。
だけど、姉ちゃんは最近、家であんまりしゃべらなくなった。ふきげんな顔をしてることが多くて、特に母さんに対しては必ずといっていいほど口答えする。
それで、親子ゲンカが絶えないんだ。
「彩音(あやね)は反抗期だからしょうがないよ」
父さんはそういうけど、母さんは姉ちゃんの反抗的な態度を絶対に許さない。
姉ちゃんのせいで母さんのキゲンがわるくなると、ぼくにまでとばっちりがくるからめいわくだ。ふたりともうちの空気をちょっとは考えてくれよって思う。
きのうだって、夕方部活から帰ってきた姉ちゃんは、疲れた顔で夕飯のテーブルについた。
「あ~、疲れた~」
そういって、ご飯を食べ始めようとする姉ちゃんに、
「彩音、『いただきます』は?」
と、母さんが注意したら、姉ちゃんが口をとがらせた。
「……いえばいいんでしょ、いえば……。いただきまーす」
ほら、いったからね、というように、あごをツンともちあげた。
重苦しい空気が食卓の周りに漂う中、父さんが口を開いた。
「彩音、部活はどうだ? がんばってるか?」
「……別に」
姉ちゃんは父さんの顔を見ないでボソッとつぶやいた。
「別に、か。ハハハ」
苦笑いをする父さん。
そのあとは、みんなだまってしまった。
「さわらぬ神にたたりなし」っていうけど、今の我が家は「さわらぬ姉ちゃんにたたりなし」だ。
ぼくは夕飯を食べ終わると「ごちそうさま」といって、ソッコー二階に上がった。
次の日は金曜日だった。
学校に行くと、下駄箱のところで龍平くんと会った。
きのうのことを思いだして、なんか気まずいなと思っていると、
「拓斗くん、おはよう」
と、龍平くんからさわやかにあいさつしてきた。
「お、おはよう」
ぼくもあいさつしたけど、なんだかドキドキしてしまう。我ながら、意識しすぎだ。
そのとき、同じサッカークラブに入ってるトモくんがやってきて、
「たっくん、ランドセル置いたらサッカーしよう」
っていったから、ホッとした。
「うん。やろう、やろう」
そうだ、サッカーだ。龍平くんのことはひとまず忘れて、サッカーに集中しよう。
それでも、授業中、気になって龍平くんのほうを見たら、なんと龍平くんもぼくを見ていたから、あせった。ぼくは、あわてて目をそらした。
そのあとは絶対龍平くんを見ないようにしたけど、絶対見ないのも、意識してるってことだから、けっこう疲れる。龍平くんがきのうあんなことをいわなければこんなことにはならなかったのにと思うと、龍平くんをうらみたくなった。
帰りは、トモくんをさそって、ふたりで帰った。
その夜、ぼくが二階の自分の部屋にいたら、部屋の窓に何かが当たる音がした。
鳥がぶつかったのかと思って、窓を開けてみると、庭にカスミちゃんがいて、ぼくの部屋を見あげていた。手に小石を持っている。窓にぶつかったのは鳥じゃなくて、カスミちゃんが投げた石だったみたいだ。
「カスミちゃん、どうかしたの?」
「拓ちゃん、今、ちょっと庭に出てこれへん?」
カスミちゃんがヒソヒソ声でいう。
「……うん。今行く」
階段を降りて、玄関からそっと庭に出ていくと、カスミちゃんは仕事帰りみたいで、大きなカバンをかかえて庭のガーデンチェアにすわっていた。
「どうしたの、こんなところで?」
すると、カスミちゃんがニコッと笑った。
「あたし、伝書鳩の役、初めてやねん」
「伝書鳩?」
なんのことかわからなくて聞きかえすと、
「はい、これ。拓ちゃんに渡してってたのまれてん」
と、封筒に入った手紙をぼくの目の前に差しだした。
「たのまれたって、だれから?」
たずねながら、その封筒を受けとると、表に「清水拓斗様」と書いてある。裏返してみたら「神谷龍平」と書いてあった。龍平くんからだ。
とっさにカスミちゃんを見ると、
「あたしの勘が当たったな」
と、得意そうにつぶやいた。
龍平くんからの手紙、いったい何が書いてあるんだろう?
手紙をもったまま固まってるぼくに、カスミちゃんが手紙をあずかったいきさつを教えてくれた。
「今な、あたしが仕事から帰ってきたら、ここの門の前でうろうろしてる子がおったんよ。チラシを入れるアルバイトの子ォにしては若すぎるから、『この家になんか用?』て聞いたら、『このうちの人ですか?』ゆうから、『そやけど』ゆうたら、『それじゃ拓斗くんにこれ渡してください』ってゆって走っていってもうたんよ」
そうだったのか……。
「これラブレターやろ。拓ちゃん、早よ開けてみぃや」
カスミちゃんが興味しんしんでぼくの手もとをのぞきこんでいる。
本当はぼくひとりで見たいけど、龍平くんのことはきのうカスミちゃんに話しちゃったから、見られてもいいかな。
ぼくは思いきって封筒を開いた。
夜の庭は、うちの灯りがもれていて真っ暗ではないけど、手紙を読むにはちょっと暗い。
となりでカスミちゃんが自分のスマホを開いて、ライトをつけてくれた。
手紙にはきちょうめんな字でこう書いてあった。
拓斗くん、きのうはいっしょに帰ってくれてありがとう。
ぼくは5年生になって拓斗くんと同じクラスになってからずっと拓斗くんのことが好きです。
きのうそのことがいいたかったんだけど、いえなかったから手紙を書きました。
拓斗くん、ぼくと友だちになってくれませんか?
来月、児童館のお祭りがあるので、それにいっしょに行けたらうれしいです。
返事を待ってます。 龍平
手紙を読んで、ぼくはこまってしまった。
だって、女子からコクられたこともないぼくが、人生で初めてコクられたのが男子からだなんて、ショックすぎる。
龍平くん、なんで女の子じゃなくて男のぼくが好きなんだろう。龍平くんって、前に学校で習ったLGBTQっていうやつなのかな? そんなふうに見えなかったけど……。
返事を待ってますって書いてあるけど、返事しなきゃいけないのかなあ……。
「カスミちゃん、これって、返事しないとまずいと思う?」
横から手紙をのぞきこんでるカスミちゃんに聞いてみると、
「そうやね。龍平くんは勇気を出してコクったんやから、拓ちゃんもちゃんと返事してあげなかわいそうやで」
と、しんみりした感じでいった。カスミちゃんも五年生のときに告白してふられたといってたから、そのことを思いだしているのかもしれない。
「でもさ、なんて返事したらいいかわからないよ。だって、男子から好きだなんていわれても、キモいだけだし」
正直な気持ちをいうと、カスミちゃんがふっとさみしそうな顔をした。
「そうやねえ。そう思う人、多いんやろね」
いや、だれだってこまるとぼくは思う。
「カスミちゃんだって、女の人からコクられたらこまるでしょ?」
「ハハハ、そうやね。けど、だれかから好きいわれるんは、相手が男でも女でもうれしいけどな」
「そうかなあ」
それはカスミちゃんのやさしさなんだろうか? ぼくにはわからないけど。
「ぼく、龍平くんのことなんとも思ってなかったのに、こんなふうにいわれると、学校ですごく意識しちゃいそうでイヤなんだよ。それを正直にいったら、龍平くん傷つくかなあ」
こまってるぼくを見て、カスミちゃんがぼくの肩をポンとたたいた。
「そうや、拓ちゃん、あたしが返事をいっしょに考えてあげよか?」
「ほんと? カスミちゃんがいっしょに考えてくれたら、すっごく助かる」
「オッケーや。じゃあこの件はまた明日相談しよ。きょうはもう遅いから帰ったほうがええで。ママさんが心配するよってな」
「わかった」
玄関のほうに歩いていこうとするぼくの背中を、カスミちゃんがそっとおした。
「拓ちゃん、おやすみ。いい夢見るんやで」
「うん」
ぼくはふりむいて、カスミちゃんに手をふった。
翌日の土曜日の午後、サッカーの練習に行って帰ってくると、カスミちゃんが庭にいて、ぼくを呼んだ。
「拓ちゃん、これ、龍平くんに返事書くときの参考にしぃや。このレターセットも使ってええから」
小さくたたんだ紙切れと、うすい緑色のレターセットをぼくに差しだした。カスミちゃん、龍平くんへの返事をもう考えてくれたんだ。
「ありがとう、カスミちゃん」
「拓ちゃん、お礼なんかええから、龍平くんを傷つけんように返事書くんやで」
「うん」
カスミちゃんに感謝しながら、家に入った。
サッカーのユニフォームをぬいでシャワーを浴び、自分の部屋に行って、やっとカスミちゃんからもらった紙をじっくり見た。
そこには、カスミちゃんの見た目からは想像できない角ばった大きな字で、龍平くんへの返事を書くアドバイスが書かれていた。
・手紙をもらったお礼を書く。・自分を好きだといってくれてうれしかったと書く。・龍平くんのことはいいクラスメートでいたいと書く。・児童館のお祭りは行きたいけど用事があって行けないと書く。…………
ぼくはカスミちゃんのアドバイス通りに、龍平くんに返事を書いた。
龍平くん、手紙をありがとう。
手紙を読んでおどろいたけど、ぼくを好きだといってくれてうれしかったです。
だけど、龍平くんのことはみんなと同じクラスメートのひとりと思っていたし、これからもいいクラスメートでいてほしいと思っています。
児童館のお祭りのことだけど、その日はたぶんサッカーの練習があるから、いっしょに行けません。ごめんね。
これからも学校で会ったら、笑顔であいさつしあえるようないい友だちでいてください。よろしくお願いします。 拓斗より
月曜日、学校で龍平くんに手紙をわたした。
すると、次の日、龍平くんがぼくにいった。
「きのうは手紙ありがとう。拓斗くんからほんとに返事もらえると思わなかったから、すごくうれしかった。あの手紙大事にするね」
龍平くんはニコニコしながらそういって、それからぼくたちはふつうの友だちになれた(と思う)。
カスミちゃんのアドバイスのおかげだ。
2.姉ちゃんの悩み
それから何日かたった日のことだ。
姉ちゃんが頭が痛いといって、学校を休んだ。
昼間はずっと自分の部屋で寝ていたらしいけど、夕飯のときも、食欲がないといって、ほんの少し食べただけで、二階に行ってしまった。
母さんが天井を見あげながら、つぶやいた。
「彩音、最近なんだかようすが変なのよね」
「どんなふうに変なんだ?」
父さんが聞きかえす。
「頭が痛いって学校を休んだけど、この二、三日、ずっとふさぎこんでいるみたいなのよ。学校でなんかあったのかしら? 拓斗、彩音からなにか聞いてない?」
突然、聞かれて、とまどった。
「べつに、なんも聞いてないけど……」
そう答えながら、この前、姉ちゃんのことで、あれっ、と思ったことがあったのを思いだした。
おとといの夜、姉ちゃんの部屋に本を借りに行ったんだけど、部屋がやけに静かだったんだ。いつもはロックをかけているのに、そのときはかけてなかったから、そのせいかなと思ったけど、机の前にすわってる姉ちゃんは、勉強しているわけじゃなくて、スマホを見ながら何か考え事をしているようだった。
ぼくが「本、貸して」というと、いつもなら、「なんの本?」とか、「読んだらちゃんと元にもどしてよ」とかいうのに、ずっとだまったままだった。だれかとスマホでやりとりしていて忙しいのかなと、たいして気にしてなかったけど、部屋を出るときに姉ちゃんのため息が聞こえた。いつも強気の姉ちゃんがため息をつくなんて、めずらしい。
でも、母さんから姉ちゃんのことを聞かれるまで、そのことをすっかり忘れていた。今思えば、あのときの姉ちゃんはやっぱり少し変だったと思う。
でも、このことは母さんたちにはいわなかった。きっとそんなたいしたことじゃないだろうと思ったし、何よりも「さわらぬ姉ちゃんにたたりなし」っていう考えが、ぼくにはしみついていたからだ。
そんな姉ちゃんが自分の部屋にいないことに気づいたのは、その日の夜八時頃のことだった。
お風呂から出たとき、母さんが、姉ちゃんにお風呂に入るようにいって、といったから、姉ちゃんの部屋に行った。そしたら、部屋が空っぽだったんだ。トイレにもどこにもいない。
びっくりして、母さんに知らせなくちゃと思っていたら、ぼくの携帯の着信音が鳴った。
見ると、姉ちゃんからだ。
「あれ、姉ちゃん? 今どこにいるの?」
電話に出ると、まず「しーっ」という声がした。
「拓斗、今からカスミちゃんの部屋に来れる?」
姉ちゃんの声には緊迫感があった。
「カスミちゃんの部屋? なんで?」
途中で声のトーンを落としたけど、頭の中はハテナマークでいっぱいだ。
「来てから話す。母さんたちに見つからないように来てよ」
「わかった」
ぼくはリビングにおりて行って、母さんにいった。
「母さん、姉ちゃんはお風呂、最後でいいって。だから、母さんと父さん、先に入ったほうがいいんじゃない?」
「そう? それじゃ先に入ろうかな」
母さんがお風呂に入る準備を始めた。母さんは長風呂だから、入ったら一時間近くは出てこない。それに、父さんは今、書斎にいるようだ。食後は焼酎を飲みながら書斎で本を読むのが日課だから、お風呂に入るまで書斎から出てくることはないだろう。
ぼくはいつものようにリビングでテレビを見るふりをして、浴室のとびらが閉まる音を確認してから、そっと玄関を出た。
一分もかからず、カスミ荘の三号室の前に着いて、とびらをノックすると、すぐにカスミちゃんが出てきた。
「拓ちゃんか、入り」
カスミちゃんの部屋に入るのは初めてだ。
「拓斗、母さんたちにバレなかった?」
姉ちゃんは、カスミちゃんちの、ひと部屋しかない畳の上にすわっていた。
「うん。母さんが今お風呂入ったから、一時間は大丈夫だと思う」
ぼくがいうと、姉ちゃんがホッとしたようにうなずいた。
それにしても、この部屋はせまい。玄関を入ってすぐに小さいキッチンがあって、その向かい側にトイレとシャワー室があって、そのおくにたたみの六畳間があるだけなんだから。
「でも、姉ちゃん、なんでこんなとこにいるんだよ?」
ぼくのことばに、姉ちゃんより先にカスミちゃんがむっとした顔で反応した。
「こんなとこってなんやねん。ここはあんたんちのアパートやんか。こんなとこゆうなら、きれいで広いアパートに建て直してほしいわあ」
「ごめん」
すなおに謝ると、カスミちゃんはクシャッと笑った。
「冗談、冗談。で、なんで拓ちゃんをよんだかって話やけどな。今から、彩ちゃんの友だちのうちに怒鳴り込みに行こか、思てんねん。その相談や」
カスミちゃんが右手のこぶしに力を入れている。
「怒鳴り込み? なんで?」
話がさっぱりわからない。
「拓ちゃんは、なんも知らんねんなあ。あんたの大事なお姉ちゃんの危機やいうのに」
カスミちゃんが、あきれたように笑った。
笑われたって、知らないものは知らない。
「姉ちゃん、危機なの?」
本人に聞いてみると、姉ちゃんが気まずそうに話しだした。
「私……、脅されてるんだ」
「脅されてる? マジで? だれに?」
おどろきすぎて、つい質問攻めしてしまう。
「同級生。私、ハメられたみたいなの」
姉ちゃんの口から、ぶっそうなことばが次々と出てくる。
「ハメられたみたいって……、いったいどういうこと?」
「今週の月曜日のことなんだけど……」
姉ちゃんが話しだした。
月曜日といえば、三日前だ。
その日、学校で体育の授業があったという。
姉ちゃんと仲がいい千帆ちゃんが学校を休んでいたため、体育が終わったあと、姉ちゃんは更衣室でひとりで着替えようとしていた。
すると、ふだんあまり話をしたことがない同級生のM子が姉ちゃんに近づいてきて、こういった。
「清水さん、こっちでいっしょに着替えない? ちょっと相談にのってほしいことがあるんだ」
小声で話しかけてきたM子は、何かこまっているようすで、もじもじしている。姉御肌の姉ちゃんはM子の話を聞いてあげようと思い、
「でも、相談なら、放課後のほうがよくない?」
と、逆に提案してみた。すると、M子は、
「ううん、すぐ話せることだから、ここでいいよ」
と、ほかの子たちと少し離れた場所に姉ちゃんを連れていった。そして、
「実は、私、K子にいじめられてるんだ」
と、伏し目がちにいったという。
K子といえば、クラスの女子の中でいちばん目立っている子で、その日の体育は見学していたから、更衣室にはいなかった。
「K子にいじめられてるって、ほんとなの?」
姉ちゃんは聞きかえした。なぜなら、M子とK子はとても仲がいいと思っていたからだ。相談の内容が内容なので、姉ちゃんは着替えていた手を止めた。
「もちろんほんとだよ。あ、清水さん、着替えながら聞いてくれればいいから。次の授業に遅れるとヤバいでしょ」
M子はそういって、自分もどんどん着替えだした。
「たしかに、あんまり時間ないかも」
時計を見た姉ちゃんは、あわてて体操服を脱ぎはじめた。M子が話をつづける。
「ねえ、清水さんは、K子のことどう思う? 清水さん、K子と同じ小学校だったでしょ? 私は中学入ってからK子と知り合ったから、よく知らなくて……」
M子のいうとおり、K子は姉ちゃんと同じ小学校だった。
しかし、K子の印象はというと、正直サイアクだった。K子は小学生のとき、わがままで自分勝手で、いつも同級生を自分の思い通りにしたがった。それで、友だちがいうことを聞かないと、陰湿ないやがらせをすることで有名だったのだ。万引きやカツアゲをしているという噂もあった。
だから、同じ小学校出身の女子たちは、K子と距離を置く人が多かった。姉ちゃんもそのひとりだ。
だからこそ、M子がもちかけてきた相談は、納得できたし、M子のこまり具合も想像がついた。それで、姉ちゃんはつい正直にこういってしまったという。
「小学生のときのK子は、けっこうわがままで、自分勝手で、気に入らないことがあるとクラスの女子にいやがらせをしてたよ。持ち物をかくしたり、盗んだり……。K子に関わるとロクなことがないから、K子を避けてる子、多かったと思う。M子ちゃんも気をつけたほうがいいかも」、と。
すると、姉ちゃんの話をうなずきながら聞いていたM子が、ニヤリと笑った。
