信仰

空に雪が降っている。空に向かって。空に向かって。雪が降り、向こうの空に消えていく。私の目の前に冬が見えている。
それは芒の穂綿だ。見えない風に吹かれて空に向かって降っている。向こうの春を見透かして、冬を呼びつけている。思わず私は立ち止まってしまった。この感動は今までここを行き過ぎた多くの人を待っていたであろう。風景に対する感動というのは、それが只私の前だけにあるような感覚からやってくる。だからそれは私の心象を象るだろうし、風景として残ってしまうものは、心象風景である。
群生する芒が行き過ぎる人の目の前に、心象風景を形作る。そんな事が何度もそこで重ねられてきて、私が今ここに立っている。私は授業に急がねばならない。今日早めに家を出たのはこの寄り道の為であったのだろう。
ここら辺りは塚になっていて、高低差の激しい。群生する芒の近くには、下の道と上の道のあいだで曝された土が崖のようにひらかれているところがある。その崖はまるで取り残されているようで、一体何から取り残されているのだろう。私はそれを見るとまるで戦争のようだなと思う。
芒から崖までの道を歩いていると道に馬の頭が置かれている。それは打ち棄てられたのではなくただ置かれている、整然と。それはあまりに静かに置かれているため、生首といった印象はなく、私の眼には自然と、風景として映っている。その馬の生きた心地というものは風に過ぎたようである。だから腐るようでもない。虫も見当たらない。
音もなく。匂いもなく。多分感触もないだろう。ただ五感の内、視覚にだけ許された風景としてそこに置かれているのである。
馬の黒い瞳は薄く湿っていて、そこに小さくほこりが積もっている。それが膜のように馬の視界を覆っており、その風景はきっと美しく、その色に馬のこころを見られるだろう。
起こるすべてが幻のように見える。ひょっとしたら私が毎日毎晩見させられている景色はすべて幻なのかもしれない。でも今私は見ている。私自身の視力でもって風景を見ている。だからこれはきっと幻ではない。
告白しよう。ほんの一瞬のこと、私は馬の瞳でものを見たのです。白く覆われた風景を見たのです。だからそれも幻ではない。
私は生きている内に幾つ嘘を吐いたのだろう。いや、幾つ本当のことを言えたというのだろう。本当のことは言葉にできない。それは私の中にしか形作られない。誰かに向けてそれをひらくことができない。たとえば心象風景は本当だ。しかしそれを嘘吹かなければ伝えることはできない。
ところで見えない風というのはどうやらあるらしい。あの上を飛ぶ鳶が視ているものを、私に教えてくれないだろうか。あそこは空か。どこからが空か。手の届かないところからか。
みな孤独に過ぎる。空中の鳶と群生する芒と戦争のような崖と、私は孤独でなどない筈だ。それらもまた孤独でなどない筈だ。孤独などない筈だ。孤独のような顔をしてそれらが呼応して私の心にすみつく。
歩行を大事にしたい。しかし気つけば仮面が遣って来る。ずぅと睨んでいる。仮面の裏には何もいない。何所までも遠くまで向こうまで何もいない。それは私の信仰だ。きっと永劫苦しめる。私のまっかな信仰である。

サポート頂けると励みになります。