ねもじか復活おめでとちょ。

いつもこの時間にラジオをつければ、その人の声が聞こえてきて、聞きなれたタイトルコールやジングル、アドレスや提供読みに安心する。ラジオはそこにあるということが何より大切で、それは日常の一部だ。でもラジオリスナーはその日常がいつか途絶えてしまうことを知っている。好きな番組が終わる度に孤独を感じ、次の週にやってくる空白の時間を何度もやり過ごしてきた。何度も何度も。だから日常の大切さやかけがえのなさを誰よりも知っているのかもしれない。

ねもじかとは根本宗子と長井短のことだ。二人のオールナイトニッポン0が一夜限りの復活をした。そこには前と変わらないオールナイトニッポンがあった。あの頃の日常がそこにははっきりと帰ってきていた。ふるえた。

一瞬で過ぎ去っていく1時間半。がちゃがちゃと騒がしい時間が過ぎ去り、朝ぼらけのゆったりとしたラジオがまた始まる。その騒がしさが一層終わりの寂しさを引き立て、一層復活のありがたさを思わせる。

くりぃむしちゅーの復活もぼくをあの頃の日常へと戻してくれた。両親に隠れて声を潜め布団にもぐって聞いたオールナイトニッポン。親が起きてしまうからと笑い声をこらえるから腹が裂けるんじゃないかと思うくらいに痛くって、毎週息切れを起こしたオールナイトニッポンだ。

根本と長井は才気に溢れていて、本業でも活躍の場を広げている。そのギラギラとした才気が、深夜のテンションと共に、めちゃくちゃに過ぎ去っていくラジオはかけがえのないという慣用句にぴったりだ。彼女らがぼくの生活に近い日常を送っていることが、その才気を一層きらめかせる。

今一番好きなハライチのターンは、特に岩井のフリートークが好きだ。何も起こらない日常を独特の感性とトーク力で何かが起こっているように聞かせる。時に嘘も交えながら話されるフリートークは、他のラジオでよく聞く芸能人通しの豪華な交流と違って、ぼくの生活に一続きな日常だ。それを面白く魅せる岩井のトークに感動するのだ。オードリーもそういうトークが特に好きだ。若林がマグロのしょうゆ漬けを作るだけの話なんて、日常でしかない。なのに面白いのだ。

ねもじかのフリートークは決して上手くはない。芸人みたく完成されていない。でもそのいびつさの中に隙間の中に、聞き手の居場所があり、そしてそこに突然強い光が差し込んだりするのだ。完成されていないから予測ができない。思わぬところから笑いがやってくる。そのラジオはびっくり箱、あるいは遊園地。二人はディズニーランドと言った方が喜ぶかもしれないが、ああいう完璧に構築された空間じゃなくて、どちらかというと外の世界が見えるUSJ。隙だらけだけどそれは上質なエンターテイメント。

眉村ちあきの「ブラボー」という曲は、金曜ブラボーというラジオ番組に贈られた曲だ。そこにはこんな歌詞がある。

金曜は君の声が聞ける約束じゃない 次会うときは6回り大きいよ

月曜はねもじかの声が聞ける約束だったし、火曜は上田に有田の声が聞ける約束だった。ひどいじゃないか。放っておかないでくれよってメールを送る相手もいない。やってくるのは空白の時間だ。また面白い番組を見つけて、聞いていてもそれは別の日常で、あの日常とはまた違うのだ。

次やるときにはもっと成長していたい。メールも読まれるようになりたいし、今背伸びしたよりもずっと大きく生きていたい。6回り大きいよと言い切りたい。そしたらそこでよみがえる日常はずっと大切なものになっているだろう。愛着とはそういうものだ。

根本宗子と長井短のANN0。面白いラジオはいっぱいあるけれど、こんなに楽しいラジオは他に知らない。

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