「へえ、そうなんだー。清水さん、さすが××小の出身者、説得力あるね。ありがとう。参考になったよ」
M子の笑い方には少し引っかかったものの、姉ちゃんはそのときもまだ、M子がK子にいじめられているという話を信じていたという。
「M子ちゃん、もし、ものすごくこまってるなら、大人の人に相談したほうがいいんじゃないかな」
着替え終わった姉ちゃんが、脱いだ体操服を袋に入れながらいうと、
「それは大丈夫だから! あ、急がないと、次の授業に遅れちゃう」
と、M子は思いがけないくらい明るくいって、姉ちゃんといっしょに更衣室を出た。
しかし、すぐに、
「清水さん、先に行ってて。私、忘れ物しちゃった」
といって、ひとり更衣室にもどったという。
残された姉ちゃんは、M子が急に明るくなったことに違和感を感じ、M子の話を疑う気持ちがわいてきた。しかし、もしM子の話がウソだとすると、なぜそんな無駄なことをするのかがわからない。
その理由がわかったのは、次の日(おととい)の放課後のことだった。
姉ちゃんは千帆ちゃんといっしょに卓球部の部活を終えて、学校を出た。そして、住宅街の角で千帆ちゃんと別れ、ひとりになると、うしろからK子とM子が近づいてきた。
「彩音、ちょっと待ちなよ」
ドスがきいたK子の声におどろいてふりむくと、ふたりは姉ちゃんをひと気のない道に連れていき、K子のスマホの画面を姉ちゃんに見せてきたという。
そこには、姉ちゃんが着替えている動画と、姉ちゃんの声が入っていた。
「小学生のときのK子は、けっこうわがままで、自分勝手で、気に入らないことがあるとクラスの女子にいやがらせをしてたよ。持ち物をかくしたり、盗んだり……。K子に関わるとロクなことがないから、K子を避けてる子、多かったと思う。M子ちゃんも気をつけたほうがいいかも」
えっ……。
たしかに、これは私だ。着替えているのもしゃべっているのも、私にまちがいない。でも、いつ、どうやって動画を撮ったんだろう……。
姉ちゃんは、そう思うのと同時に、自分がハメられたことに初めて気がついた。
K子にいじめられてこまっているとM子はさびしげにいっていたが、あれは演技だったのだ。まんまとだまされてしまった。当のM子はK子の横でニヤニヤ笑っている。ショックすぎて、ことばが出ない。体がブルブル震えた。
「彩音、よく、こんなこといってくれたわね。これって、あんたの本音だよね? こんなこといって、ただで済むと思わないでよっ」
K子が姉ちゃんをひじで突いた。
暴力をふるわれるのかと思ったが、K子はそれ以上のことはせず、代わりに意外なことをいいだした。
「ねえ、あんたの父親って、清水市之助でしょ? この動画、SNSに流したら、どうなるかなあ? 下着姿で友だちの悪口いってるのが、人気小説家清水市之助の娘だとわかったら、みんなどう思うかなあ。ねえ、M子?」
K子が不気味に笑いながら、M子に相づちを求めた。
「もちろんスキャンダルになるだろうね。人気もガタ落ちでしょ」
M子がしたり顔で答える。
事態は思ってもみない展開になってしまった。ことばをなくしている姉ちゃんに、追い打ちをかけるように、K子が低い声でいった。
「父親を守りたいなら、金を用意しな!」
「……お金?」
姉ちゃんが初めて声を発した。
「十万で勘弁してやるよ。十万ならすぐ用意できるだろ?」
K子は軽くいうが、そんな要求に応じられるわけがない。
「お金なんて、ないよ」
姉ちゃんがそういうと、
「ないわけないだろ、清水市之助の娘なんだから。もし、金を払わないっていうなら、この動画をSNSに流すだけだけど……、いいの?」
と、K子が脅すように、もう一度スマホの動画を見せてきた。
「…………」
もちろん動画は流してほしくない。だけど、正義感の強い姉ちゃんは、こんな卑怯な手を使って自分を脅してくるK子に、お金をわたすのもイヤだった。
だまっている姉ちゃんに、K子がしびれを切らしたように舌打ちした。
「ちっ。しょうがないから、三日待ってやるよ。三日以内に金をもってこなかったら、そのときは、これをSNSに流すからな。覚悟しろよ」
K子はそう捨てゼリフを吐くと、M子を連れて去っていった。
「……そういうわけで、K子がいった三日の期限が明日で切れるんだ」
「……そういうことか」
姉ちゃんが脅されてるとかハメられたといった理由が、よくわかった。
「だけどさ、その動画って、どうやって撮ったの? 仲間のだれかが撮ってたの?」
引っかかっていたことを聞くと、姉ちゃんが首を左右にふった。
「M子が撮ってたんだと思う。高いところから撮ったみたいだったから、たぶん掃除道具のロッカーの上にスマホを置いてたんだと思う」
「なるほど」
それで、M子は忘れ物をしたふりをして、スマホを回収しに更衣室にもどったんだろう。
「それで姉ちゃんは、カスミちゃんにそのことを相談してたんだね」
やっと姉ちゃんがカスミちゃんの部屋にいる理由がわかったと思っていたら、カスミちゃんが口をはさんだ。
「それはちゃうねん。あたしが仕事の帰りに公園の前を通ったら、公園に彩ちゃんがおるのが見えたんよ。夜の公園に若い女の子がひとりでおったら危ないやんか。それで『早よ帰り』いうたら、『帰りたくない』いうんで、うちに連れてきたってわけやねん」
カスミちゃんの話を姉ちゃんが引きつぐ。
「それで、ここに来て、カスミちゃんに、同級生に脅されてるって話したら、カスミちゃんがものすごく怒って、今からK子の家に怒鳴り込んでやるっていいだして……」
「そりゃあ怒るの当然やで。卑怯な手つこうて彩ちゃんを脅すなんて、絶対許されへんことやで。あたしが、K子をどついて、しばいたる!」
カスミちゃんが両手指の関節をポキポキ鳴らした。本当に今にも怒鳴り込んでいきそうな勢いだ。
神妙な表情で姉ちゃんがいった。
「カスミちゃんがそこまで怒ってくれるのは嬉しいんだけど、カスミちゃんが怒鳴り込みに行ったら、それがまた父さんの迷惑になるかもしれないって思ったら、怖くなって、それで、拓斗に意見を聞こうと思って……」
「それでぼくを呼んだわけ?」
そんな重大な役目を小学生の弟に任せちゃっていいのかなあと、ぼくは心の中で激しく首をかしげた。
「ごめん。でも、父さんと母さんには話したくなかったから」
姉ちゃんがしょんぼりしている。
そんな姉ちゃんを見ていると、放っておけない気持ちになった。
姉ちゃんは、K子の脅迫には負けたくないけど、下着姿の動画がSNSに流されるのも絶対イヤなのだ。まして、そのことで父さんに迷惑がかかるとしたら、それがいちばんつらいかもしれない。そんな姉ちゃんの気持ちが伝わってきた。
ぼくだって、姉ちゃんをハメたK子には本当に腹が立つ。カスミちゃんがいうとおり、絶対許すわけにはいかない。
「カスミちゃん、ぼくも行くよ」
ぼくが立ち上がると、姉ちゃんとカスミちゃんがびっくりして、ぼくを見あげた。
「行くって、どこに?」
姉ちゃんが聞きかえす。
「K子のところだよ。でも、家に行くより、外に呼びだしたほうがいいかもね」
そのとき、ぼくの頭の中にいいアイディアが浮かんだ。
それから、ぼくたちはK子の家にいちばん近いクスノキ公園に向かった。
姉ちゃんからK子に「動画の件で相談したいことがあるから、クスノキ公園に来てくれる?」とメッセージを送ったら、すぐに「了解」と返事が来た。
公園のまん中にクスノキがあるだけのクスノキ公園に着いたときは、もう八時半を過ぎていた。公園には、ぼくたち以外、だれもいない。
ぼくとカスミちゃんは大きなクスノキの陰に隠れ、姉ちゃんはそこから数メートル離れた外灯の下でK子を待った。
K子がやってきた。
「相談ってなんだよ?」
あごをツンともちあげ、両腕を組んだK子が、姉ちゃんを値踏みするように、上から下まで見据えた。
「あの動画をSNSで流さないでほしいの」
姉ちゃんが毅然とした態度でいった。
「だから、そうしてほしければ、金もってこいっていってんだろ」
イライラしたように、K子が声をはりあげた。
「そんなお金、あるわけないでしょ」
姉ちゃんが冷静にいうと、
「はあっ? 金がなかったら、つくってこいよ。金は払わない、それで動画を流すななんて、そんな勝手なことできると思ってんのかよ?」
と、K子がすごみをきかせながら、姉ちゃんを突き飛ばした。
その拍子に、姉ちゃんが尻もちをついた。
その瞬間、カスミちゃんが飛びだしていった。ものすごい勢いで走っていき、姉ちゃんを助け起こす。
K子は、突然、目の前に現れた中年の大女にあっけにとられて、声も出ない。
そんなK子に、カスミちゃんが大声で怒鳴った。
「おんどりゃー、だまって聞いてりゃ、勝手なこといいくさりやがって、あたしの大事な友だちにしょうもないことしくさりやがって、おどれがなにさらしたんか、わかっとんのか? なめとったら、しまいにゃ、いてまうど!」
カスミちゃんがドスをきかせた声で怒鳴りながら、にじりよっていくと、K子がじりじりとあとずさった。カスミちゃんはなおもK子に近づきながら、しゃべりつづける。
「これ以上、彩ちゃんに変なまねしくさったら、承知せえへんからな。いっとくけど、あたしの親戚に警察のドえらい人がおんねんぞ。おどれが卑怯な手つこて撮った動画を流してみぃ。そんときゃ、警察の出番やからな。覚えときぃや」
カスミちゃんは「覚えときぃや」をいうとき、K子の顔のすぐ近くまで自分の顔を近づけていた。超怖い。クスノキの陰からスマホで動画を撮っていたぼくは、恐怖でおしっこをちびりそうになった。
カスミちゃんがつづける。
「……んで、彩ちゃんの動画はどないする気や? SNSに流すんか、流さへんのか、ここではっきり決めたれや!」
カスミちゃんが聞くと、K子は首をぶるんぶるんと左右にふった。
「……………」
「なにぃ? 声が聞こえへんぞ。SNSに流すんか流さへんか、ちゃんといわんかいっ! このカスが!」
「……流しません」
K子が蚊の鳴くような声で答えた。
「ほんまやな? 約束やで。約束やぶったら、承知せえへんからな。警察よぶっちゅうのは脅しやないで。ほんまによぶからな。わかったか? わかったら、帰っていいで。もうこんなアホなまねするんやないで。まっとうに生きるんやで」
カスミちゃんは、最後のほうはやさしくいってたけど、K子は「帰っていいで」といわれたあと、全速力で逃げていったから、最後まで聞いていなかったかもしれない。
K子の姿が完全に見えなくなってから、ぼくたちは公園を出た。
「カスミちゃん、ありがとう。私、なんてお礼をいったらいいかわからないけど、ほんとうにありがとう」
歩きながら、姉ちゃんが感激したようにいった。
「なんも、なんも……。彩ちゃんの友だちとして、当然のことしたまでや」
カスミちゃんはいつものカスミちゃんにもどっていた。
ぼくは自分のスマホを手にして、ふたりにいった。
「K子の声が小さかったから、声が録れたか心配なんだけど……」
ぼくの計画では、姉ちゃんの動画をSNSに流さないというK子の声を録音して、それを証拠にするつもりだったから、それが録れてないとまずいと思ったんだけど、カスミちゃんがポケットから自分のスマホを出して、ゆっくり録音ボタンを切った。
「そんなこともある思て、あたしのスマホでも録音しといたから大丈夫や。ま、それが必要になることもないやろけどな」
カスミちゃんがにっこり笑った。さすがカスミちゃんだ。
「けど、あの子ォも、かわいそうやな。中一で同級生脅して金盗ること覚えたら、まともに働くのんはバカらしくなるやろなあ」
カスミちゃんがポツリとつぶやいた。
そのあとは、みんな、だまって歩いていたけど、姉ちゃんが空を見上げて、叫んだ。
「あ、満月! きれい!」
つられてぼくも空を見上げた。
「ほんとだ」
「ほんとやね」
ぼくたちは月を見ながら、帰った。
家に帰ると、母さんがちょうどお風呂から出たところだった。
玄関から家に入るぼくと姉ちゃんを見て、母さんが目を丸くした。
「どこ行ってたのよ、ふたりそろって?」
やばい。言い訳を何も考えてなかった。
ぼくが焦っていると、姉ちゃんがいった。
「あのね、お月さまがあんまりきれいだから、拓斗を誘って、庭で見てたの。母さんも見てみなよ。すごくきれいだから」
姉ちゃんがそういうと、
「そんなにきれいなの? どれどれ」
と、母さんが玄関を出て、月を見にいった。
「ほんとだ。きれいねえ」
母さんの声を遠くに聞きながら、ぼくたちは二階に上がった。
「姉ちゃん、悩みが解決してよかったね」
「カスミちゃんのおかげだよ。でも、カスミちゃんってさ、若いとき、絶対スケバンだったよね!」
姉ちゃんが笑った。
「ぼくもそう思った」
ぼくたちは笑いあいながら、元スケバンのカスミちゃんがカスミ荘に来てくれて、本当によかったと思った。
次の日、姉ちゃんが学校に行くと、K子は姉ちゃんを避けていたという。
遠くから姉ちゃんを見て、M子と何か話していたけど、姉ちゃんと目が合ったら、K子のほうから目をそらしたらしい。
カスミちゃんの脅しの効き目は、絶大だったようだ。
3.マユカちゃんの恋
仕事で海外に行っていた愛子姉ちゃんが、久しぶりにカスミ荘に帰ってきた。
その日は土曜日で、父さんは取材、姉ちゃんは部活で出かけていて、ぼくもそろそろサッカーの練習に行こうかなというときだった。
「ただいまー。お久しぶりでーす」
玄関にあらわれた愛子姉ちゃんを見て、母さんとぼくはびっくりした。きょう帰ってくるって知らなかったからだ。
「まあ、愛子ちゃん、おかえりなさい。帰ってくるの、もう少しあとかと思ってたけど」
「そうなの。仕事が予定より早く終わったから、さっさと帰ってきちゃった。あら、拓ちゃん、ちょっと見ない間に大きくなって。前はこんなにちっちゃかったのに」
愛子姉ちゃんはぼくを見ながら、自分の手をひざにあてた。
「ぼく、もう五年生だよ」
不満げに抗議すると、愛子姉ちゃんは心底おどろいたようだった。
「えーっ、拓ちゃん、もう五年生なの? そりゃ私も年を取るはずだわ」
カメラマンっぽい大きなサングラスを頭にあげたまま、愛子姉ちゃんが肩をすくめた。
「これ、ブラジルのおみやげ。今回は南米をずっと回ってたのよ」
愛子姉ちゃんが大きな紙袋を母さんに渡した。愛子姉ちゃんはフリーのカメラマンで、今回は南米の国々を回って、旅行雑誌に載せる写真なんかを撮っていたらしい。
「こんなにたくさんもらっちゃっていいの?」
母さんが袋の中をのぞきこんでいる。
「いいのよ。もうしばらくは南米には行かないから、たくさん買ってきちゃった。コーヒー、市之助さん、好きだったわよね? それから、プロポリスはのどにスプレーするやつ。日本で買うと高いんだって。それから、フェイジョアーダはブラジルで人気の豆料理なんだけど、レトルトだから、あっためるだけで食べられるし、ポップコーンもレンジでチンするだけだから、拓ちゃんでも作れるよ」
「へえ、ポップコーン、作ってみたいな」
ぼくがその気になってると、
「サッカーから帰ってきてからね」
と、母さんにいわれてしまった。
「ポップコーン、多すぎるかもしれないから、余ったらカスミ荘の人たちにあげてね」
愛子姉ちゃんのことばに、母さんがにっこりうなずいた。
「そうね。余ったら、なんていってると、拓斗がぜんぶ食べちゃうといけないから、先に持っていったほうがいいわね。拓斗、あんた、サッカー行く前にマユカちゃんとカスミちゃんにこれ持っていって」
母さんがポップコーンを二つずつ、ビニール袋に入れて、ぼくに渡した。
「わかった」
ぼくはその袋を持って、勝手口からカスミ荘に行った。
まず三号室のカスミちゃんの部屋だ。だけど、何回ブザーを鳴らしても、カスミちゃんは出てこない。仕事でいないのか、寝ていて気がつかないのか……。
仕方がないから、ポップコーンはドアノブにかけておくことにした。
次は、となりの四号室のマユカちゃんだ。マユカちゃんはめったに出かけないから、部屋にいる可能性が高い。でも、ぼくは、あんまり会いたくないと思った。だって、マユカちゃんはすごい不愛想だし、まともに話をしたこともないのだ。
マユカちゃんはもともと、自分でカスミ荘に住むことを決めたわけじゃない。マユカちゃんのお父さんが、二十歳になった娘を自立させようとして、知り合いだった父さんにたのんで、カスミ荘に送り込んできたのだ。
だけど、それは失敗だったと思う。だって、マユカちゃんは三年たった今も、自分で買い物に行かないで、お母さんに食べ物をとどけてもらってるんだから。
ブー。
とびらについてるブザーが大きい音をたてたけど、マユカちゃんは出てこない。
居留守してるのかな。二度目のブザーを押そうとして、ぼくはやめた。ポップコーンはカスミちゃんと同じようにドアノブにかけておけばいいと思ったからだ。
それで、ぼくがドアのところでガサガサしていたら、ギーッと音がして、とびらが開いた。
あっ……。
中から顔を出したマユカちゃんを見て、びっくりした。マユカちゃんといえば、太ってて髪の毛がボサボサのイメージだったのに、目の前のマユカちゃんは少しやせて、髪の毛も短くなっている。初めて顔をちゃんと見た気がする。前のイメージがひどすぎたせいか、少しかわいく見えた。
そんなマユカちゃんが、ぼくを見て、ん? という顔をした。明らかにとまどっている。
ぼくが四号室に来るのは初めてだから、とまどうのも当然かもしれない。
「えーと、これ、一号室の愛子姉ちゃんのおみやげのポップコーン、たくさんもらったからおすそわけ。これ、電子レンジで作れるらしいです」
ぼくがビニール袋を差し出すと、マユカちゃんがこまり顔で袋を受けとった。
「どうも」
初めて聞くマユカちゃんの声だ。
ぼくは家にもどりながら、興奮していた。
マユカちゃんとしゃべっちゃった。しかも、マユカちゃんはすごいイメージチェンジをしていた。マユカちゃん、何かあったのかな?
