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真っ直ぐゴールに向かえないなら、とことん脱線したらいい。

いつもやるべき事から逃げて悩んでいる人は、とことん脱線したらいいと思う。

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私はエスカレーターの降りが苦手だ。あの足元からすぅうー、すぅうーと出てくる踏み板に乗ることができない。「乗らなきゃ」と思って足に命令を出すのに一歩踏み出せないまま板を見送ってしまう。「あ、いってしまった・・・」と思っている間に、次の板がすぅうーっと出てきている。
焦る。後ろに人がいるとさらに焦る。
何とか踏み板の上に両足が収まった時は「乗れた...!」と安堵せずにはいられない。いつもドキドキなのでなるべく階段を使う。

接客や電話応対で「ありがとうございます!」と言わなければならないタイミングがある。この「ありがとう」の「あ」が出ない時がある。あがり症なわけでもないし、話すことが苦手なわけでもないのに、突然「あ」が出なくなる。出そうとするのだけど口が「あ」の形になったまま、声が喉のところで詰まって出てこず口がパクパクするだけで、「....りがとうございます!」のようになってしまう。気合で強引に出そうとすると「ありありありがありがありありがとうございます!」となる。周りは「ど、どうした、どうした?!」と怪訝な顔で見てくるしお客さんも固まってるしで、えへへ、すみませんと笑って誤魔化すしかない。

これらの現象は何なのかと謎に思っていたのだけど、理由が分かってきた。
目の前の物事を注視し過ぎてしまうのだ。
ひょいと目の前に現れたものに意識のピントが合いやすくて、一度合ってしまうと外せなくなる。ピントを合わせ続けるとだんだん凝視状態になってくる。それに耐えられなくなって目をそらしてしまう。
目の前ギリギリに鉛筆の先を突きつけられると、ものすごく圧迫感を感じるのに目が離せない、そんな感じなのだ。

エスカレーターの踏み板にピントが合いすぎるから、足を出すタイミングが遅れる。「あ」にピントが合い過ぎるから、第一声を発することに躊躇してしまう。

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これが、何か取り組まなければいけない目標がある場合にも起きる。「絶対やるぞ」と思うものほど、できないのだ。先延ばしたり、無関係な別のことを始めてしまったり。自分で立てた目標なら、ほぼ3日坊主。
納期のある仕事だと、これは致命的だった。締切り迫る大物を放置して、まったく急ぎでも何でもない仕事を優先してしまう。

結果、(やらなければいけないのに、何でできないんだ)と自責が始まって、(やっぱり私は意志が弱いんだ。やり切る力がないんだ)と自分へのあきらめが強くなって、何か始めようとすることも避けるようになってしまう。


でも、もうよくない? これ、悩まなくてよくない?

目の前にあるものからのプレッシャーを感じやすいだけなのだ。
テスト前に掃除したくなるのと一緒なのだ。テストでは悪い点採るかもしれないけど部屋は綺麗になるじゃない。何もできないのではなくて目の前に置かれたこととは違うことをしてしまうというだけだ。

目的・課題・クリアすべきゴールなどがプレッシャーになってやるべきことから逃げてしまうなら、この性質を利用する方がお得だ。やるべきこととは違うことを「やってもいい」ことにしたらいい。
これなら、やるべきことを一旦置いておいて違うことに気が向いてしまっても、後めたい気持ちや自己嫌悪を感じなくてすむ。しかも、一度別の対象に気がそれると、不思議と当初やろうとしていた事に取り組めるようになっているのだ。
円になってボールを隣の人にパスしていったら、最終的に元の人に戻ってくるような感じ。

脱線を楽しみながら一周する頃には、思いもよらない知識やら経験やら成果物が増えている。これが後々、巡り巡って新しい閃きに繋がったり問題解決の糸口になったりすることもある。

頂点をひたすら目指す登山家には向かないけれど、気ままな探検家にはなれるのだ。自由に行きたい土地に行って存分に探検したらいいと思う。あちこち行けば行くほど、オリジナルな冒険譚が出来上がるに違いない。

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