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物の見方に表れる誠実さっていうもの

これはもう沼に足を取られてるのかもしれない。ほどこうとするほど糸がからまっていって、おもしろくなってしまう。

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今回の指摘には、「信頼できる物はよいものだ」という仮定であったり、「信頼しているものをよいと思いたい」という信念があるように思う。

読んでいて「あっ」と思った。
わたしは「信頼」と「信用」を混在して認識していたかもしれない。でもここでさらに別の単語を持ち出すと収集がつかなくなるのでやめておく。

私は普段、物事を良い・悪いと判断する時、なるべく「〇〇の観点で」という言葉をつけるようにしている。物事を良い・悪いとする行為自体が相対的評価であると、私は考えているからである。視点を示しておけば、改善の余地が残る。また、ある一方から見れば悪いことも、別の一面から見れば良いこともある、と自分の思考を柔軟な状態にしておける。

これはしっかりと同意できる。どっち側から見るかによって、物事はいくらでも反転する。何らかの判断を述べるなら、どの見地に立っているのかを明示しておかなければ筋が通らない。ここにあるのは、他の価値観を許容する余地だ。その必要性については疑いようがない。

人それぞれ大切にしたいことは違う。人の思考によって行動が決まるならば、思考が違えば行動も違ってくる。思考と行動が違うならば、自分と相手の行動も変わってくる。大切にしている物の違いから生まれる、齟齬や期待とのギャップが発生するのである。この時に、自分の重要視しているポイントが不明瞭なまま、価値判断を下してしまうと独善的な判断になってしまう。

でも多くの場合、その価値観を言語化したり、事前確認したりすることは少ない。
それこそ、ビジネスシーンであれば契約や取引、交渉といったシーンを借りて行うはずだが、普段の生活ではそこまで明確にコンセンサスを取らないのではないか。ズレがある状態でコミュニケーションを重ねていくと、遠ざかったり周回違いになったりするだろう。
それを回避するために、たとえば「信頼できる」と「信頼する」をきちんと使い分けようとしているのだとすれば、山本さんは自らの思考に基づく行動を誠実にやってるだけという話になり、理解が容易になる。

仮に、良し悪しの判断が信頼に大きく依拠しているとしたら、それは「あなたが信頼性というものを、他の観点よりも大切にしたいと思っている」という現れである。信頼性を重要視することは悪いことでは全くない。しかし、自分の中にある重要度を、自分自身が認知せずに、良し悪しの判断を下しているのは恐ろしい。

良し悪しの判断に関して、わたしは信頼性を他よりも重視しているのだろうか?
それは状況に依るとしか言いようがなくて、たとえば子ども用品は多くの物が一過性なので(サイズアウトとか、子どもの興味がなくなるとか)わたしはあまり信頼性を重視しない…ような気がする。それこそ価格や購入の手軽さなどの方が、たぶん大切だ。

でも、そもそも自分にとって信頼性の重要度を体系立てて考えたことはなかった。購買活動なら他の人とのコミュニケーションはあまり発生しないが、それ以外のシチュエーションだったら、まずは自分自身の理解を把握して、そのうえで他の人とのギャップをどうするか考えるべきだろう。その意味で、上記の言及はわたしに新しい発見をもたらしてくれている。

独善自体を否定するつもりも全くない。しかし私は、相手が大切にしたいと思っている考えと、私が大切にしたいと思っている考えをうまく調和したい。そもそも私にとっての信頼はなんだったのか。相手はどうしてその行動をしようと思ったのかを考える余地を残したい。

これはまさしく誰かとわかりあおうとする時に大切なこと、わかりあいたければ不可欠な姿勢だと思う。
なかでも「調和したい」が、山本さんっぽなぁと思う。彼は一見すると「ダメならダメで仕方ないんで、別の良い方策を検討しましょう」といった雰囲気の、さっっっぱりした感じの判断や物言いをする人に見えるが、想いの部分はそうでもない。

この取り組みの本質にかかわるところでもあるけど、誰かとの歩み寄りをあきらめようとしないからこそ「良し悪しの判断は最後において、まずはありのままをみたい」と考えるんだろう。どこまでもフラットな姿勢に浮かび上がるのは、なんていうか…誠実という言葉が一番近い気がする。

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この作品は、共創プロジェクト『不協和音』の作品です。このプロジェクトでは、エッセイを通してお互いの価値観や発見を共有し、認め合う活動をしています。プロジェクトについて興味を持ってくださった方は、以下の記事も合わせてご覧ください


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