母さんにそのことを話したかったけど、リビングにもどって時計を見たら、もうサッカーに出かけないといけない時間だった。
「やばい。もう行かなきゃ。えーと、マユカちゃんにはわたせたけど、カスミちゃんはいなかったからドアノブにかけておいたよ。それじゃサッカー行ってくる。愛子姉ちゃん、またね」
それだけいって出かけようとすると、愛子姉ちゃんが、
「拓ちゃん、サッカーがんばってねー」
と、思いっきり手をふった。
それから二、三日たって、ぼくが学校から帰ってくると、庭で母さんとマユカちゃんのお母さんが立ち話をしていた。
マユカちゃんのお母さんは、マユカちゃんにとどけ物をして、帰るところらしい。
母さんの甲高い声が聞こえた。
「まあマユカちゃんが? それはすごくいいことじゃないですか! ご主人も喜んでいらっしゃるでしょう?」
「ええ、まあ。でも、これからどうなるかわかりませんからねえ。ただ、マユカが少しでも外に目を向けるようになったことはよかったと、主人と話しているんです」
「マユカちゃん、うまくいくといいですねえ」
「ええ、本当に。それでは、私はそろそろ」
「はい、お気をつけて」
門に向かうマユカちゃんのお母さんに、ぼくは軽くおじぎをして、母さんよりひと足早く玄関に入った。
マユカちゃんが外に目を向けるようになったって、どういうことだろう? あのイメチェンと関係あるのかな?
ぼくが玄関で待っていると、すぐに母さんが入ってきた。
「ねえ、マユカちゃんのお母さんと何話してたの?」
「ああ、今の話、聞こえた? 実はね……」
母さんがニコニコしながら、ぼくといっしょに家にあがった。リビングに行くと、父さんがソファーに寝ころんで本を読んでいる。
「あ、父さん、ただいまー」
「おう、拓斗か。おかえり」
すると、母さんも父さんがリビングにいたのを知らなかったらしく、
「あら、お父さん、休憩ですか?」
なんて、たずねた。
「ああ。きょうはなんだか行きづまっててね、筆が先に進まないんだよ。気分転換にコーヒーでも飲もうかと思って」
「それじゃ、この前愛ちゃんからもらったブラジルのコーヒーをいれましょうか?」
「それはいいねえ。たのむよ」
母さんがコーヒーをいれにキッチンに向かったので、ぼくはあわてて母さんを追いかけた。
「ねえねえ、マユカちゃんのお母さんの話、なんだったの?」
動物園のゴリラみたいだったマユカちゃんが、外の世界に出ようとしているらしい。マユカちゃん、なんで急にそんな気になったんだろう。
「ああ、その話だったわね。マユカちゃんね、好きな人ができたらしいのよ」
母さんがサラッといった、顔は笑ってるけど、手はポットでお湯を沸かす準備をしている。
「えーっ、マユカちゃん、好きな人ができたのー?」
ぼくは超びっくりして大きな声を出してしまった。
母さんが、カスミ荘に近い勝手口のほうを見て「しーっ」と人差し指を口の前にあてた。
ぼくは声を小さくしてつづけた。
「でもさ、マユカちゃんに好きな人ができるなんて、超ビッグニュースじゃない?」
「ほんとね。でも、マユカちゃんはまだ片思いみたいよ」
「そうか。相手ってどんな人なんだろう? 母さんの知ってる人?」
「知らないけど、見かけたことはあるかもしれないわね。そこのコンビニで働いてる人らしいから」
「あそこのコンビニで?」
「そうみたい」
あそこのコンビニなら、何度も入ったことがある。
ぼくが行ったときも、マユカちゃんの好きな人はお店にいたのかな?
その後、母さんはコーヒーをいれながら、マユカちゃんのお母さんから仕入れた情報を教えてくれた。
マユカちゃんは最近、コンビニで働いている男の人に恋をしたらしい。
今までは何にも興味がなく、ほとんど外に出かけることもなかったマユカちゃんだったけど、好きな人ができてからは、お母さんに食料をとどけてもらうのを減らして、自分でまめにコンビニに通っているという。
それだけじゃない。
美容院に行ったり、服を買ったり、おしゃれにも気をつかうようになったというのだ。
そんなマユカちゃんを見て、マユカちゃんのお母さんは、娘の変化を喜びながらも、娘のしたい放題にさせてていいのだろうかと心配になったそうだ。
それで、マユカちゃんにいったという。
「マユカももう二十三才なんだから、おしゃれしたいなら、自分でアルバイトしたお金でしなさいよ。コンビニの彼だって働いているんだから、マユカも働いてみたら?」
お母さんからそういわれたマユカちゃんは、少し考えてから、こう答えたそうだ。
「わかった。あたしもあのコンビニでアルバイトする」
これはマユカちゃんにとってはすごい進歩だ。
だけど、マユカちゃんは小学生のときに不登校になって以来、中学もほとんど行かず、高校は通信制の高校を五年かけて卒業したという。
だからマユカちゃんのお母さんは、今まで、他人を避けて生きてきたマユカちゃんが、コンビニの店員など務まるわけがないと心配しているらしい。
たしかに、コンビニの仕事は、お客さんに「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」というのはもちろんだけど、「お弁当を温めますか?」とか「お会計は〇〇円です」とか、しゃべることが多い。それに、覚えなきゃいけないことがたくさんありそうだ。
それでも、マユカちゃんがそこのコンビニにアルバイトの面接に行ってみると、「どの時間でも働けます」というのが気に入られたのか、採用してもらえることになったという。
「ふうん、あのマユカちゃんがアルバイトか―。この前、愛子姉ちゃんのおみやげを持っていったとき、ちょっとやせて髪の毛も切ってたから、なんかあったのかなあと思ってたんだけど」
「そうそう、母さんも最近マユカちゃん変わったなと思ってたのよね」
「でも、まさか、マユカちゃんに好きな人ができたなんて思わなかったよね。これ、町内のビッグニュースじゃない?」
ぼくがいうと、母さんは父さんのマグカップにコーヒーを注ぎながら、
「でも、拓斗、このことはだれにもいっちゃダメよ」
と、ぼくをにらんだ。他人の恋の邪魔をしたらバチが当たる、と母さんはいう。
「でも、姉ちゃんには話してもいいでしょ?」
「そうね、でも彩音にも口止めしておいてよ。こういうことは、どこから秘密がもれるかわからないんだから」
「うん、わかった」
ぼくはそう約束して、二階にあがった。
マユカちゃんに好きな人ができるなんて思わなかった。それに、あのマユカちゃんがコンビニで働こうとしてるなんて、信じられない。
人って、変われるみたいだ。
その日の夕方、部活から帰った姉ちゃんにマユカちゃんのことを話したら、予想通り、姉ちゃんが目を丸くした。
「……マジで?」
「そりゃあ、びっくりするよね?」
「だって、マユカちゃんって、ゴリラみたいだったでしょ? あのマユカちゃんが、まさか恋愛とかコンビニでバイトとか、ありえないんだけど」
「でも、最近マユカちゃん、ちょっとかわいくなったんだよ」
「だから、それが想像できないんだってば!」
姉ちゃんが、ますます信じられないって顔をした。
「あした、学校帰りにあそこのコンビニ、のぞいてみようかな」
「ぼくも偵察に行こうと思ってる。マユカちゃんの好きな人、どんな人かな?」
「気になる~。でも、相手がどんな人だとしても、好きな人がいるっていうところに、あたしはあこがれるなあ。ああ、あたしも恋がした~い」
姉ちゃんが夢見るように、胸の前で両手を組んだ。今現在、姉ちゃんには好きな人はいないらしい。
つぎの日から、コンビニの前を通るたびに、中をのぞくのがクセになった。
店では何人かの人が働いているけど、人目をひくようなイケメンがいるのかどうか、外からじゃわからない。マユカちゃんの姿も見えない。
中に入ってみたいけど、買い物したいものがあるわけじゃないから、入りにくい。
家に帰って、母さんに「コンビニで買ってくるもの、ない?」と聞いても、「ないわね」という冷たい答えが返ってきてしまう。
そんなある日、姉ちゃんが学校帰りにコンビニに寄ったという。きょう発売のファッション雑誌を買ってきたらしい。
「どうだった? それらしい人、いた?」
勢いこんで聞くと、姉ちゃんが首をふった。
「全然。男の人は、店長さんと二十代ぐらいの人がいたけど、どっちもさえない感じだったよ。でも、マユカちゃんはいたよ」
「えっ、マユカちゃん、ちゃんと働いてた?」
「う~ん、ちょっとあやしい感じだったな。店長さんにキレられてたし……」
「店長さんにキレられてた……?」
「うん。あたしが並んだレジは若い男の人だったんだけど、となりのレジにマユカちゃんと店長さんがいたの。最初それがマユカちゃんだってわからなかったんだ。ほんとマユカちゃん、ちょっとかわいくなってたからさ」
姉ちゃんはそういって笑ったあと、話をつづけた。
「それで、お客さんがマユカちゃんに何か支払いの紙を出したみたいで、そしたら、マユカちゃん、店長さんに、『これは?』って聞いたのね。そしたら、店長さんが『このやり方、もう何度も教えたはずだよ。いいかげん覚えてくれないとこまるんだよなあ』って、まわりに聞こえるような大きな声でいったんだよ。マユカちゃん、ちょっとかわいそうだった」
「そっか」
マユカちゃんが店長さんに注意されているところを想像して、ぼくまで気持ちが暗くなった。
マユカちゃんは勇気を出してコンビニのアルバイトを始めたのに、これが失敗したら、自信をなくして、もう二度と外には出なくなってしまうかもしれない。
マユカちゃん、メンタル大丈夫かなあ。
それからしばらくして……。
ぼくが学校から帰ってくるとちゅう、コンビニの前でカスミちゃんとばったり会った。カスミちゃんは今からコンビニに入ろうとしていた。
「ああ、拓ちゃん、おかえり」
「カスミちゃん、きょうは仕事休み?」
「そうや。週に一度の休日や。タバコ切らしたよってな、買いにきたところや」
やっとコンビニに入るチャンスが来た。ぼくはカスミちゃんにいった。
「ぼくもついてっていい?」
「ええけど、給料日前やから、なんも買うてあげられへんよ」
「そんなこと全然いいよ。ちょっと見たいものがあるんだ」
「ほな、いっしょに行こか」
カスミちゃんとぼくが店に入ろうとしたとき、コンビニの制服を着たマユカちゃんが店の裏手から掃除道具をもって出てきた。
「あ、マユカちゃん……」
「…………」
声をかけたけど、マユカちゃんは知らん顔をして、お店の前の掃除をはじめた。
店に入ると、カスミちゃんが小声でぼくに聞いた。
「あの子、カスミ荘のあたしの部屋のとなりに住んどる子やんな?」
「うん。マユカちゃんっていうんだけど、あんまり会ったことないかもね。ずっと家の中にこもってるみたいだから」
部屋がとなりでも、部屋から出ないマユカちゃんとカスミちゃんは顔を合わせることはないのかもしれないと思っていると……。
「ううん。ときどきベランダでタバコ吸ってるときに顔合わすことはあったんよ。一個もしゃべったことはないねんけどな。で、最近は、ここでよう顔合わすようになって。けど、あの子、いっつもあたしのこと、にらんでくんねん。なんでやろな」
カスミちゃんがそういって笑った。
マユカちゃんがカスミちゃんをきらう理由を考えてみたけど、ぼくには何も思いつかない。
首をかしげていると、カスミちゃんがぼくの腕をつかんで、耳元でささやいた。
「マユカちゃん、あたしの美貌に嫉妬してるのかもしれんな」
真顔でそんなことをいったから、本気でいってるのかと思ったけど、「ハハハ」と笑ったから冗談だってわかった。
カスミちゃんは店内をうろうろせず、まっすぐレジのところに行った。
すると、二十代のメガネをかけたまじめそうな男の人がニコニコしながらカスミちゃんに声をかけた。
「いつもありがとうございます。これですよね?」
緑色のパッケージのタバコを一個取って、カスミちゃんに見せている。
「そうや。覚えててくれておおきにな。山ちゃんがレジにおると、ゆう手間が省けてめっちゃ助かるわ」
山ちゃんと呼ばれた店員さんが、タバコのバーコードをピッと読みとった。名札を見ると、「山崎」と書いてある。それで山ちゃんなんだ。
「カスミさん、きょうはお仕事、休みなんですか?」
山ちゃんがカスミちゃんにたずねた。ふたりは親しそうだ。カスミちゃんは人なつっこいから、店員さんと仲よしになっても、全然ふしぎじゃない。
タバコのお金をはらいながら、カスミちゃんが答えた。
「休みなんよ。そういえば、山ちゃん、勉強のほうは、どないなん? がんばってるんやろ?」
「はい、がんばってます。来年こそは合格したいんで」
「その意気込みならだいじょぶや。がんばりや!」
「はいっ。これ、おつりです。ありがとうございました」
ふたりのやりとりを聞きながら、ぼくは、マユカちゃんが好きだという店員さんはどの人だろうと周りをきょろきょろした。まさかこの山ちゃんではないだろうと思ったからだ。
山ちゃんにはわるいけど、山ちゃんって、メガネをかけてることぐらいしか特徴がなくて、全然オーラがない。姉ちゃんが「さえない」といってた店員というのも、山ちゃんのことかもしれない。
ほかの店員はいないのかな、とぼくが入り口付近に目をやったときだった。
心臓が止まるかと思った。だって、店の外からマユカちゃんがカスミちゃんをにらんでいたからだ。
「山ちゃん、ほな、またな」
カスミちゃんは愛想よくそういってから、ぼくを見た。
「拓ちゃん、なんか見たいもんあったんやろ? 早よ見てきぃな」
「え、あ、もういいんだ。もう見たから」
「そうなん?」
カスミちゃんはけげんそうな顔をしたけど、「ほな、帰ろか」と笑顔になって、ぼくと店を出た。
そのとき、マユカちゃんは、掃除に熱中しているのか、ぼくたちに背を向けていた。
だけど、さっきぼくは見てしまったのだ、店のガラス越しにマユカちゃんがカスミちゃんをにらんでいたのを。
なんでにらんでたんだろうと考えながら、カスミちゃんと歩いていたら、コンビニの自動ドアが開いて、山ちゃんの明るい声がした。
「カスミさーん、これ、忘れ物でーす」
ふりかえると、山ちゃんが笑いながら、タバコを持って追いかけてくるところだった。
なんとカスミちゃんはタバコを買いに来てお金もはらったのに、レジ台の上にタバコを置き忘れてきてしまったらしい。
「あちゃー、あたしとしたことが……。山ちゃん、おおきにな。今度お給料入ったら、お礼するよって。奮発して、タバコ二個買うたるわ。待っててな」
「ハハハ、一個でいいですよ。二個買ってもらっても、ぼくの時給は変わりませんから」
山ちゃんが楽しそうに笑っている。
そのときだ。その山ちゃんのうしろのほうから、マユカちゃんがまたカスミちゃんを刺すような目つきで見ていた。
あれっ、これは、どういう……? あ、もしかして、そういうこと……?
ぼくは気づいてしまった。でも、念のために、山ちゃんが店にもどっていくところを目で追ってみた。
すると、やっぱりマユカちゃんも同じように山ちゃんを目で追っている。
やっぱりそうか! マユカちゃんはきっと山ちゃんが好きなんだ!
どうしてかはわからないけど、きっとそうにちがいない。だから、山ちゃんと仲がいいカスミちゃんをライバルだと思ってるんじゃないだろうか?
