ナンバガ復活。自問自答。

 ナンバーガールが復活する。夜中、仕事帰りの六畳で、「わー」と大声を上げてしまった。そんなことはありえないと思っていた。もう昔の話と思っていた。それが見れるなんて。俺は興奮を抑えきれないでいた。

 久しぶりにCDを聞いた。やっぱりかっこよかった。高校生の頃を思い出した。誰もわからない NUM-AMI-DABUTZ をカラオケで歌ったことを思い出した。大学一年生、軽音サークルを訪ね、好きなバンドはと聞かれてナンバーガールと答えたことを思い出した。他にも好きなバンドはいっぱいあったけれど。好きな曲何?って聞かれて全部好きだけどなあ、たとえば MANGA SICK って言ってもどうせ伝わんないかなあとか、考えてごもごもしていたら、「俺はMANGA SICK」って言われて、嬉しさ50、悔しさ50で「いいですよね。」って言って、知らない癖に合わせてるみたいに思われてるんだろうなあと思って、悔しさ100になったりしたことを思い出した。色んな OMOIDEIN MY HEAD 状態 だった。
 (あの音楽サークル特有のマウントの取り合い嫌だったな。俺はお前の知らないこんなの知ってるよみたいな。って思ってたら、ナンバガ復活記念でロッキンユー!!!という漫画が全編無料で公開されていて、そのことが書いてあって熱かった。ロッキンユー最高に青臭いんで読んでみて!ナンバガの話から始まるから!)

 俺は興奮していた。

 しばらくしてドラムス・アヒトイナザワがネトウヨという騒ぎになった。好きなbonobosの人が怒っていた。当人からしたらたまったもんじゃないなと思った。でも憎しみを憎しみで返してしまうのは違うのじゃないかと思った。
 それは俺がマジョリティーの側だから言えることで、マイノリティーの側からしたら溜まったもんじゃない。マジョリティーだろうがマイノリティーだろうが自分の問題だ。関係ない話ではない。でもマジョリティーでいることはそれを数で薄れさせる。母数が多いから、霞んでくる。他人事みたいに思ってるんだろうと思われてしまっても仕方がない。それでも憎しみを憎しみで返してしまうのは違うのじゃないかと思った。

 ナンバーガールという存在は思想を超えた熱量だし、ナンバーガールに限らず、音楽を好きになることは思想を超えた熱量だ。音楽と思想は別?、音楽と政治は別?そうは思わない。思想や政治はジャンルじゃない。あらゆる表現、発言、行動にそれらは含まれるものだ。だからその問いはナンセンスだ。思想や政治が完全に存在しない表現はありえない。何かを表現するという行為が、思想であり政治であるからだ。しかしだからこそ思想や政治に近づきすぎたものは、何か違和感を感じさせるのも当然である。でもそもそもそういう煩悶を起こさせるようなものだったとしたら、俺はそれを好きにならない。だってセックスピストルズはかっこいい。

 あんなに政治的なセックスピストルズがかっこいいのは、熱量があるからだ。昔のイギリスでアナーキーと歌ったことがどれだけ政治的で文字通り過激で反体制的なことだとしても、それは今の日本で聞く俺にとって大した問題じゃないのだ。単純にかっこいい、ただそれだけ。もちろん興味を持って調べてみることも大事だけれど。(他人事と言い切れない部分もあるだろう。多分どんなことにも。)
 むしろセックスピストルズを好きと公言することが、そのままその人の思想と見られてしまうような時代でなくてよかった。同じようにナンバーガールを好きと公言することが、そのままその人の思想と見られるようなことはないだろう。そもそもナンバーガールの思想とはなんだ。向井には向井の、田渕には田渕の、中尾には中尾の、アヒトにはアヒトの思考がある。それらはまったく別々で、まるで違う。全く違う人と人が、ただ一つのそのバンドの音としか表現できないような、音を鳴らす。それがバンドの凄さだ。そしてナンバーガールの音は、間違いなく唯一無二の、ただ一つの音なのだ。ただ一つの熱量なのだ。

 ナンバーガールはそういう熱量だった。俺にとって。

 じゃあこの問題を無視すればいいのか。ことはそう簡単ではない。それは重大な、とても重要な問題であるからだ。ヘイトは許せない行為だ。そんな行為が行われてしまうことに怒りより悲しみが強く沸く。しかしヘイトを発言した人は、社会に居てはいけないのか。何かを発することはもう許されないのか。許されないことだからと単に排斥してしまうことが、また新たな憎しみを生むのではないのか。

