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月の朔望

今、個人的に旧暦(太陽太陰暦)に興味が湧いている。

旧暦というのは、簡単に言うと月の満ち欠けで日付を認識することができる暦のこと。
月が全部真っ黒になるときが一カ月の始まりで、少しずつ明るい部分が増えていき、満月の状態が15日らへん。そこからまたかけていき、真っ暗になる頃には新しい一カ月が始まる。

月ってのはこんな風に、約一ヶ月かけて地球の周りを一周する。そして、一周する間に右側から少しずつ満月に近づいていき、満月を越えると左側に欠けていく。

その欠け具合を見ることで、今日が何日かわかるようになっている。

これが現行の太陽暦だと、例えば太陽の位置で日付がわかるってことにはならない。カレンダーを見ないと日付がわからないってことになっちゃう。

つまり太陽暦だと、誰かが準備したツールを使わないと日付がわからないってワケで、これってなんだか他人任せだよなって思った。

旧暦で遊ぶようになって、月を意識するようになり、今まで月や天体の動きに無頓着だったなってことに気づいた。なんなら「月」が約一ヶ月かけて地球を一周するってことに改めて気づいた。

カレンダーって便利だけど、自分で考えて使う道具ではなくて、あらかじめ準備されてるものをただ使うだけっていう道具だと思う。

「観天望気」って言葉がある。これは雲の状態や自然現象、生き物たちの行動を見て天気を予測するという昔の人たちが使ってたスキルなんだけど、テレビとか新聞、最近だとアプリから配信される天気予報とは違って、自分たちで天気がどう変化するのかを考える。

要するに、誰かが準備してくれた天気の予測をそのまま鵜呑みにするんじゃなくて、自分たちが考えて予測をする。

便利なコトはいいことだと思うけど、便利さと引き換えに『自分たちで考える』ってことを捨ててしまうことになるんじゃないかな~と思った。

道具ってのは便利で何も考えずに使うことができるモノと、便利とは言い難いし使いこなすためには人間側が技術を身につけないと使えないモノがある。

便利さはいろいろなモノを奪い去る。自分で考える力、構造のシンプルさ、自分でメンテナンスできないから道具に対する愛着だってなくなる。

例えば就職もそう。職場っていうのは『経営者が準備してくれた場所』で、従業員は何も考えずにただそこで働けばいいだけ。でも何も考えないことに慣れている人たちは経営者から搾取されても、ただそれを受け入れるだけになっちゃってる。働いてりゃはした金だけど勝手に金は入るし、何も考えなくていいから便利だ。

でも自分が何かを作って自分で売ってお金を稼ぐ。何もかも自分でしないといけないのは便利じゃないし、たくさんいろんなことを考えないといけない。

そうすることで、考える力はつくし、生きる手応えみたいなのも感じるし、ある程度のことなら自分で調整できる。不便だけどね。

何も考えなくていい便利さに慣れてしまうと、テレビや雑誌、新聞に書いてる嘘っぱち情報をそのまま鵜呑みにしてしまって、メディアに簡単にコントロールされてしまう人間になってしまう。

準備されたカレンダーで何も考えずに日付を見るだけじゃなく、空を見上げて月を観て今日が何日か考える。
ちょっと不便だけど、何も考えない人間になってコントロールされないためのちょっとした訓練だと思って空を見上げる。
それに少し手間がかかるほうが面白い。「手間」を楽しむためには道具はシンプルな方がいい。

計算尺やそろばんも、ちょっと不便だけど自分で考えながら使う道具だ。
使うのにある程度の技術と少しの手間が必要。
電卓を使えば手間も技術もいらないし便利。

道具に使われるのではなくて、道具を使う人間でいたいな〜などと考えていたら、もう春がそこまで来てるな。
今日のお月様はどんな表情をしてるんだろう。

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