カスミちゃんは本当の年より若く見えるけど、中年のおばさんなのに……。
あ、でも、恋愛に年齢は関係ないと、どこかで聞いたことがある。
カスミちゃんと並んで歩きながら、一応聞いてみることにした。
「ねえ、さっきの山ちゃんっていう人、どんな人なの? 仲よさそうだったけど」
何気なくさぐりを入れると、カスミちゃんが話しだした。
「山ちゃんはな、めっちゃ努力家なんやで。司法試験って、拓ちゃん、知っとるかわからんけど」
「知ってるよ。弁護士になる人が受ける試験でしょ?」
「そうや、さすが、拓ちゃんや。弁護士とか、刑事だか検事だかになりたい人が受けるむずかしい試験やねんけどな、ちなみに山ちゃんは裁判官になりたいんやて。それで、アルバイトしながら司法試験の勉強をしてるんよ。もう六回落ちたゆうてたけど、来年は七回目やから、ラッキーセブンで合格するんやないかとあたしは思うねん」
カスミちゃんは自信たっぷりだけど、司法試験にラッキーセブンとかはないと思う。
前にテレビでやってたけど、司法試験に合格するのってめちゃくちゃ大変なんだって。東大を卒業しても合格するとは限らないらしい。
そんなむずかしい試験に、あの山ちゃんが挑戦してるなんて、人は見かけによらないようだ。
「ねえ、カスミちゃんと山ちゃんって、どういう関係なの?」
思いきって聞いてみた。カスミちゃんがマユカちゃんのライバルなのかどうか、知りたかったからだ。
「あたしと山ちゃんの関係? そりゃあただの客と店員の関係やけど、もしかして、あたしら、恋人同士にでも見えたん?」
カスミちゃんが意味ありげにぼくの顔をのぞきこむ。
「ううん、そんな、まさか、全然見えないよー」
あせって否定しながら、カスミちゃんがマユカちゃんのライバルでなかったことに、ぼくはなんだかホッとしていた。
家に帰ると、母さんがぼくを待ってたように話しはじめた。
「ねえねえ拓斗、マユカちゃんのことなんだけどね」
「えっ、マユカちゃん? マユカちゃんがどうかしたの?」
びっくりした。たった今、カスミちゃんと庭で別れるまで、ぼくもマユカちゃんのことを考えていたからだ。
「さっきコンビニに行ったのよ。そしたらマユカちゃん、商品の補充をしてたんだけどね……」
母さんがいうには、マユカちゃんは自分で棚に並べた商品を、何かの拍子に大量に床に落としてしまっていたというのだ。
「それがカップ麺だったからよかったけど、落としたら売り物にならない商品もあるでしょう? だから、マユカちゃん、あの仕事向いてないんじゃないかって心配になっちゃって。彩音もこの前、マユカちゃんが店長さんに怒られているのを見たっていってたし」
母さんがこまり顔でいった。母さんにとっては、マユカちゃんは親戚の子みたいな存在なのかもしれない。
「そっか。マユカちゃん、バイト大変そうだね。コンビニの仕事つづけられるのかなあ。あ、でも、マユカちゃんの好きな人、ぼく、わかったよ」
何気なくいうと、母さんが食いついてきた。
「えっ、ほんと? どんな人?」
ぼくが今見てきたことを全部話すと、母さんは、
「ああ、その人、マユカちゃんが棚から落とした品物を直してくれた人だと思う。ショックで固まってるマユカちゃんに『大丈夫だよ。新人のときはみんな同じ失敗するんだから。ドンマイ、ドンマイ』ってやさしく声をかけてて。あの人、見た目は地味だけど、すごくいい人なのかも。マユカちゃん、案外、人を見る目があったりしてね」
と、マユカちゃんをほめたあと、
「でも、カスミちゃんをライバル視してるなんて、なんだかおかしいわね」
といって、笑った。
だけど、母さんだって、カスミちゃんと父さんが仲よさそうにしてると、キゲンが悪くなることに、自分では気がついてないのかな。
カスミちゃんって、それだけ魅力的ってことなんだろうか。
ぼくにはさっぱりわからないけど。
「マユカちゃんの好きな人がわかったよ。実はね……」
と、姉ちゃんに教えたら、
「えーっ、あのダサい人がそうだったの?」
と、すごくおどろいてたけど、
「でも、カスミちゃんがほめてたってことは、山ちゃんって、すごくいい人なのかもしれないね」
と、しみじみといった。
ぼくたちはマユカちゃんに、カスミちゃんはライバルじゃないことを伝えたかったけど、マユカちゃんとまともにしゃべったこともないのに、いきなりそんな話をするのは気が引ける。
結局、ぼくたちは、
「マユカちゃんの恋、うまくいくといいね」
といって、この話を終わりにした。
4.愛子姉ちゃんのピンチ
それから数日後、学校から帰ると、リビングルームに愛子姉ちゃんがいた。
母さんとお茶を飲みながらおしゃべりしている。
「あら、拓ちゃん、おかえり」
愛子姉ちゃんがにっこり笑った。
「あれ、愛子姉ちゃん、仕事休みなの?」
こんなふうにのんびりしている愛子姉ちゃんを見るなんて、めずらしい。もしかしたら、失業しちゃったのかなと思ってたら、
「愛子ちゃん、しばらく仕事を休んで、日本にいるそうよ」
と、母さんがいった。
「じゃあ、その間はカスミ荘にいるの?」
愛子姉ちゃんは留守がちだから、母さんがときどき一号室の窓を開けて、空気の入れ替えをしている。前に一度、母さんの代わりに窓開けに行ったら、愛子姉ちゃんの部屋は荷物がいっぱいで、まるで倉庫のようだったんだ。だから、あんな部屋に人が住めるのかなと、ぼくはちょっと心配していた。
「ううん。友だちとバイクでツーリングしようと思ってるの。明日は実家に帰って、あさってにはここを出発する予定よ」
「へえ、ツーリングかあ。どこに行くの?」
「信州方面よ。はっきり行き先は決めてないけど、長野でおいしいおそばを食べてくるつもりなの」
愛子姉ちゃんはそういって、「海外じゃ日本のおいしいおそばはなかなか食べられないからね」と付け加えた。
おいしいおそばを食べるために、わざわざ長野まで行くなんて、びっくりだけど、愛子姉ちゃんらしい気もする。
「愛子ちゃんみたいに自由に生きられたらいいわよねえ」
母さんがうらやましそうに愛子姉ちゃんを見ている。
「でも、愛子姉ちゃん、バイクはどうするの?」
愛子姉ちゃんが自分のバイクをもってるという話は、聞いたことがない。
「明日、実家に帰って、兄貴のを借りる予定なのよ。私、二十歳のときに大型二輪の免許を取って、そのあと兄貴のバイクに乗ってたんだけど、兄貴が結婚して、私は実家を出ちゃったから、それ以来、バイクには乗る機会がなくて……」
「えーっ、それじゃ十年以上もブランクがあるじゃないの! 運転、大丈夫なの?」
母さんがおどろいた表情で、体を引いた。
「大丈夫よ。自転車と同じで、一度乗れるようになったら、その感覚は忘れないものよ」
「……ならいいけど」
「大型バイクか……。いいなあ」
わくわくしたように話す愛子姉ちゃんが、ぼくにはまぶしく見える。
ちなみに、愛子姉ちゃんとそのお兄さんは、母さんのいとこに当たる。母さんのお母さん(ぼくのおばあちゃん)の弟が、愛子姉ちゃんたちのお父さんなんだ。
ぼくのおばあちゃんは茨城県の牛久っていうところに住んでるけど、愛子姉ちゃんのお父さんは東京の町田市に住んでいる。横浜のぼくんちからは、電車で三十分ぐらいのところだ。
「そういえば、なんで愛子姉ちゃん、カスミ荘に住んでるの? 近くに実家があるのに」
なぜ、わざわざカスミ荘の部屋を借りているんだろうと、疑問がわいてきた。
「ああ、それはね、十三年前だったかな、兄貴が結婚して、実家に住むことになって……」
愛子姉ちゃんの表情がちょっと沈んだ。
「それで、私は実家を追い出されたのよ」
「えーっ、追い出されたの?」
なんだか、いやなことを思いださせちゃったようだ。
「そうなの。将来結婚しそうもない娘を実家に置いておいたら、まずいと思ったんじゃない?」
愛子姉ちゃんがそういって笑うと、母さんがあわてて訂正した。
「拓斗、愛子ちゃんは追い出されたわけじゃないのよ。愛子ちゃんの実家を二世帯住宅に建て替えるとき、おじさんはちゃんと愛子ちゃんの部屋もつくるつもりだったんだから。だけど、ちょうどその頃、彩音が生まれて、私たちがこの家を買ったタイミングだったから、おじさんに、だれか知っている人でうちのアパートを借りてくれる人がいないか聞いたの。そしたら、愛子ちゃんが住みたいっていってくれて……」
愛子姉ちゃんは、それでカスミ荘の借り主第一号になったらしい。
「なあんだ。びっくりした」
同情して損した。ぼくはホッとして、詰めていた息を大きくはいた。
次の日、ぼくが学校に行ってる間に、愛子姉ちゃんは実家に帰ったようだった。
その愛子姉ちゃんが事故にあって病院に運ばれたという連絡があったのは、その日の夜のことだった。
「えっ、なんですって? 愛子ちゃんが事故? それで、愛子ちゃんは……、愛子ちゃんは大丈夫なの? 意識はあるのよね? で、おじさんとおばさんは? ああ、今、病院に向かってるところ?」
電話は、愛子姉ちゃんの家族からのようだ。緊迫したようすで母さんが大声で聞いている。
夕飯を食べていたぼくたちの手が止まり、電話のやりとりに耳を澄ます。
「……えっ、輸血? 輸血が必要なの? 血液型? 私はA型だけど……。そう、愛子ちゃんはB型なのね? わかったわ。B型の人がいないか聞いてみる。入院したのは、横浜かもめ総合病院? はい、なるべく早く私も向かいます。おじさん、気を強くもってね。きっと大丈夫だから。それじゃあとで」
母さんはそんなことをいって、電話を切った。
「愛子姉ちゃん、事故にあったの?」
「どんな状態なの?」
「意識はあるのか?」
ぼくと姉ちゃんと父さんが同時に質問した。
「なんだか、おじさんもパニクってて、要領をえないんだけど、愛子ちゃん、夕方、バイクで実家を出たあと、事故にあったらしいの。どんな状況だったのか、ケガがどの程度なのかもわかってないみたい。ただ、愛子ちゃん、出血してるらしくて、愛子ちゃんの血液型はB型だから、輸血することになったらどうしようって、心配してた。おじさんのうちは、おばさんがAB型で、あとはみんなA型なんだって。愛子ちゃん、輸血が必要なくらい出血してるのかしら」
「ねえ、うちにB型の人いたっけ?」
みんなを見まわすと、姉ちゃんが絶望的な顔をした。
「いないよ。うちは、父さんも母さんもわたしも拓斗もみんなA型だもん」
「ねえ、母さん、カスミちゃんとマユカちゃんの血液型って、わかる?」
ぼくが聞くと、母さんがかぶりをふった。
「知らないけど、一応聞いてみる?」
「じゃあ、ぼく、聞いてくる!」
「お願い。そのあいだに私は病院に行くしたくをしておくから」
ぼくは勝手口から出てカスミ荘に走っていった。
ブー。
三号室、カスミちゃんの部屋のブザーを鳴らし、とびらをたたいたけど、返事がない。
カスミちゃんは留守のようだ。
つづけて、四号室、マユカちゃんの部屋のブザーを鳴らす。
ブー。
マユカちゃんも出てこない。マユカちゃんもバイトに行ってるのかもしれない。
仕方なくうちにもどろうとすると、門が開く音がして、そのあと庭を歩く足音が聞こえてきた。だれかが帰ってきたようだ。
庭をのぞくと、大きなカバンを肩から下げたカスミちゃんが、カスミ荘のほうへ歩いてくるところだった。ぼくは、せまい庭を全速力で走った。
「カスミちゃん!」
「あれまあ、拓ちゃん、どないしたん? ごっつうあわててからに」
ぼくはカスミちゃんのまん前に立ち、早口で聞いた。
「ねえ、カスミちゃん、血液型、何型?」
「血液型? B型やけど、なんでそんなこと聞くん?」
B型だって? カスミちゃん、サイコーや!
「カスミちゃん、ちょっとうちに来て」
「なんやねん。なんかあったんか?」
カスミちゃんの腕を引っぱって、勝手口に向かいながら説明する。
「あのね、一号室の愛子姉ちゃんがさっきバイクで事故にあっちゃったんだよ。病院に運ばれたんだけど、輸血が必要みたいで、愛子姉ちゃんB型だから、B型の人を探してたんだ」
「そりゃ大変や! あたしの血やったら、いくらでもあげるで!」
頼もしいことをいってくれるカスミちゃんを連れて、勝手口から家に入った。
「B型の人、連れて来たよー」
リビングにいる父さんたちに叫ぶと、みんなの表情がパッと明るくなった。
「おー、カスミちゃん、B型だったのか。ありがとう」
父さんがいうと、出かけるしたくを終えた母さんがカスミちゃんに両手を合わせた。
「カスミちゃん、悪いんだけど、今からタクシーでいっしょに病院に行ってくれる?」
「お安いご用や。あたしの血ィでよかったら、愛子さんのために、どんだけでもつこうてください!」
カスミちゃんがにっこり笑った。
病院には、ぼくも行くことになった。姉ちゃんも行きたそうだったけど、大勢で行くより、まずは三人で行って、状況を父さんと姉ちゃんに伝えることにした。
タクシーの後部座席に、ぼくをまん中にして三人ですわる。
カスミちゃんは体が大きいから、ぼくは二人の間でつぶされそうだったけど、病院までは二十分もかからないだろうと父さんがいってたから、がまんするしかない。
「横浜かもめ総合病院にお願いします」
母さんは運転手さんにそういったあと、携帯で電話をかけ始めた。
「あ、おじさん? 私は今、タクシーで病院向かってるところだけど、おじさんたちは? ああ、今、病院に着いたところなのね?……」
母さんの声を聞きながら、愛子姉ちゃんのことを心配していると、となりでカスミちゃんが突然カバンの中をガサゴソさがしものを始めた。
「カスミちゃん、なにしてるの?」
「献血カード、持ってたかな思て、探してるんや」
カスミちゃんがカバンの中をのぞきこみながら、いう。
「献血カード?」
聞いたことのないことばだ。
「ああ、あった。これや」
カスミちゃんが一枚の赤いカードを出した。運転免許証と同じぐらいの大きさだ。
「これに、あたしの血ィの情報や、献血した記録が入ってんねん」
カスミちゃんが誇らしげにぼくの前にカードを差し出した。
「カスミちゃんって、献血したことあるの?」
びっくりしながらカードを受けとった。赤いカードの表面に「献血カード」と書いてある。ひっくり返してみると、ウラにはいろんな文字が印字してある。
「あるで。献血はわりとしてるほうちゃうかな。世の中のため、だれかのために、何かしたい思たら、献血はだれにでも簡単にできる社会貢献やからね」
カスミちゃんの口から「社会貢献」なんてことばが出てくるとは思わなかった。
ぼくはまだ献血したことがないけど、献血って、注射器で血を取られるらしい。予防注射で針を刺されるのもイヤなのに、注射器で血を抜かれるなんて、考えただけで怖い。
でも、カスミちゃんは何度も献血をしたことがあるらしい。
そのとき、何気なく献血カードのウラを見ていたぼくは、あれっ、と思った。カードに印字されている名前が「カスミ」じゃなかったからだ。でも、「カスミ」は芸名みたいなもので、本名じゃないのかもしれない。だけど……。
「拓ちゃんも、大きィなったら、献血するとええで。自分が輸血が必要になったときにな、このカードもっとると、優先的に輸血してもらえるんやから」
カスミちゃんがないしょ話をするようにささやきながら、ぼくの手からカードを取って、またカバンの中にしまった。
献血をすると献血カードがもらえて、それをもっていると、自分に血が必要になったときには優先的に輸血してもらえるという。それはすごく魅力的な情報みたいだけど、そのために血を抜かれるのはなあ。
すぐに結論を出せそうもない問題なので、このことは、大人になるまでにゆっくり考えよう。
病院に着き、三人で手術室に向かう。夜の病院はろうかを歩く人もいなくて、シーンとしている。
途中、広くて暗い待合室に男の人がひとり、上半身をおりまげるようにしてうなだれていた。母さんも知らない人らしく、ぼくたちは素通りした。きっと、別の患者さんの家族だろう。
手術室の前に行くと、
「あっ、泰子(やすこ)ちゃん」
と、いすにすわっていたおじさんが立ちあがって、母さんの名前を呼んだ。愛子姉ちゃんのお父さんだ。となりのおばさんも立ち上がった。
「おじさん、おばさん、愛子ちゃんは? 手術は、どんなようす? 血は足りそう?」
小走りしながら、母さんが勢い込んで聞くと、おじさんが眉根を寄せた。
「それが、おれたちも、くわしいことが何もわからないんだ」
「泰子ちゃんにも心配かけて、申し訳ないわねえ」
おばさんは、母さんに頭を下げたあと、
「まあ、拓斗君も来てくれたのね。大きくなって……」
と、ぼくにいった。
ぼくがペコッとおじぎをすると、母さんがカスミちゃんを紹介した。
「こちらは、カスミ荘に住んでる垣内カスミさん。カスミさんは血液型がB型だというので、いっしょに来てもらいました」
すると、おじさんがカスミちゃんに、
「あなたは、B型ですか? そりゃあありがたい」
といって、カスミちゃんの手を取って、にぎりしめた。
「あたしの血ィでええなら、一リットルでも二リットルでも愛子さんにあげたってください」
カスミちゃんがいうと、おじさんは目をうるませて、
「ありがとう。カスミさん、あんたはなんていい人なんだ!」
と、カスミちゃんの手をもう一度にぎりしめた。
そのとき、手術室の赤いランプが消えた。
ぼくたちはとびらの前に移動し、息をのんで、とびらが開くのを待った。
少したって、とびらが開いた。
手術着を着たお医者さんと、ストレッチャーに載せられた愛子姉ちゃんがいっしょに出てきた。
「愛子!」「愛子!」「愛子ちゃん!」「愛子さん!」「愛子姉ちゃん!」
いっせいに愛子姉ちゃんの名前を呼んだけど、愛子姉ちゃんはまだ麻酔から覚めてないんじゃ……?
と思ったら、寝そべっていた愛子姉ちゃんがもぞもぞ上半身を起こそうとした。
「あ、ダメですよ、動いたら」
お医者さんに注意されて、愛子姉ちゃんが気まずそうにまた横になった。そのとき、ぼくと目が合った愛子姉ちゃんがペロッと舌を出した。
えっ、愛子姉ちゃん、めっちゃ元気じゃん。
「先生、娘は……、娘は助かるんでしょうか? もし輸血が必要なら、B型の人がここにいるんで……」
おじさんがカスミちゃんの腕をつかんで、お医者さんのほうへ差しだそうとしている。
お医者さんがこまったように苦笑いをした。
「お嬢さんは助かりますよ。左足を骨折しただけですからね。手術もうまくいきましたから、ひと月半ぐらいで元通りになるでしょう。輸血は全く必要ありませんよ」
「は? でも、出血してるって、聞いたんですが……」
「ああ、それは、転んだときに、ちょっと足をすりむいたようですね。血がにじんでいたので、消毒してキズばんそうこうを貼っておきました」
「はあ……、足をすりむいただけ……?」
おじさんはきつねにつままれたような表情をしている。
「お嬢さんは今、局所麻酔をしているので、麻酔が覚めるまで一時間ほど経過観察をして、それから、病室に移ってもらって、ひと月半ほど入院してもらうことになります」
お医者さんは、愛子姉ちゃんとおじさんたちにそう説明したあと、近くにいた看護師さんに、
「とりあえず、処置室でようすを見て、何かあれば呼んでください」
と告げ、また愛子姉ちゃんたちと家族に、
「それでは、お大事に」
といって、去っていった。
「あ、ありがとうございました!」
おばさんがお医者さんの後ろ姿に頭を下げた。
ふたりの看護師さんが愛子姉ちゃんのストレッチャーを押していく。処置室というところに連れていくんだろう。おじさんとぼくたちもストレッチャーの速度に合わせて、ついていく。
「愛子、足を骨折しただけって、本当にそれだけなのか?」
歩きながら、おじさんがたずねると、ストレッチャー上の愛子姉ちゃんが笑った。
「本当よ。これじゃしばらくは歩けないだろうけど、足以外は大丈夫だから」
「大丈夫っていってもなあ。愛子がケガして救急車で病院に運ばれたって、うちに電話してきた人が、ものすごい大ケガしたようにいってたから」
おじさんはまだ信じられないようすだ。
「そういえば、うちに連絡くれた人って、だれだったのかしら? 救急隊の人か病院の人かと思ったんだけど」
おばさんが首をかしげた。
そのとき、愛子姉ちゃんがぼくに目くばせした。そばに行くと、愛子姉ちゃんがこそっといった。
「拓ちゃん、そのへんに三十才ぐらいの男の人、いなかった?」
えっ、なんのこと?
ぼくには、愛子姉ちゃんが何をいってるのかわからなかったけど、カスミちゃんはピンときたみたいだった。
「拓ちゃん、あっこの待合室に、えらい落ちこんどる人がおったやんか。この世の終わりみたいにがっくりしとった人。愛子さんがいってるのんは、あん人ちゃうか?」
ああ、そういえば、そんな感じの男の人がすわってたっけ……。
だけど、あの人、愛子姉ちゃんの知り合いなの? 知り合いだとしても、なんで、病院についてきたんだろう?