 そもそもなぜ外国人を疎むのか。或いは憎しむのか。
 それは貧しいからではないか。外国人が悪いわけじゃない。そんなの当たり前だ。でも当たり前のことはちゃんと口にしなきゃいけない。当たり前が当たり前じゃないこともよくあるし、当たり前と思ってることが全然おかしいこともある。だからとりあえず口にしてみるのが大切だ。「外国人が悪いわけじゃない。」口にすると、確かにそう思える。それと同時に少しの違和感がある。
 まず外国人という言い方に、個人は存在しないということ。総称で呼んでしまってる時点で、個人の目など、呼吸など、そこには存在しない。日本人という言葉もまた一緒だ。そこに俺もいないし、誰もいない。
 「が悪いわけじゃない。」では誰かが悪いのか。また誰かのせいにしようとしてはいないか。

 自問自答

 貧しさの理由は何だろう。理由は一つじゃない。様々な要因が複雑に絡み合った大きな問題だ。だからそれはわかりにくい。誰のせいにもできない。誰かのせいにしてしまえば楽だろう。

 ナンバーガールというバンドが、一体幾人の心を彩ったろう。ドラムスアヒトイナザワがどれだけのキッズを興奮させただろう。そんな存在が貧しさを感じているのだ。なんだかおかしい気がする。多分、アヒト自身も思っているに違いない。なんだかおかしい気がすると。そして思考を停止してしまった。おかしさを関係ない人のせいにして。

 向井は再結成にあたりこんな文章を上げている。

「2018年初夏のある日、俺は酔っぱらっていた。そして、思った。
 またヤツらとナンバーガールをライジングでヤりてえ、と。
 あと、稼ぎてえ、とも考えた。俺は酔っぱらっていた。(後略)」

 「稼ぎてえ」のだ。
 俺は思う、稼いでほしいと。

 でも俺は貧乏だ。貧しい。それでもお金をはたいて、ナンバーガールを見たいと思う。それは思想でも政治でもない。熱量だ。

 こないだ役所にお金の相談に行った。役所の人はこう言った。「こちらでは手取り十万あれば生活できると考えています。」

 俺は聞きたかった。「生活とは何のことを言ってるのですか」と。「あなたの生活は十万で足りるのですか」と。

 他人事なのだ。関係ないのだ。それはこう言い替えられるのかもしれない。私たちはマジョリティーで、あなたたちはマイノリティーですと。

 一体、生活とは何のことを言っているのだろう。家賃を払い、お風呂に入り、ご飯を食べ、洗濯や掃除をし、職場と自宅を行き来し、寒い日には暖房をつけ、暑い日には冷房をつけ、布団の上で眠る。そのことを言っているのか。それは生活か。ただ行政に金を納める為に生きているだけじゃないか。そこに生命はないじゃないか。

 役所の近くの掲示板には小学生の習字が飾られている。
 「いのちの輝き」「いのちの輝き」「いのちの輝き」「いのちの輝き」

 友達と遊ぶとか、マンガを読むとか、ゲームをするとか、ツイッターを見るとか、写真を撮るとか、おいしいカレー屋を探すとか、ちょっと贅沢して今日は寿司でも食べるとか、家で録りためたビデオを観るとか、今日は煮付けに挑戦してみるとか、町で見つけたかわいいサンダルを買うとか、友達と勢いでソウルに遊びに行くとか、それでお世話になってる人とかにお土産を買ってくるとか、ちょっと遠出してライブを見に行くとか、神社にお賽銭して願い事するとか、たまに帰省して親に顔見せるとか、そういう全部が生活じゃないのか。
 別に贅沢は言っていない。(寿司だって毎日食うわけでも、毎月食うわけでもない。でもたまの贅沢くらいないとやり切れない。)でも手取り十万ではどれもできないだろう。
 俺はおかしいことを言っているだろうか。少なくとも、これくらいしてもバチがあたらない位には働いているつもりだ。

 でも俺はヘイトしない。これは社会の問題だからだ。誰かのせいではないのだ。社会の問題というのは、自分が所属している社会の問題ということで、それはつまり自分の問題でもあるからだ。「憎しみからは何も生まれない」とは一体いつから使われている言葉なんだろう。

 この文章で誰かを批判する気はさらさらない。収入の少ない仕事をしているが、それも俺が選択したことだ。
 でも選択の自由もなく、貧しい人もいるだろう。
 選択したと思わされて、本当には流れのままに、貧しい人もいるだろう。
 よくわからないまま、貧しい人もいるだろう。
 誰かの貧しさは、その人だけの問題だろうか。

 貧しい人が増えている。なんとなくそんな気がする。
 じゃあどうすればいいのか、社会はどうなればいいのか。俺にはわからない。それでも考えてみるのは悪くない。

 どちらの憎しみも、「貧しさ」がなければ生まれないような気がした。

 とりあえず、俺は素直に「稼ぎてえ」と言う向井が、なんだかとても素晴らしく思えた。

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