わからないことだらけだ。そんなぼくに代わって、カスミちゃんが愛子姉ちゃんにたずねた。
「愛子さん、その人の名前、なんていうんでっか?」
「須々木雄一。たぶん彼が私の実家に電話してくれたんだと思う」
それで、ぼくにも少し事情がわかってきた。
事故にあったとき、愛子姉ちゃんは須々木雄一さんという人といっしょにいたんだ。
愛子姉ちゃんはきのう、「友だちとツーリングに行く」といっていたから、ぼくは勝手に、女の友だちと行くんだと思ってたけど、それは須々木雄一さんのことだったんだ。
「拓ちゃん、その人のとこ、行ってみよ」
カスミちゃんにいわれて、ぼくたちは待合室に向かった。
待合室に着くと、さっきの男の人は、そのままの場所に、そのままの姿勢ですわっていたが、ぼくたちの足音に気づいて、立ち上がった。背が高くて、意外とかっこいい人だ。
「須々木雄一さんでっか?」
カスミちゃんが聞くと、その人はうなずくより先に、
「愛ちゃんは、愛ちゃんは、大丈夫ですか?」
と、カスミちゃんに詰めよった。
「大丈夫やって、お医者さんがいうてはりました。愛子さんは、左足を骨折しただけやったそうです。ひと月半ぐらい入院しないとあかんらしいですけど、ちゃんと元にもどるそうです」
カスミちゃんがそういってニッコリすると、雄一さんは、
「よかったあ!」
と叫びながら、いすにドスンと腰を下ろした。
処置室を探して、雄一さんを連れていくと、愛子姉ちゃんはもう起きあがってベッドの上に腰かけていた。左足に巻かれている包帯が痛々しいけど、表情は元気そうだ。看護師さんはひとりもおらず、愛子姉ちゃんのそばには、おじさんとおばさんと母さんが立っている。
「愛ちゃん!」
雄一さんが愛子姉ちゃんのそばにかけよった。
「ああ、雄一さん、心配かけちゃって、ごめんね」
愛子姉ちゃんが謝ると、
「いや、オレがついてたのに、愛ちゃんをこんな目にあわせちゃって、本当になんて謝ったらいいか……。足は大丈夫? 骨折だけで済んだみたいでよかったけど……」
と、雄一さんがことばを詰まらせた。
「愛子、この人は、いったい、だれなんだ?」
さっきから、雄一さんをうさんくさそうに見ていたおじさんが、しびれを切らしたように、愛子姉ちゃんにたずねた。
「あ、お父さん、紹介が遅れたけど、この人は須々木雄一さんっていって、私と同じくフリーカメラマンをしてる人です。私たち、近いうちに結婚しようと思ってるので、よろしくね」
愛子姉ちゃんがサラッといって頭をさげたけど、突然の「結婚宣言」に、みんなポカンとしている。
きょうはカスミちゃんが献血で「社会貢献」してることがわかったり、愛子姉ちゃんの口から「結婚宣言」が飛びだしたり、びっくりすることばかりだ。
「愛子、そんな大事なことを、こんなときに……。正気なのか?」
おじさんは、愛子姉ちゃんが事故で頭がおかしくなってしまったんじゃないかと疑っているようだ。
そのとき、雄一さんが、おじさんとおばさんの前に進み出た。
「愛ちゃんの、いえ、愛子さんのお父様、お母様、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。須々木雄一と申します。近いうちに結婚のお許しをいただきにお宅に伺うつもりでしたが、愛子さんがこのような事故にあってしまい、こんなところでのご挨拶となって、本当に申し訳ありませんっ」
雄一さんが腰を90度に折り曲げて、おじさんとおばさんにおじぎをしている。
「そんな、急に、結婚のお許しをといわれても……」
しどろもどろになっているおじさんのとなりで、おばさんが口を開いた。
「須々木さん、うちの愛子で本当によろしいんですか? お見受けしたところ、須々木さんのほうがだいぶお若いかと思いますが……」
たしかに、この前、母さんが、愛子姉ちゃんは今年38才だといっていた。雄一さんの年はわからないけど、おばさんがいうとおり、愛子姉ちゃんよりかなり年下に見える。
おばさんにたずねられた雄一さんは、真剣な表情で、答えた。
「もちろんです。年齢のことは気にしていません」
すると、おばさんは一瞬ほほえんでから、きっぱりといった。
「愛子があなたと結婚すると決めたのなら、私たちがあれこれいうことはありません。ねえ、お父さん? 須々木さん、娘をどうかよろしくお願いいたします」
おばさんに相づちを求められたおじさんは、小さくうなずき、雄一さんに深々と頭を下げた。
「わあ、愛子ちゃん、おめでとう!」
処置室に、母さんの声と拍手がとどろいた。
ぼくとカスミちゃんも「おめでとう!」といって、思いっきり拍手をした。
ふたりは幸せそうに顔を見合わせたあと、少しはずかしそうに「ありがとうございます」と、頭を下げた。
病院を出る前に、母さんが父さんに電話をした。愛子姉ちゃんのケガが、足の骨折だけで済んだというと、父さんも姉ちゃんもホッとしたようだった。
帰りのタクシーの中で、母さんがつぶやいた。
「愛子ちゃんのケガがたいしたことなくて、本当によかったわね」
「ほんとだね。でも、事故って、どんな事故だったんだろうね? かんじんの事故のことを聞くのを忘れたよね」
ぼくがいうと、母さんが、
「ああ、それなら、聞いたわよ」
と、軽く答えた。
ぼくとカスミちゃんが雄一さんを呼びに行ってる間に、愛子姉ちゃんから聞いたという。
「愛子ちゃんたちがバイクで走ってたら、うしろからダンプカーが来たんですって。それで、愛子ちゃんはそのダンプをよけようとして左に寄ったところ、寄りすぎてガードレールに突っこんじゃったんですって」
「そうだったのか。愛子姉ちゃん、バイクの運転には自信ありそうだったのにね」
「でも、うしろから来たダンプにひかれなくて、本当によかったわ」
「そうだね」
愛子姉ちゃんといっしょにいた雄一さんはその事故を目のあたりにして、救急車を呼んだりして、パニック状態のまま、愛子姉ちゃんの実家に電話をかけたから、大げさなことになっちゃったのかもしれない。
でも、とにかく、事故の原因がわかって、すっきりした。
後部座席の左端にすわっていた母さんが身を乗り出して、右端のカスミちゃんにいった。
「カスミちゃん、ごめんなさいね。わざわざ病院まで行ってもらったのに、輸血の必要、全然なくて」
母さんが申し訳なさそうに謝ると、カスミちゃんが「なんも、なんも」といいながら、右手を大きく顔の前で左右にふった。
「輸血なんかせんですんで、ほんまよかったですわ。それに、あんな幸せそうな愛子さんと雄一さん見られて、あたしもハッピーやったから、こっちこそ『おおきに』ですわ」
カスミちゃんがそういって、笑顔でおじぎをした。
愛子姉ちゃんのお父さんもいってたけど、カスミちゃんって、ほんとうにいい人だ。
ぼくの心がポッとあったかくなった。
5.あやしい訪問者
それから数日たって、学校から帰ってくると、リビングに見たことのないおじさんがいた。
父さんと向かい合ってソファーにすわってるおじさんは、年は六十才から七十才ぐらいで、かなりやせていて、灰色の長そでポロシャツのボタンをいちばん上まできっちりしめている。すごくまじめそうな感じの人だ。
このおじさんからめんどうな相談でももちかけられたのか、父さんは深刻なふんいきをただよわせている。
「ただいまー」
ぼくが入っていくと、父さんがおじさんに、
「息子の拓斗です」
と、ぼくを紹介した。
「こんにちは」
一応、あいさつすると、おじさんはおどろいたようにぼくを見て、
「ああ、こんにちは、こんにちはー」
と、二度も「こんにちは」をいって、
「あんさんが、清水さんのぼっちゃんかいな。こんにちはー」
と、笑顔でまた「こんにちは」といった。
ぼくもつられて、もう一度「こんにちは」といって、笑った。
「こんにちは」だけで、こんなに盛り上がるなんて、信じられない。
おじさんの笑顔を見ていたら、なんだか、前から知ってる人のような気がした。
でも、会ったのは初めてのはずだ。だれかに似ているのかもしれないけど、だれに似ているのか、わからない。
「さすが、清水さんのぼっちゃん、かしこそうですなあ」
おじさんが感心したようにいうと、父さんが、
「それほどでもないですよ」
と、謙遜した。
すると、おじさんは、そのことばにかぶせるように、もっと強くいった。
「いやいや、お宅のぼっちゃんは、りりしくて、かしこいに決まってますがな」
最後には、「なあ、ぼっちゃん?」と、ぼくに相づちまで求めてきた。
やめてほしい。
ぼくはあいまいに笑いながら、この場を逃げだすことにした。
牛乳を飲もうとして、キッチンに行くと、ちょうど勝手口から母さんが入ってきた。
「あら、拓斗、帰ってたの?」
「うん。ねえ、あのおじさん、だれ?」
リビングのほうに目をやりながら、小声で聞くと、
「カスミちゃんのお父さんだって」
と、母さんがささやいた。
「ああ、だからか……」
ぼくがひとりで納得してたら、母さんがいぶかしそうな顔をした。
「ああ、だからか、って、どういうこと?」
「あのおじさん、だれかに似てるって思ってたんだけど、カスミちゃんに似てたんだ。ナットクしたよ」
「そうね。たしかに、笑ったときの顔が似てるかもね。親子って、不思議よねえ」
母さんがしみじみといった。
「でも、カスミちゃんのお父さんがなんでうちにいるの? カスミちゃん、留守なの?」
何気なく聞くと、母さんが顔をくもらせた。
「カスミちゃん、今、カスミ荘にいるのよ。でも、お父さんには会いたくないんだって」
お父さんに会いたくない? どういうことだろう?
ぼくが首をかしげているうちに、母さんはリビングに行ってしまった。
手持ち無沙汰になったぼくは、リビングのほうを気にしながら、冷蔵庫から牛乳を出した。
そのとき、母さんの声が聞こえてきた。
「カスミちゃんに、お父さまがいらっしゃってることを伝えたんですが、会いたくないの一点張りで、何度来られても、会う気はないから帰ってくれって……。すみません。せっかく来ていただいたのに……」
母さんが申し訳なさそうにいうと、おじさんのがっかりした声が聞こえてきた。
「そうでっか。静雄が……、わたしには会いたくないと……」
シズオ?
カスミちゃんの話だったんじゃないのかなと思ったけど、深刻なふんいきなので、ぼくは牛乳パックを持ったまま、リビングの声に耳をすませた。
すると、また母さんの声がした。
「カスミちゃんとお父さまの間に何があったのかわかりませんが、カスミちゃんの決心は固いみたいです。大阪からわざわざ来てくださったのに、本当にどうしたらいいのか……」
母さんはふたりの間に入ってこまっていた。父さんの声は全然聞こえないけど、父さんもこまりきった顔をしているんだろう。
「いやいや、奥さん、そんな……、顔を上げてください」
おじさんはそういってから、ゆっくり話しはじめた。
「実は、わたしはもう長くないのです」
「は?」「えっ」
父さんと母さんが同時に声を発した。
おじさんが話をつづける。
「今年の春に医者から余命半年といわれましてな、もうすぐその半年がたつところですわ。生きてるうちに静雄に会うんはもうムリやろうとあきらめてたんですが、もう会えんとなると、どうしても会いとうなって、それで探偵やらに静雄の居所を調べてもろたんです。で、こちらに世話になっとることがわかって、恥を忍んでうかがったっちゅうわけですわ」
おじさんの話がとぎれると、父さんの声がした。
「そうだったんですか。ご病気で……。それなら事情はちがいますよ。今度はわたしが静雄さんに話をしてみましょう」
父さんが立ち上がる気配がする。しかも、父さんまでシズオといいはじめた。カスミちゃんはシズオなのか? いったいどうなってるんだろう。
「いや、清水さん、もういいんですわ。静雄が元気でやっとることがわかっただけでも、ここに来てよかった思うとります。あの子の母親は早うに亡くなってしもて、静雄はわたしが男手ひとつで育てたですよ。いっしょけんめい育てたつもりやったけど、あんなふうになってしもて、わたしとぶつかることもしょっちゅうで、あの子も難儀やったろうと思います。わたしがあの子のことをちゃんとわかってやっとれば、あの子が家を飛びだすこともなかった思うと……。こんなことご主人と奥さんにいってもせんないですが……」
おじさんはそういって、ことばをつまらせた。
父さんはカスミちゃんの説得に行くのをやめたみたいだ。重苦しい静けさがリビングに張りつめている。
それにしても、カスミちゃんの本当の名前はシズオだったのか?
そう思ったとき、この前、タクシーの中で見たカスミちゃんの献血カードのことを思いだした。
カードの裏にカタカナで名前が書いてあったんだけど、そういえば、
カキウチ シズオ
と、書いてあったような気がする。
男の人の名前みたいだったから、あれっ、と思ったんだけど、あれがカスミちゃんの本名だったなんて……。
ってことは、カスミちゃんは、男……?
たしかに、声はガラガラ声だし、力も強いけど、でも、ぼくにはカスミちゃんは女の人にしか見えない。
そのカスミちゃんは、自分のお父さんに会いたくないといってるらしい。
だけど、お父さんは病気で、もう長く生きられないらしい。今、会わないまま、お父さんが死んじゃったら、カスミちゃんは後悔しないだろうか?
ぼくは牛乳パックを冷蔵庫にしまい、勝手口にある母さんのサンダルをはいて庭に出た。
カスミ荘の三号室の前に行くと、ちょうどカスミちゃんが仕事に出かけようとして、出てきたところだった。
「ああ、びっくりした。拓ちゃんかいな。おかえり」
カスミちゃんは長い髪の毛をきれいにカールさせて、青いアイシャドウと赤い口紅をつけている。いつものカスミちゃんだ。
「ねえカスミちゃん、お父さんに会ってあげなよ」
ぼくが急にそんなことをいったからか、カスミちゃんは一瞬びっくりした顔をしたけど、だまったまま門のほうに歩きはじめた。
「ねえ、お父さんと何があったか知らないけどさ、お父さんはカスミちゃんにすっごく会いたがってるみたいだよ」
ぼくはカスミちゃんの腕を引っぱった。だけど、カスミちゃんはぼくにかまわず、どんどん前に歩いていく。門の前で、カスミちゃんが急にふりむいた。
「拓ちゃんにはあたしの気持ちはわからないやろうけど、あたしは十五のとき、あの人と大ゲンカして家を出たんよ。そんとき、あいつがなんていいよったか知らんやろ? 『もうお前とは親子の縁を切るさかい、二度とこの家の敷居はまたぐな!』、そういったんやで。今さら会いたいなんて来られても、こまるだけや」
「そんなあ……」
「仕事におくれるさかい、もうかんべんしてや」
カスミちゃんがぼくの腕をふりはらって、門を開けた。
このままでは、カスミちゃんが行ってしまう。ぼくは大声でさけんだ。
「カスミちゃん、待ってよ! カスミちゃんのお父さん、病気なんだって! もうすぐ死んじゃうかもしれないんだよ!」
すると、カスミちゃんの足がピタッと止まった。もしかしたら、お父さんに会う気になってくれたんだろうか。
そう思ったら、カスミちゃんはけげんそうな顔でぼくをふりかえった。
「なんやて? あの人そんなことゆうたん? もうすぐ死んでまうから、その前にあたしに会いたいて? ハハハ、そんなこと聞いて、あたしの気持ちがコロッと変わるとでも思たんやろか。アホくさっ!」
カスミちゃんは捨て台詞をはくようにそういうと、さっさと歩きはじめた。
カスミちゃん……。
ぼくにはカスミちゃんの気持ちを変えることはできなかったみたいだ。無力感でいっぱいになった。
家にもどれば、リビングにいるカスミちゃんのお父さんとまた顔を合わせてしまう。
このままお父さんを大阪に帰らせちゃっていいんだろうか?
そう考えながら、庭をうろうろしていた。
どうも背中が重いと思ったら、まだランドセルを背負ったままだった。
ランドセルをガーデンテーブルの上に置き、ぼくは庭を行ったり来たりしながら考えた。
カスミちゃんの過去はまるでドラマみたいだ。
大ゲンカして家を飛び出してから何十年も会ってなかったお父さんが、カスミちゃんの居所をさがして会いに来たのだ。
お父さんが病気にならなければ、一生カスミちゃんの居所をさがさなかったかもしれない。お父さんは、死ぬ前にどうしてもカスミちゃんに会いたかったんだろう。
カスミちゃんはお父さんのことを許してないみたいだけど、お父さんはカスミちゃんのことをもう怒ってないはずだ。
カスミちゃんもお父さんを許してあげればいいのに……。
そんなことをひとりで考えていたら、門が開く音がした。
カスミちゃんがもどってきたのかと思ったら、姉ちゃんだった。
「あれ、拓斗、そんなとこで何してるの?」
姉ちゃんがぼくを見つけて、不審そうな顔をした。
「姉ちゃんこそ、部活は?」
「きょうは先生たちが研修で出かけるから、一斉下校なんだよ」
「ふうん」
「で、あんたはここで何してたの?」
「何って……。そういえば、姉ちゃんが帰ってくるとき、カスミちゃんに会わなかった?」
「カスミちゃん? 会わなかったけど、なんで?」
姉ちゃんがふしぎそうに、うしろのほうをふりむいた。
「あのさ、実はね、姉ちゃんもびっくりすると思うんだけど……」
ぼくは、さっき知ったばかりのカスミちゃんの秘密を姉ちゃんに話した。
「……だからね、カスミちゃんは、本当はシズオって名前の、男の人だったんだよ」
ぼくのそのことばに、姉ちゃんは目を見開いた。
「…………」
姉ちゃんが絶句している。
マユカちゃんに好きな人ができたと教えたとき以上の衝撃だったらしい。
「びっくりだよねえ」
ぼくがいうと、姉ちゃんが大きくうなずいた。
「アンビリーバブル!」
姉ちゃんがそういいながら、天をあおいだ。
姉ちゃんもぼくと同じく、カスミちゃんは女の人だと思いこんでいたらしい。それがわかって、ちょっと安心した。
姉ちゃんが庭のガーデンチェアに腰をおろした。
「そりゃあ、私もカスミちゃんが二十五才っていうのはウソじゃないかと思ってたけど、まさか男の人だったなんてねえ」
「そうだよね。カスミちゃんって、母さんや姉ちゃんより女らしいところあるし、ぼく、完全にだまされちゃってたよ」
カスミちゃんが男だと思えば、あのダミ声とか、マッサージのときの怪力とか、体は細いのに骨が太いところは、ああ、男の人だったからそうだったのか、と思うけど、今までカスミちゃんはけっこう女の人っぽい人だと思ってたから、フクザツな気持ちだ。父さんはこのことを知ってたんだろうか?
「そのことが、なんでわかったかっていうとね……」
ぼくは姉ちゃんに、カスミちゃんのお父さんがいってたことや、カスミちゃんがお父さんに対して怒っていること、それで、ぼくが、お父さんに会ってあげてとたのんだのに、カスミちゃんはぼくの手をふりはらって仕事に行ってしまったことなどを、簡単に話した。
「カスミちゃん、十五才のときにお父さんと大ゲンカして、家を飛び出してから、今まで一度もお父さんに会ってないんだって」
ぼくがいうと、姉ちゃんが聞きかえした。
「十五のときから今までって、何年ぐらい会ってなかったのかな?」
「何年だろうね。カスミちゃん、二十五才っていってるけど、ぼくは四十才ぐらいじゃないかと思うから……」
ぼくがいうと、姉ちゃんがうなずいた。
「私も四十才はいってると思う。もし四十才とすると、えーっ、二十五年も? 二十五年も、会ってなかったっていうこと?」
お姉ちゃんがすっとんきょうな声をだした。
「しーっ、声が聞こえちゃうよ」
ぼくがリビングのほうを気にすると、
「カスミちゃんのお父さん、まだうちにいるんだっけ?」
と、姉ちゃんが声をひそめた。
「うん。父さんたちと話してる。大阪からわざわざカスミちゃんに会いに来たのに、会わないで帰るなんてかわいそうだよね」
「そうだね。……何かいい方法ないかなあ」
姉ちゃんが真剣に考えだした。
ぼくだって、おじさんには、カスミちゃんと会わせてあげたいと思う。だけど、さっきのカスミちゃんの態度を思いだすと、それは百パーセント無理な気がした。あんなに怒ってるカスミちゃんは、見たことがなかったからだ。
どんな親子ゲンカをしたのかわからないけど、今のカスミちゃんはおじさんを許す気なんて、全くなさそうだ。そんなカスミちゃんを説得することは、だれにもできないんじゃないかと思う。こんな状態で、むりやりおじさんと会わせたって、いいことはないと思うし……。
「会わせてあげられたらいいけど、ぼくたちじゃ無理なんじゃないかなあ」
ぼくが弱気になっていると、姉ちゃんが顔を輝かせた。
「あ、いい方法、思いついた!」
姉ちゃんがニコッとして、右手の親指を立てて見せた。
「ただいまー」
姉ちゃんだけが玄関から家に入り、ぼくは勝手口からそっと家にあがった。
ぼくがリビングに入っていくと、姉ちゃんがちょうどカスミちゃんのお父さんにあいさつを終えたところだった。おじさんが人なつっこい笑顔で父さんにいった。
「ほう、こないべっぴんさんのおじょうちゃんがおったとは……。お宅はりっぱなお子たちがおって安心ですなあ。わたしも静雄がこないりっぱなご家族に世話になっとることがわかって、ほんま安心しました。これからもよろしゅうたのんます。ほな、わたしはこれで帰りますさかい……」
カスミちゃんのお父さんが頭を下げて、立ち上がった。
「垣内さん、せっかく大阪からいらっしゃったんですから、せめてうちで夕飯を食べていってください」
父さんがいうと、母さんも、
「ええ。たいしたおもてなしはできませんけど、カスミちゃんにはうちの子たちもお世話になっているので、日頃のお礼をさせてください」
と、カスミちゃんのお父さんを引きとめた。だけど、おじさんは、
「そんなめっそうもない。突然おじゃまして、おさわがせして、ほんまにすんませんでした。静雄のこと、これからもよろしゅうお願いします」
といって、もう一度深々と頭を下げると、玄関のほうに歩きだした。
父さんと母さんがこまったような顔でそのあとにつづく。
ぼくは父さんの背中にささやいた。
「ねえ父さん、ぼくと姉ちゃんでカスミちゃんのお父さんを駅まで送ってってもいい?」
「ん?」
父さんがふりむいた。なんでだ?って、顔をしている。
「カスミちゃんにお世話になってるから、お礼いいたいし……」
姉ちゃんがいうと、父さんは小さくうなずいた。
「そうだな。それじゃ送っていってあげてくれ」
ぼくと姉ちゃんは、カスミちゃんのお父さんが玄関で靴をはいてる間に、先に家を出て、門を開けてあげた。それから、おじさんにつづいて外に出る。
「駅まで送りますね」
姉ちゃんがいうと、カスミちゃんのお父さんはびっくりしたみたいだったけど、
「ほんまでっか? なんやVIP待遇やな。わし、有名人になった気分や」
と、うれしそうに笑った。カスミちゃんのお父さんは、父さんと母さんの前では「わたし」といってたのに、いつもは「わし」といってるみたいだ。
おじさんと姉ちゃんが前を歩き、ぼくはふたりのうしろを歩く。
「あたしたち、カスミちゃんにはすごくお世話になっていて……、感謝してるんです」
姉ちゃんのことばに、おじさんは空いてる手を大きく左右にふった。
「いらん、いらん、静雄に感謝なんて、めっそうもない。おじょうちゃん、あないアホに感謝なんかせんでええから」
おじさんが心底カスミちゃんをバカにしたように笑ったので、ぼくはムッとした。親は、自分の子どもがほめられたら、少しは謙遜したほうがいいのかもしれないけど、「あないアホ」なんて、いくらなんでもひどすぎる。
そう思っていたら、姉ちゃんが真っ向から反論した。
「カスミちゃんはアホじゃありません! そんなひどいいい方しないでください!」
おじさんが、へっ? って顔で、姉ちゃんを見ている。
「カスミちゃんはすごくいい人です。やさしい人です。おじさんには、カスミちゃんの良さが全然わかってません! そんなのひどすぎますっ!」
姉ちゃんが立ちどまって声をつまらせた。こぶしをにぎりしめ、今にも泣きだしそうな形相だ。
「おじょうちゃん、わしがわるかった……」
おじさんが謝ると、姉ちゃんはその場で突然、うわーん、と泣きだしてしまった。
「こまったのう」
おじさんがまゆ毛を八の字にして、ぼくに助けを求めた。
通りすがりの人たちが、ぼくたちを心配そうに見ている。ここに、もしぼくがいなかったら、おじさんと女子中学生がふたりでもめていると思われて、警察に通報されてしまうかもしれない。
ぼくは姉ちゃんの腕を引っぱった。
「姉ちゃん、みんな見てるから。こんなとこで泣かないでよ」
すると、姉ちゃんは、ひっく、ひっく、泣くのを止めようとしながら、おじさんをにらんだ。
「だって、カスミちゃんがかわいそうなんだもん。アホだなんて、ひどすぎる!」
すると、おじさんは体をちぢめて、両手を合わせた。
「おじょうちゃん、ほんまかんにんやで。静雄のことアホゆうてごめんなあ。アホゆうのんは、うちんとこでは愛情をこめたことばなんや。けど、静雄が十五で家を出てってから何十年も会ってへんのやさかい、使ったらアカンかったかもしれんな」
おじさんがしょんぼりしている。
「えっ、アホって、愛情をこめたことばなんですか?」
姉ちゃんがまじめな顔でたずねた。おどろいて泣きやんでいる。
「そうなんや。うちのアホが、いうのんは、うちのかわいい子ォが、ゆう意味なんや」
「そうだったんですか。私、てっきり悪口だと思って……」
「いやいや、静雄がやさしい子ォっちゅうことはわしもよう知っとるんやけどな、十五のとき、突然『女として生きていきたい』なんてぬかしよって……、わし、それが許せんで、静雄を家から追い出してしもたんや」
おじさんは話しながらゆっくり道の端に歩いていき、ガードレールに体を寄りかからせた。
姉ちゃんとぼくもあとをついていって、おじさんと向かいあうように立つ。
「けど、静雄が出てってしばらくしてからずっと後悔してたんや。つらいのはわしよりも静雄やったのに、それをわかってやれんかった。わしはほんまダメなオヤジや。今さら何いっとんねんって話やけど、わし、静雄に会ったらあんときのこと、ひとこと謝りたかったんや。静雄はわしに二度と会いたくないゆうとるから、わしの願いは叶わんけど、それは自業自得やてわかっとる。けど、きょう清水さんの家族に会えてほんまよかったわ。こんなかわいい子ォたちに、カスミちゃんって呼ばれて仲ようしてもろてることがわかって、わしはうれしかったで。静雄は幸せなやっちゃ。ほんまおおきにな」
カスミちゃんのお父さんがぼくたちに頭を下げた。
「こっちこそありがとうございます」
ぼくと姉ちゃんもおじさんに頭を下げた。
「おじさん……、せっかくカスミちゃんに会うために大阪から来たんだから、カスミちゃんにひと目会いたいですよね?」
姉ちゃんが遠慮がちにたずねると、おじさんは残念そうに首をふった。
「そりゃあわしは会いたいけどな、静雄が会いとうないゆうとるから、ムリにはなあ……」
そういいながら、カスミちゃんのお父さんはガードレールからはなれた。あきらめの気持ちなのか、顔には苦笑いを浮かべている。
お姉ちゃんがぼくに目くばせした。作戦実行の合図だ。
「これからカスミちゃんの職場にいっしょに行ってみませんか? カスミちゃんはこの近くで働いてるので、たぶん、ほんの少しは会えると思います」
姉ちゃんがいうと、おじさんの目が輝いた。
「静雄の職場に? そないなことできるんかいな」
「うん。ぼくたちが案内するから」
ぼくはおじさんの手から荷物を受けとって、歩きだした。
6.親子の再会
カスミちゃんが働いているカラオケボックスは、お店の壁に大きなペンギンの絵が描いてある「カラオケ ペンギン館」というカラオケ屋さんだ。
中に入るのは初めてだったけど、姉ちゃんは友だちと来たことがあるらしく、受付に着くと、
「大人と中学生と小学生ひとりずつ、合計三人で、とりあえず一時間でお願いします。それから飲み物は、ワンドリンクで」
と、注文してくれた。
受付のお兄さんが姉ちゃんにいった。
「ペンギンカードをお作りしましょうか? 会員になると、きょうから割引になりますよ」
「じゃあ会員になります」
姉ちゃんはそくざにそう答え、その後、何か書かされていた。
もらった会員カードを見たら、ペンギンがマイクを持って歌を歌っているイラストがついていた。
「では、208号室にどうぞ」
受付のお兄さんが店内の地図で部屋の場所を教えてくれたあと、姉ちゃんはまわりをきょろきょろしながらお兄さんにたずねた。
「あの……、ここにカスミちゃん、あ、垣内さんっていう人がいると思うんですけど」
「ああ、カスミちゃんね。いますよ。呼んできましょうか?」
お兄さんがほほえんだ。お兄さんの「カスミちゃんね」というときの笑顔を見て、カスミちゃんがこのカラオケボックスのスタッフから愛されているらしいことがわかった。
お兄さんが、今すぐにでもカスミちゃんを呼びに行きそうな勢いだったので、姉ちゃんがあわてて止めた。
「あ、今はいいんです。ただ、あとで208号室にちょっと来てもらうように伝えてもらえますか? 清水彩音と拓斗が来てるっていってもらえればわかると思います」
「わかりました。伝えておきます」
ぼくたちは、それで安心して、208号室に向かった。
さっき庭で姉ちゃんが考えた計画というのは、カスミちゃんのお父さんをカラオケボックスに連れていき、個室に入ってからカスミちゃんを呼ぶということだった。
もし、個室に入る前にふたりを会わせてしまうと、カスミちゃんが逃げだしてしまうかもしれないし、親子ゲンカが始まってしまうかもしれない。
だけど、おじさんがお店のお客さんとして個室に入ったあとなら、いくらカスミちゃんでも、お客さんを勝手に追いだしたりはできないだろうというのが姉ちゃんの考えだった。
でも、姉ちゃんの計画はうまくいくだろうか?
ぼくはドキドキしていた。
208号室に行く途中の部屋は、どこも満室で、中をのぞくと、制服姿の高校生もいる。みんな大声で歌を歌っていて、楽しそうな雰囲気だ。平日の午後だというのに、こんなにたくさんの人がカラオケに来てるのかと、ぼくはびっくりした。
208号室は、細長い小さな部屋だった。入口を入ってすぐの壁に大きなテレビ画面がある。その前で立って歌える小さなスペースがあって、あとは四人掛けのテーブルがあるだけだ。
姉ちゃんが部屋にあったドリンクメニューを、カスミちゃんのお父さんに見せた。
「ドリンク、何にしますか?」
「そやなあ。ほな、ビールをお願いできますやろか。ビールでも飲まんと静雄には会えんような気ィがするよってな。ハッハッハ」
ぼくはカルピス、姉ちゃんはオレンジジュースを選んで、部屋のインターホンからドリンクの注文をした。
「じゃあ、カスミちゃんが来るまで、拓斗、なんか歌う?」
曲選びに使うタッチパネルを、姉ちゃんがぼくにわたそうとした。
「えっ、ぼくはいいよ。姉ちゃん、歌えば?」
ぼくはそれを押しもどした。
実は、ぼくは歌はちょっと苦手なのだ。合唱ならともかく、ひとりで歌うのは自信がない。
すると、カスミちゃんのお父さんが、えんりょがちに手を出した。
「ほな、景気づけに、わしが一曲歌いまひょか」
おじさんはタッチパネルを受けとって、慣れた手つきで操作しはじめた。
姉ちゃんが急いでマイクを取ってきてわたすと、「おおきに」とおじさんはマイクを受けとり、イスから立ちあがった。
前奏が流れると、おじさんがまるで本物の歌手のように体でリズムをとりはじめた。
あ、これ、聞いたことがある曲だと思ったら、歌が始まった。
♪ は~るばる来たぜ~ は~こだて~
さ~かまく~波を 乗~り越えて~ ♪
気持ちよさそうにおじさんが歌っている。手でふりなんかつけちゃって、体をゆらしたりして、完全に歌手になりきっている。
歌がうまいかといえば、そうでもないんだけど、自信をもって歌ってるからか、「味」のようなものがある。
姉ちゃんとぼくはちょっと圧倒されていた。
カラオケに来たことがないぼくは、ふつうのおじさんが歌手みたいに歌うのを初めて間近で見て、カルチャーショックを受けた。
一番の歌詞が終わって間奏に入ると、おじさんはすぐにタッチパネルを操作して、二曲目を入れた。
おじさんがすごくイキイキしている。カラオケでマイクを持つと放さない人がいるって聞いたことがあるけど、カスミちゃんのお父さんもきっとそのタイプだ。
一曲目が終わって、少しホッとしていたら、すぐに二曲目の前奏が始まった。
今度も演歌みたいだけど、ぼくの知らない歌だ。
おじさんが大きく首をふりながら歌いだした。
♪ きっと帰ってくるんだと お岩木山で手をふれば
あの娘は小さくうなずいた
茜の空で誓った恋を 東京ぐらしで忘れたか
帰ってこいよ 帰ってこいよ 帰ってこ~いよ~ ♪
マイクをもちあげ、上を向いて、おじさんがこの曲のサビらしい部分を高らかに歌い上げたとき……、部屋のとびらが開いた。
三人がいっせいに注目すると、カスミちゃんがドリンク類をのせたお盆をもって入ってくるところだった。
カスミちゃん……。
「…………」
カスミちゃんの顔に、緊張が走った。お父さんに気づいたのだ。カスミちゃんにいつもの人なつっこい笑顔はなく、能面みたいに無表情になっている。
カスミちゃんのお父さんも歌うのをぴたりとやめて、カスミちゃんをジッと見ている。
時が止まったように、おじさんの体が固まった。
ただ、曲だけが流れつづけていた。三味線の音が、この場にはそぐわないほど明るくひびいている。
カスミちゃんはかたい表情でテーブルに飲み物を置き、マニュアル通りに、
「ドリンクをお持ちしました。ごゆっくりどうぞ」
というと、ぼくたちと目を合わさないで、去っていこうとした。
カスミちゃんを呼びとめなきゃと思う気持ちと、ムリにそんなことをしたらカスミちゃんを傷つけてしまうことになるんじゃないかと思う気持ちがせめぎあって、ぼくは動けなかった。
姉ちゃんが小声で、
「カスミちゃん、待って」
といったけど、カスミちゃんはふりかえらない。
ぼくたちの作戦は失敗だったのかもしれない、とあきらめかけたとき、
「静雄……」
と、カスミちゃんのお父さんがカスミちゃんを呼んだ。
その声には、お父さんのカスミちゃんに対する思いがつまっていて、ぼくにはもの哀しく聞こえた。
すると、カスミちゃんの体がピクッと動いて、とびらにかけた手が止まった。
「静雄、ちょっとだけわしに時間をくれないか? わしを許さんでもええから、ちょっとだけわしの話を聞いてくれ」
おじさんが懇願すると、カスミちゃんは迷ってるのか、とびらを半分開けたまま、足を止めた。
今だ!
ぼくと姉ちゃんは、その瞬間、カスミちゃんの体を引っぱって部屋の中に入れ、とびらを閉めた。
すると、カスミちゃんが突然、お父さんに向かって、怒鳴りはじめた。
「なんやの? 今ごろ、のこのこあたしに会いたいなんてゆうて、あたしの前に出てきたりして……。三十年もほったらかしてたくせに、今になって親のふりなんかせんといてぇや!」
カスミちゃんがすごい顔でお父さんをにらんでいる。
カスミちゃんに怒鳴られたお父さんは、何を思ったか、テーブルの上のビールのグラスを手に取って、ビールを一気に飲みほした。
そして、カスミちゃんの前に進み出ると、ひざを折って床にすわり、両手と頭を床に着けた。
「静雄、ほんまにすまんかった。十五のおまえを家から追い出したあの日からずっと、わしは後悔してたんや。あれから三十年、苦労したやろな。ほんまにすまんかった。なんぼ謝ったからかて、わしのこと許されへんやろけど、わしの気持ちだけは静雄に伝えておきたかったんや。静雄、ほんまにすまんかった」
お父さんに突然土下座され、「すまんかった」を連発されたカスミちゃんは、ものすごくおどろいたようだ。
ことばをなくして、お父さんを見おろしている。
おじさんが顔を上げ、晴れ晴れとした顔で立ちあがった。
「わしな、おまえがどこかでのたれ死んでしもたんやないかて心配やったんや。けど、おまえが元気でおることがわかって、清水さんみたいなりっぱなお人に世話になっとることがわかって、ほんま安心したで。もう会いに来ることもないよって、安心してくれ。静雄、たっしゃでな」
カスミちゃんのお父さんはそういってさみしく笑うと、帰りじたくを始めた。
「おじょうちゃん、ぼっちゃん、ほんまおおきにな。あんたらのおかげで静雄に謝ることができて、わし、これでもう思い残すことがのうなったわ。これはカラオケ代とビール代や。ほんまにおおきにな」
おじさんはテーブルの上に千円札を何枚か置くと、とびらに向かって歩きだした。
カスミちゃんの横を通るとき、おじさんはカスミちゃんの背中にそっと触れた。その大きな手には多くのシワが刻まれている。
カスミちゃんはお父さんの手をふりほどこうとはせず、じっとしていた。
そして、お父さんがとびらを開けて出ていくとき、カスミちゃんはお父さんのほうは見ず、下を向いたまま、小声でつぶやいた。
「あんたも、体、大事にしぃや」
お父さんがおどろいたようにふりむき、カスミちゃんを見た。お父さんはカスミちゃんに頭を下げ、顔をあげたときには、目に涙を浮かべていた。
カスミちゃんのお父さんが静かに去っていった。
姉ちゃんがカスミちゃんに走りよった。
「カスミちゃん、追いかけていかなくていいの?」
すると、カスミちゃんは泣き笑いのような顔でぼくたちを見た。
「ええんよ。いいたいことはいえたから、あたしも気が済んだわ。あんたらには、へんなもん見せてしもたな。かんにんな」
カスミちゃんはそういいながら、目に涙をためている。その顔が、さっきのお父さんとダブッて見える。
「さ、あたしは仕事にもどらんと……。カスミ荘の家賃払われへんようになったら、たいへんや」
笑いながら部屋を出ていこうとするカスミちゃんを、ぼくは呼びとめた。
「ねえカスミちゃん、ちょっと聞いてもいい? さっきから気になってるんだけど、カスミちゃん、十五のときに家出して、それから三十年たったの? それなら、カスミちゃんの年って、本当は……?」
大まじめにたずねるぼくに、カスミちゃんはブスッとした顔でふりかえった。
「拓ちゃん、何ゆってんねん。あたしの年は、いつもゆってるやろ。二十……」
「……五才だよねえ」
姉ちゃんが笑いながらことばを引きついだ。そのとたん、カスミちゃんが満面の笑みで姉ちゃんに抱きついた。
「彩ちゃんはほんまええ子やわあ。女心がわかっとるもんな。それに引きかえ、拓ちゃんはあかんわ。拓ちゃん、女の人に年のこと聞いたらきらわれるで。覚えときや」
カスミちゃんがこわい顔でぼくをにらむ。
「わ、わかったよ。カスミちゃんは二十五才です……」
ぼくがいい直すと、カスミちゃんはパッと笑顔になって、今度はぼくに抱きついてきた。
「よーし、合格! 拓ちゃん、大好きやで」
カスミちゃんがぼくをぎゅうっと抱きしめた。
そのとき、ふわっと香水のいいにおいがした。
ぼくは頭の片すみで、本当は四十五才の男の人に抱きしめられてるんだなあと思ったけど、全然イヤじゃなかった。
カスミちゃんが何才だろうと、男だろうと女だろうと、そんなことはどうでもいい。ぼくはカスミちゃんが大好きだ。
家に帰って、父さんと母さんにカラオケペンギン館でカスミちゃんのお父さんがカスミちゃんに会えたことを話すと、ふたりとも、ものすごく喜んでくれた。
「ほう、おまえたちも粋なことをするじゃないか。さすがはおれの子だ」
父さんがそういうと、母さんは、
「どうも帰りが遅いと思ってたら、そういうことだったのね。カスミちゃんのお父さん、カスミちゃんに会えてうれしかったでしょうね。でも、カスミちゃんが男だったなんて、私、もうびっくりしたのなんのって……」
といいながら、目を白黒させた。
「ねえ、父さんはカスミちゃんが男だって、知ってたの?」
気になっていたことを聞いてみると、父さんは笑ってうなずいた。
「まあな。カスミちゃんのスナックで、たまたま大阪から出てきたカスミちゃんの古い知り合いと一緒になったときがあって、そのときに、カスミちゃんの過去を聞いたんだよ」
「そうだったの? それならどうして私にそういってくれなかったの?」
母さんが父さんを責めた。
カスミちゃんが男だと知ってたら、母さんもカスミちゃんに焼きもちを焼いたりしなかったはずだ。
「それは……、カスミちゃんの希望だったんだよ。カスミちゃんは十五のときからずっと、女として生きてきたから、これからも女として生きていきたいっていって、うちの家族やアパートの住人には戸籍上の性についてはいわないでほしいってたのまれたんだ。秘密をかかえて生きるのは楽なことじゃないから、おれはカスミちゃんが望むようにしてやりたかったんだよ」
「ふうん。なんだかお父さんとカスミちゃんふたりだけの秘密みたいで、なっとくいかない気もするけど」
母さんはそういって口をとがらせたけど、そのあとでこういった。
「でも、カスミちゃんが男だとしても、わたしたちはずっとカスミちゃんの味方でいてあげたいわね」
「うん、あたしもそう思う」
「ぼくも」
ぼくたちはそういって、大きくうなずきあった。
それから、何日かたったある日、熊本に住む知り合いの人から、おいしそうなみかんがたくさん送られてきた。
うちだけじゃ食べきれそうもないからと、カスミちゃんとマユカちゃんにもおすそわけすることにした。
最初に、カスミ荘の四号室に持っていくと、すぐにマユカちゃんが出てきた。
これからバイトに行くところなのか、マユカちゃんは、白のコットンシャツにブリーチジーンズをはいて、うっすらお化粧もしていた。体格はまだ少し太めだけど、表情がキリリとしてきたせいか、もうゴリラの面影はない。
十月から始まったマユカちゃんのコンビニアルバイトは、ぼくたちの心配をよそに、十二月になってもちゃんとつづいていた。山ちゃんとその後どうなってるのか気になるけど、そんなことを本人に聞くわけにはいかない。
「みかん、たくさんもらったから、おすそわけだって」
そういって、みかんの袋をわたすと、マユカちゃんがにこやかにいった。
「ありがとう」
えっ、ありがとう?
前にポップコーンをもってきたときは、無表情で「どうも」しかいわなかったのに、マユカちゃん、すごく変わったみたいだ。
ぼくもマユカちゃんにニコッと返してから、となりの三号室に行った。
換気扇から、おいしそうなにおいがしている。何かつくってるのかなと思いながら、ブザーを押すと、カスミちゃんがすぐに出てきた。
「あらま、拓ちゃんやねんかー。ちょうどええとこに来たな。今、タコ焼き焼いてたとこや。拓ちゃんもちょっと食べていきィや。な、えんりょせんでええから」
カスミちゃんはそういうと、ぼくを強引に家の中に引っぱり込んだ。
中に入ると、せまいキッチンのガス台の上に、鉄製のタコ焼き機がのっていて、その丸い穴に、きれいな焼き色のついたタコ焼きができあがっていた。まるでタコ焼き屋さんみたいだ。
「おいしそう」
思わず口に出すと、
「そやろ? カスミちゃんのタコ焼き食べたら、そのへんのタコ焼きはもう食べられへんで」
と、カスミちゃんが笑った。
ぼくは、すすめられるままに、畳の小さいテーブルの上でカスミちゃんと向き合って、アツアツのタコ焼きをごちそうになった。
「あっ、熱っ! ……けど、超うまっ!」
カスミちゃんのタコ焼きは、外側がカリッとしてるのに、中がとろっとろで、ほんとうにおいしい。
大阪の人は一家に一台、タコ焼き機をもっていると聞いたことがあるけど、その話は本当かもしれない。
カスミちゃんは、おいしいタコ焼きをつくるには大きなタコと山芋が絶対必要なんや、と力説したあと、急に声を落とした。
「拓ちゃん、こないだは、おおきにな」
お礼をいわれるようなことをしたかな、と思ったけど、もしかしたら、カスミちゃんのお父さんをカラオケペンギン館に連れていったことをいってるのかもしれない。そう思っていたら、カスミちゃんがつづけた。
「大阪の家を出てから、あたしは父親のことを何十年もずっと憎みつづけてきたんやけど、考えてみれば、あの人もかわいそうな人やったかもしれんね。ひとり息子が、こないけったいな人間になってまったんやから」
カスミちゃんが自虐的に笑った。
「だけど、カスミちゃん、LGBTQの人は、二十人にひとりぐらいはいるって、学校の先生がいってたよ」
カスミちゃんには、自分のことを「けったいな人間」だなんていってほしくない。LGBTQの人がクラスにひとりかふたりいるとしたら、それはきっと、変わった人なんかじゃないはずだ。
「そやね。そのぐらいいるかもわからんけど、まわりの人にいえない人のほうがずっとずっと多いんよ」
と、カスミちゃんがボソッという。
「でも、カスミちゃんはお父さんにいったんでしょ? なんでお父さんに本当のことをいおうと思ったの?」
こんなこと聞いていいのかなと思ったけど、自分がLGBTQだといわない人が多いなら、なぜカスミちゃんはいったのかが気になった。
「それは、拓ちゃん、親の性格にもよる思うねんけどな、あたしのおとんは、男の子はこう、女の子はこうっちゅう固定観念が強かったんやと思う。男の子のランドセルは黒が当たり前で、冬は長ズボン、夏は半ズボンはくのが当たり前で、外で体動かして遊ぶのが当たり前。男の子なら野球とか空手習うのがふつうやゆうて、あたしが全然興味ないのに、勝手に申し込んできて、むりやり野球と空手習いに行かされたんよ。ほんとうは、赤のランドセルがほしかったし、ズボンじゃなくてスカートがはきたかったんや。それに、外で男の子と遊ぶより、女の子と家の中で遊びたかったんよ。習い事も、野球とか空手やなくて、ピアノやバレエを習いたかってん。けど、「そんなん男のやることちゃう』と笑われて終わりや。だから、このままおとんのそばにおったら、ずっとがまんして生きなあかん思て、本当のことをいってもうたんや」
「そうだったんだ」
カスミちゃんのお父さんは、カスミちゃんに、お父さんが思う男の子らしさを押しつけてきたという。それがカスミちゃんを苦しめてるとも知らずに……。
「けど、こないだ、年とったおとんに会うて、思たんや。家を出てから苦労したのはあたしだけやのうて、おとんも苦労してたんやなって」
カスミちゃんがおだやかな顔で笑った。
あの日、ぼくと姉ちゃんは、カスミちゃんのお父さんの願いを叶えるために、むりやりカスミちゃんとお父さんを会わせてしまったから、カスミちゃんは少し怒ってるかもしれないと思ったけど、怒ってないどころか、あのことはカスミちゃんにとっても、よかったらしい。
安心したら、自分が今、カスミちゃんちに何をしに来たかを思いだした。
みかんのおすそわけに来ただけなのに、ずいぶん時間がたってしまった。母さんが心配してるかもしれない。
「カスミちゃん、ごちそうさま。ぼく、帰るよ。このみかん、おすそわけだって」
やっと、みかんをカスミちゃんにわたせた。
「みかんか。うれしなあ。おおきに。ママさんによろしくゆうてや」
カスミちゃんの笑顔に見送られて、ぼくはカスミ荘の三号室をあとにした。
7.カスミ荘のクリスマス
今年もあと少しとなってきた。
バイクで足を骨折して入院していた愛子姉ちゃんは、この前退院して、今は実家からリハビリに通っているという。もうすぐ雄一さんと結婚して、都内で一緒に暮らし始めるという愛子姉ちゃんは、年末までにはカスミ荘の荷物を全部引きはらうという。
「愛子ちゃんがカスミ荘を出ていっちゃったら、さみしくなるわね」
夕飯のとき、母さんがポツリといった。
「そうだよね。愛子姉ちゃんの部屋は、ほとんど荷物置き場だったけど、もう海外のおみやげもらったり、外国の話を聞いたりできなくなるんだね」
姉ちゃんも残念そうだ。
そういえば、姉ちゃんは、K子の恐喝事件のあと、すごく変わったような気がする。母さんのことばにいちいち突っかかることがなくなったし、家族みんなにやさしくなった。反抗期が終わったっていうことなんだろうか。
「愛子姉ちゃん、結婚式やるの?」
ぼくが聞くと、母さんが首を左右にふった。
「結婚式はしないんだって。年が明けたら、愛子ちゃんはまた仕事で海外に行くらしいし。結婚式どころじゃないみたいよ」
母さんは、愛子姉ちゃんの入院中、何度かお見舞いに行ってたから、いろんなことを知っているようだ。
「海外って、どこに行くの?」
今度は姉ちゃんが聞いた。
「フィンランドだって。北欧は寒そうだけどね」
母さんが同情するように顔をしかめた。
「でも、オーロラが見られる時期じゃない? 愛子姉ちゃん、オーロラ見に行くのかなあ」
姉ちゃんは、自分も行きたそうな表情だ。
「さあ。でも、愛子ちゃんがフィンランドに行っている間、雄一さんは日本にいるらしいから、仕事が終わったら、すぐ帰ってくるんじゃない?」
「そっか。新婚さんだもんね」
姉ちゃんが冷やかすように笑うと、それまでだまっていた父さんが口を開いた。
「愛子ちゃんがカスミ荘を出る前に、雄一君もよんで、うちで結婚のお祝いをしてやろうよ」
「そうね! それがいいわね」
母さんが両手を打った。
「ねえ、それなら、カスミちゃんとマユカちゃんも呼ぼうよ」
姉ちゃんがノリノリでいう。
「カスミちゃんはいいと思うけど、マユカちゃんは、カスミちゃんを恋のライバルだと思ってるんだよね? だったら、ふたり一緒に呼ぶのは、まずいんじゃない?」
ぼくが気にしてると、姉ちゃんは一瞬こまった表情をしたけど、思い直したようにこういった。
「でも、ふたりを会わせれば、カスミちゃんと山ちゃんがそういう関係じゃないことをマユカちゃんに伝えるいい機会になると思うけど」
たしかにそうだけど……。
「でも、どうやって、それを証明するの? カスミちゃんは、本当は男なんだって、教えるの? それは絶対できないよ」
カスミちゃんの希望は、戸籍上の性別を人にいわないことだ。カスミちゃんの望みは、絶対に叶えたい。
「もちろん、そんなことをいう必要ないよ。全部、カスミちゃんに任せればいいと思う」
全部、カスミちゃんに任せる?
姉ちゃんは楽観的に考えてるみたいだけど、それでうまくいくのかなあ。
心の中で首をひねっていると、父さんがいった。
「色恋のことはね、他人がとやかく口出ししないほうがいいんだよ」
となりで、母さんもうなずいている。
そうなのかな。ぼくはそれ以上、何もいえなかった。
愛子姉ちゃんと雄一さんの結婚パーティーは、クリスマスの日の午後にやることになった。
ぼくと姉ちゃんは終業式の日だから、昼前には下校する。
カスミちゃんとマユカちゃんの都合がつくかが問題だったけど、ふたりともシフトを他の人に代わってもらえたらしく、パーティーに出席できることになった。
いよいよパーティー当日になった。
十二月とは思えないほどあたたかいので、父さんが突然、パーティーは庭でやろうといいだした。
ぼくと姉ちゃんは、学校から帰ったあと、物置きにしまってあるキャンプ用のテーブルとイスを出したり、リビングに飾っていたクリスマスツリーを庭に出したりして、準備を手伝った。
昼頃には、サンドイッチや巻きずしなど、注文していたものがとどき、母さんがつくった料理も大方できあがった。あとは、庭に運ぶだけだ。
そのとき、玄関のほうから、カスミちゃんのガラガラ声が聞こえた。
「拓ちゃーん、お客さんやでー」
ぼくにお客さん?
だれだろうと思いながら、玄関に行くと、カスミちゃんのとなりに龍平くんが立っていた。
「あれっ、龍平くん、どうしたの?」
「あのぅ……、これ、拓斗くんにクリスマスプレゼント」
龍平くんが、はずかしそうに小さな紙袋を差しだした。
「えっ、ぼくに?」
きょう、学校で会ったときは何もいってなかったのに……。
とまどっていると、カスミちゃんがいった。
「拓ちゃん、早よ、もらってあげな、かわいそうやんか」
ぼくはあわてて、龍平くんから袋を受けとり、「ありがとう」といった。
でも、そのあとがつづかない。
ぼくと龍平くんがだまっていると、カスミちゃんが急に庭のほうをふりかえった。
「拓ちゃん、きょうのパーティー、庭でするん?」
「うん。天気がいいから、庭でしようって父さんが……」
「さっすが先生や。ゆうことがちがうわ。外のパーティーは気持ちええやろな」
カスミちゃんが父さんを讃えた。カスミちゃんはいつもそうやって父さんをほめるけど、父さんはそんなにすごいことをいったんだろうかと、疑問に思ってしまう。
だけど、疑問といえば、もっと大きな疑問が目の前にある。
「ねえ、なんでカスミちゃんと龍平くんがふたりいっしょにいるの?」
すると、カスミちゃんが「ああ、それやねんけどな」といって、龍平くんの肩に手を置いた。
「なんか、この子ォ、あたしと縁があるみたいやねん。きょうは昼からパーティーがあるさかい、仕事を早びけして帰ってきたら、門の前にこの子ォがおるやろ? びっくりしたわ。何しとるん? て聞いたら、拓ちゃんにわたしたいものがあるゆうから、ここに連れてきたんよ」
そうだったのか―。この前、龍平くんが手紙をもってきたとき、その手紙を預かったのもカスミちゃんだった。二度もばったり会うなんて、ふしぎな縁だ。
そんなことを考えていたら、キッチンのほうから、姉ちゃんの声が聞こえてきた。
「拓斗―、お料理運ぶの手伝ってー」
そうだ、パーティーの手伝いをしないといけないんだった。
「今、行くー」
姉ちゃんに返事をしたあと、ぼくはカスミちゃんと龍平くんにいった。
「ごめん、手伝わないといけないから……」
そういって、ぼくはキッチンにもどった。
母さんにたのまれ、ラップのかかった大皿をもって、勝手口から庭に出た。
そのとき、庭をはさんで、玄関から出てきたカスミちゃんと龍平くんと目が合った。
ふたりに気を取られたせいか、ぼくは庭の石につまずいて、バランスをくずしてしまった。
「た、拓ちゃん、あぶなっ!」
カスミちゃんがすごい勢いで走ってきて、落としそうなお皿を下から支えてくれた。
「あ、ありがとう、カスミちゃん」
「お皿、落とさんでよかったなあ」
カスミちゃんがホッとした顔でいった。
「拓ちゃん、ほかにも運ぶもんあるんやろ? あたしも手伝うで」
「いいの?」
「ええもなんも、みんなのパーティーやんか。手伝うのは当たり前や」
カスミちゃんがそういったとき、龍平くんがおずおずと近づいてきた。
「それじゃ、ぼく、帰るね」
「ごめんね。せっかく来てくれたのに」
すると、帰ろうとする龍平くんの腕を、カスミちゃんがつかんだ。
「あんた、龍平くんやったな。龍平くん、こうゆうのんを〈乗りかかった船〉ゆうんやで。あんたも手伝いっ」
「えっ……」
とまどってる龍平くんを連れて、カスミちゃんが勝手口に行った。
「ママさーん、彩ちゃーん、この子ォ、拓ちゃんの友だちで龍平くんゆうんやけど、手伝いたいんやて。そやから、なんでもいったってな。ほんで、この子ォな、実はあたしのお気に入りやねん」
カスミちゃんが意味ありげに笑うと、母さんと姉ちゃんも笑った。
「拓斗のお友だちで、カスミちゃんのお気に入りなら、大事に使わせてもらわなきゃね」
母さんは冗談っぽくそういって、龍平くんに「よろしくね」と、つけたした。
それから、母さんと姉ちゃんは、勝手口からどんどんお料理のお皿や食器類をぼくたちにわたしていった。カスミちゃんから龍平くん、龍平くんからぼく、の順でリレーしていく。
三人でリズムよく運んでいると、ゲームをしているみたいで楽しい。あっという間に、庭に置いたガーデンテーブルとキャンプ用テーブルに、たくさんの料理と飲み物が並んだ。
姉ちゃんが書斎にいる父さんを呼びにいき、ぼくがカスミ荘に行って、愛子姉ちゃんと雄一さん、それにマユカちゃんを呼んできた。
「わあ、すごいごちそう!」
「クリスマスツリーも、きれいだね」
愛子姉ちゃんと雄一さんが顔を見あわせて笑っている。
「さあさあ、愛子ちゃんと雄一さんは、きょうの主役なんだから、真ん中にすわってね」
母さんが、ふたつのテーブルの中央に置かれたガーデンチェアをふたりにすすめた。
愛子姉ちゃんはいすにすわる前に、カスミちゃんのところに走り寄っていった。
「カスミさん、この前は病院に来てくれて、ありがとうございました。血液型、B型なんですってね? それで私が献血が必要になったときのために、病院にかけつけてくれたって聞いて、あのときはほんとうにご迷惑をおかけしました」
愛子姉ちゃんが謝ると、カスミちゃんは「いえいえ」といってから、
「あたしこそ、病院でお礼ゆうのをわすれてしもたんやけど、前にいただいたポップコーン、むっちゃおいしかったです。おおきにさんでした」
「まあ、そんなに喜んでもらえて、よかったです」
愛子姉ちゃんはにこやかにそういって、雄一さんのところにもどった。
いつのまにか、マユカちゃんも出てきて、端のほうに遠慮がちに立っている。
「拓斗くん、それじゃぼくは……」
帰ろうとする龍平くんを、今度は母さんが呼びとめた。
「龍平くん、よかったら、ここでお昼ご飯を食べてってちょうだい。お手伝いしてくれたお礼よ」
「えっ、でも……」
龍平くんが迷っていると、カスミちゃんが龍平くんの肩に手をかけた。
「せっかくママさんがそうゆうてくれてるんやから、そうしぃや。ママさんのお料理はおいしいよって、食べな損するで」
「……でも、いいのかな」
「ええに決まっとるやろ。子どもはえんりょなんかするもんやないで」
そのことばを聞いて、龍平くんがうれしそうにカスミちゃんにうなずいた。
そのとき、ぼくはふと気づいたんだ。
龍平くんはぼくの同級生だけど、もうカスミちゃんの友だちにもなってるなって……。
カスミちゃんがぼく以上に龍平くんと仲よくなったら、フクザツな気持ちになるかもしれないけど、龍平くんの、男のぼくを好きだという気持ちを理解できるのは、カスミちゃんしかいない。
カスミちゃんは五年生のとき、好きな子に告白したといっていた。今、思えば、その相手も男の子だったんだろう。だから、ふたりが友だちになるのは、自然なことのような気がした。
それに、ぼくも、カスミちゃんがいると、龍平くんとふつうにしゃべれるから、すごく助かる。
そんなことを考えていると、父さんが出てきて、みんなにあいさつをした。
「きょうは愛子ちゃんと雄一さんのパーティーに集まってくれて、ありがとう。全員そろったようなので、始めたいと思います。それでは、愛子ちゃん、雄一さん、ご結婚おめでとう!」
父さんのかけ声で、パーティーが始まった。
「おめでとう」
「おめでとう」
ビールやジュースのグラスを愛子姉ちゃんと雄一さんのグラスにぶつけると、ふたりは感激した面持ちで「ありがとうございます!」といった。
いつもは、洗いざらしのシャツとジーンズというかっこうの愛子姉ちゃんが、きょうはクリーム色のワンピースなんか着ちゃって、別人みたいだ。雄一さんもグレーのスーツをかっこよく着こなしていて、ふたりはお似合いのカップルに見える。
「愛子姉ちゃん、すごくきれい。雄一さんもかっこいいし、美男美女のカップルだね」
となりで姉ちゃんがうっとりしている。
「愛子ちゃん、せっかくだから、雄一さんとの出会いや結婚を決めたいきさつをみんなに話して聞かせてよ」
母さんがいうと、愛子姉ちゃんははずかしそうに雄一さんと見つめあったあと、意を決したように話しだした。
「それじゃ簡単に話します。雄一さんとは五年前、仕事でケニアに行ったとき初めて会って、ほんの少しいっしょに仕事をしたんだけど、帰国したあとは連絡することもなく時間が過ぎて、去年、ポルトガルでぐうぜん再会したんです。そのとき仕事のトラブルがあって雄一さんに助けてもらったので、帰国後、お礼に食事にさそいました。それからときどき会うようになって、おつきあいに発展して……。結婚を意識したのは、先月ブラジルに行ってたときです。私の誕生日に彼がサプライズでブラジルに来てプロボースしてくれて……。こういうことになりました」
「まあ、すてき!」
母さんが笑顔をはじけさせ、大拍手をおくった。
父さんがニコニコしながら、雄一さんのほうを向いた。
「ところで、雄一くんは、愛子ちゃんと結婚したいと思ったのは、どうして?」
「ぼくですか? ぼくは……」
雄一さんが照れながら話し始めた。
「愛ちゃんとは、あ、すいません、いつもそう呼んでるのでつい……。えーと、愛子さんとは」
すると、それまでだまってたカスミちゃんが口をはさんだ。
「そこは〈愛ちゃん〉でええやんか。ほほえましいで。かまへんから、愛ちゃんでつづけてぇな」
さっきからニコニコしてふたりを見ているカスミちゃんも、よく見ると、きょうは赤と黒と白のチェックのブラウスを着ていて、それがすごく似合っている。
「それじゃ、あらためまして、ぼくが愛ちゃんにひかれたのは、五年前にケニアで初めて仕事をいっしょにしたときでした。とにかくかっこよかったんです。愛ちゃんが仕事している姿が本当にかっこよくて、ひとめぼれしました。でも、連絡先を聞く勇気がなくて、そのときはそのまま別れました。ですから、去年ポルトガルで再会したときは、もう運命だと思いました。あとは愛ちゃんがいったとおりです。ぼくは今、本当に幸せです」
雄一さんが感激して声をつまらせた。
みんなの拍手にふたりは笑顔で応えながら、愛子姉ちゃんが雄一さんにジュースを飲ませてあげている。雄一さんはアルコールが飲めないらしい。
「ふたりのなれそめも聞けたことだし、さあ、せっかくの料理が冷めてしまってはもったいないので、皆さん、おなかいっぱい食べてください」
父さんがいうと、みんないっせいに料理を食べ始めた。
鶏肉の唐揚げ、煮込みハンバーグ、シュウマイ、チンジャオロース、タコのマリネ、シーザーサラダ……。母さんがゆうべから準備し、きょうの朝からずっとキッチンにこもって作ってくれた料理で、どれも母さんの得意料理だ。
しばらく食べることに夢中になっていたけど、ふと、龍平くんはたいくつしてないかな、とさがしてみると、なんと、姉ちゃんと楽しそうに話をしていた。
「そのピンクのスカート、すごくかわいいですね! サブラナですか?」
「龍平くん、よくわかったねえ。男の子なのに、女の子のファッションブランドを知ってるなんてすごいね。ファッションに興味があるの?」
「はい。将来は、子ども服のデザイナーになるのが夢なんです」
「えっ、デザイナーになるのが夢なの? かっこいいね」
「全然そんなことないです」
ふたりのそんな話し声が聞こえてきた。
龍平くん、デザイナーになりたいのか……。
得意なものなんてなんにもないっていってたけど、好きなこと、ちゃんとあるじゃないか。
人って、外見だけじゃわからないみたいだ。龍平くんの夢、叶うといいなあ。
龍平くんが楽しそうにしているのを見て安心したぼくは、今度はマユカちゃんをさがしてみた。
すると、マユカちゃんは、いちばんおくのいすにすわって、母さんが取り分けてあげた料理を無表情で食べている。全然、楽しそうじゃない。
どうしたらいいんだろうと思ったとき、カスミちゃんがぼくのとなりに来た。
「拓ちゃん、ママさんのお料理、どれもおいしいな。あたし、食べすぎてもうて、どないしよ」
カスミちゃんがおなかをさすりながら、笑っている。
そこに母さんがやってきた。
「カスミちゃん、今、無理して食べなくても、余ったら、タッパーに入れて、持って帰って、明日のおかずにしたらどう?」
「え、持って帰ってもええの? それはグッドニュースや。けど、それ知っとったら、今、無理して食べんでよかったわあ」
カスミちゃんが笑ったので、そこにいた人たちみんなが笑った。カスミちゃんがいるところに、いつも笑いが起こるようだ。
でも、マユカちゃんは笑っていない。むしろ、カスミちゃんをにらんでいるように見える。
姉ちゃんたちは、全部カスミちゃんに任せておけばいいといったけど、これじゃマユカちゃんの誤解を解くきっかけがない。
ぼくはカスミちゃんに「ちょっと来て」といって、玄関のほうへ連れていった。
けげんそうな顔でついてきたカスミちゃんに、ぼくはいった。
「あのさ、よけいなことかもしれないけど、前に、マユカちゃんがカスミちゃんのことにらんでくるっていってたでしょ?」
「ああ、今はあんまし気にしないようにしてんねんけどな」
カスミちゃんがサバサバしたようにいう。
「あのね、なんでマユカちゃんがカスミちゃんをにらんでたかっていうと、マユカちゃんは、コンビニで働いている山ちゃんのことが好きなんだよ。それで、山ちゃんと仲よくしてるカスミちゃんに焼きもちを焼いてるんだ」
ほくが大まじめにいうと、カスミちゃんがポカンとした顔をした。
「なんやて? マユカちゃんがあたしに焼きもち焼いてるて? …んなアホな!」
カスミちゃんはそういったあと、豪快に笑った。
庭の端のほうにいるマユカちゃんを見ると、カスミちゃんの笑い声に気づいたのか、プイッと顔をそむけた。やっぱり誤解はまだ解けてないようだ。
ぼくはカスミちゃんに マユカちゃんの誤解を解くいい方法がないか、たずねてみた。
すると、カスミちゃんがすぐにこういった。
「そんなん簡単なことや。まかしとき」
カスミちゃんは庭の端までずんずん歩いていって、マユカちゃんに話しかけた。
「マユカちゃんって、あっこのコンビニで働いてるやんな?」
カスミちゃんから急に話しかけられたマユカちゃんは、おどろいた表情で固まっている。
そんなマユカちゃんを気にせず、カスミちゃんは話しつづける。
「あっこに、山ちゃんって子ォがおるやろ?」
山ちゃん、ということばに、マユカちゃんの表情がビクッとした。けど、何もことばは出ない。
「山ちゃんって、めっちゃええ子やな。あたしには自分の子ォはおらへんけど、あんな息子がおったらいいやろな思てるんよ。ほんでな、この前、山ちゃんにマユカちゃんのこと聞いてみたんよ」
突然、自分の名前が出たので、マユカちゃんは急に体を前にのりだした。話に興味をもった証拠だ。カスミちゃんがさらにつづける。
「マユカちゃんの仕事の調子がどないか聞いたら、山ちゃんが『大塚さんは一生懸命がんばってますよ。えらいと思います』ゆうとったで。だから、がんばりや!」
カスミちゃんはそういって、ウインクした。冷やかすようなウィンクで、仕事をがんばれ、というだけではない、意味ありげな表情だ。
カスミちゃん、ちょっとやりすぎじゃない? と思ったけど、マユカちゃんは、それほど不愉快そうじゃない。何もいわないけど、顔を少し赤らめて、今の話を聞いて喜んでいるように見える。
カスミちゃんが調子にのって話しつづける。
「あたしはカラオケボックスで働いてるんやけどな、カラオケボックスよりコンビニのほうが覚えることずっと多いと思うんよ。そのコンビニでアルバイトつづけてるのんは、すごいことやと思うで。なあ、コンビニの仕事、大変やろ?」
カスミちゃんの質問に、マユカちゃんがコクンとうなずいた。
マユカちゃん、やっぱり仕事が大変だと思ってたんだ。でも、そう思いながらも、やめずにつづけてきたのかと思ったら、ぼくはマユカちゃんをものすごく見直してしまった。
だって、ずっと他人と関わらずに生きてきたマユカちゃんが、店長さんに怒られたり、仕事で失敗をしながらも、逃げずに仕事をつづけてきたんだもん。それはすごいことだと思う。
マユカちゃんのカスミちゃんを見る目が少しやわらかくなって、ホッとしていたら、カスミちゃんはもうマユカちゃんのそばを離れて、父さんのところに行っていた。
「先生は、もっと運動せなあかんで。パソコンばっかりにらんどったら、寿命ちぢまるよってな、両手のストレッチだけでもするといいんや」
カスミちゃんが父さんの正面に立って、両手を開いた。
「右手はグー、左手はチョキから始めて、グー、チョキ、パーの順で繰りかえすんやで」
カスミちゃんはリズミカルに速くやってるけど、父さんは全然できていない。
「こうか? こうか?」
「ちゃう、ちゃう。右手と左手がいっしょになってるさかい、ほな、最初からやり直しや。はい、右手はグー、左手はチョキからスタートやで」
ふたりのやりとりを見ているみんなが、思わず笑った。マユカちゃんも笑っている。
カスミちゃんが直接マユカちゃんに話をしたおかげで、マユカちゃんの誤解はすっかり解けたようだ。やっぱりカスミちゃんってすごい。
龍平くんが帰るとき、カスミちゃんとぼくで、龍平くんを門まで送った。
「龍平くん、きょうはありがとね。プレゼントも……」
と、お礼をいうと、
「ううん。ぼくこそありがとう。きょうは、今まで生きてきた中でいちばん楽しい日だった」
と、龍平くんが目を輝かせた。
えっ、今まで生きてきた中でいちばん楽しい日だった? そんな大げさな……と思っていると、
「龍平くん、また遊びにきぃや! カスミちゃんは、この庭のおくの三号室に住んでるさかい、仕事のない日やったら、いつでも話聞くで」
と、カスミちゃんが龍平くんの目をのぞきこんだ。
「えっ、また来てもいいの?」
おどろいてる龍平くんに、カスミちゃんが顔を近づけて、ないしょ話をするように声をひそめた。
「ええで。拓ちゃんは忙しいかもわからんから、拓ちゃん抜きで、ふたりでゆっくり話しよ」
カスミちゃんにそういわれた龍平くんは、すごくうれしそうにうなずいて、帰っていった。
ほんとうに龍平くんがカスミ荘に来たら、カスミちゃんとふたりでどんな話をするんだろう。ぼくも仲間に入りたい気がしたけど、入らないほうがいいような気もした。
もし、ぼくに教えたほうがいいと思うことがあれば、カスミちゃんはきっとあとで教えてくれるだろうし、カスミちゃんとぼくは、そのぐらい太い絆で結ばれているのだ。だから、安心して、カスミちゃんに任せよう。
庭にもどると、パーティーが終わっていて、片付けが始まっていた。
愛子姉ちゃんと雄一さん、マユカちゃんも手伝ってくれたから、あっという間に庭はきれいになった。
マユカちゃんが自分の部屋にもどり、愛子姉ちゃんたちも一号室にもどろうとしたときだ。
姉ちゃんが愛子姉ちゃんのワンピースのそでを引っぱって、未練がましくいった。
「愛子姉ちゃん、もうすぐカスミ荘を出ていっちゃうんでしょ? さみしくなるなあ」
すると、雄一さんが、突然思いだしたように口を開いた。
「ああ、いうのを忘れてた。来月から、ぼくの弟がカスミ荘に住まわせてもらうことになったので、皆さん、よろしくお願いします」
「えっ、弟さんが?」
姉ちゃんが聞きかえすと、愛子姉ちゃんがうなずいた。
「そうなのよ。雄一さんの弟さんは、康二さんといって、今大学院生なんだけど、雄一さんにそっくりなの。彩ちゃん、年も近いし、よろしくたのむわね」
「えっ、大学院生? 雄一さんにそっくり? え? え?」
姉ちゃんが、ひとりごとをつぶやいている。
そんな姉ちゃんをほほえましそうにながめながら、愛子姉ちゃんたちは一号室に帰っていった。
父さんと母さんもすでに家に入っていて、庭にはぼくと姉ちゃんとカスミちゃんが残った。
お天気もいいし、もう少し庭でこうしていたいなぁと思っていたら、カスミ荘に帰ったはずのマユカちゃんが、手にコンビニ袋をかかえて庭にもどってきた。
マユカちゃんが、カスミちゃんの前に進み出た。
「カスミさん、さっきはいろいろありがとうございました。これ、リンゴです。食べてください」
マユカちゃんが、袋をカスミちゃんに差しだした。
「え、あたし、なんもしてへんのに、こんなんもろて、ええんかいな」
とまどいながらも、カスミちゃんは、
「マユカちゃん、おおきにな」
といって、リンゴを受けとった。
マユカちゃんは、無言でカスミ荘に帰っていった。
「マユカちゃんが、コンビニ以外でしゃべるとこ、初めて見た」
ぼくが小声でいうと、姉ちゃんがうなずいた。
「ほんと。よほどカスミちゃんにお礼がいいたかったんだね」
「なんや、びっくりしたけど、うれしいわあ」
カスミちゃんが袋の中をのぞきながら、満面の笑みを浮かべている。
「きょうは、最高の日だったな」
思わず、ぼくの口からそんなことばが飛びだした。
すると、姉ちゃんもいった。
「うん。私も最高のクリスマスだった」
「あたしもや。こんな楽しいクリスマスは初めてや」
カスミちゃんもしみじみそういった。
「ねえ、カスミちゃん、お正月にいっしょに初詣行こうよ。拓斗と三人で」
姉ちゃんが突然そんな提案をした。
それもいいかもしれない、と思っていると、カスミちゃんの顔が陰った。
「ああ、お正月はあかんねんよ。久しぶりに、大阪帰ろ思てんねん」
えっ、大阪に?
「カスミちゃん、もしかして、お父さんに会いに行くの?」
思わず聞いてみると、カスミちゃんが少しはずかしそうにうなずいた。
「こないだ、入院したって知らせがあったんよ。もう最後の最後かもわからんから、もっぺん会っとこかな思て」
「そうだよ、会っておいでよ」
「おじさん、絶対喜ぶよ」
ぼくと姉ちゃんがいうと、カスミちゃんは「そやね」と、すなおにうなずいた。
「でも、大阪行っても、ちゃんとカスミ荘に帰ってきてよ」
姉ちゃんのことばに、カスミちゃんが笑った。
「当たり前やがな。あたしのうちは、このカスミ荘しかあらへんのやから」
「約束だよ。カスミちゃん、指切りして」
ぼくは小指をカスミちゃんの前に出した。指切りなんて、何年ぶりだろう。
「よっしゃあ。ほな、指切りするで。指切りげんまん……」
カスミちゃんが大声でいって、ぼくと指切りした。
そのあと、姉ちゃんとも指切りをした。
カスミちゃんのゴツゴツした大きな手、骨ばった指の感触を感じながら、ぼくはきょうのことを一生忘れないだろうと思った。
おわり
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